真田幸村は、関ヶ原の戦いや大坂の陣で敗戦はしたものの、主要な敵を足止めしたり、真田丸を作って敵を一蹴したりして活躍した武将として歴史に名を残しています。

幸村についての記述では、「豊臣家に対する忠誠心が厚い」「最期まで戦い抜いた英雄」などのフレーズで紹介されることが多く、魅力的な人物として語られています

現代も人気がある武将ですが、当時幸村の周囲にいた人物が語った彼の人物像はどのようなものだったのでしょうか

調べていくと、周囲が語った人物像や幸村が残した言葉の数々から、彼の性格の片鱗が垣間見れます。今回は幸村や周囲の人物が残した言葉に注目して、幸村の性格についてご紹介いたします。

真田幸村の性格 | 伝記に残る兄が言い残した姿

真田幸村の兄 信之が言い残したとされる幸村の性格について解説していきます。

幸村君伝記に幸村(信繁)の人物像として史料に残された言葉を見ていきましょう。一体どのように書かれているのでしょうか。

生まれながらの行儀や振る舞いは普通の人と異なるところが多かった

幸村君伝記の最初の部分には、「信繁が天下に名を挙げたのは当然のことである」と書かれているようです。

上記の言葉からも分かるように、兄 信之は幸村の行儀や振る舞いが普通の人とは異なることが多かったと語っており、いずれ歴史に名を残すような活躍をすることが最初から分かっていたのかもしれません

信之は、自分の性格に関して「恰好はつけているが中身は伴っていない」と謙遜するような言葉を残していますが、そんな彼が弟の幸村を下げることなく褒めている点から見ても、幸村は真田家のあとを継ぐのにふさわしい武将だったということが伝わってきます。

結果を残す前から、普通の人とは異なる点が多かったと語られる幸村の凄さがどのようなものだったのか詳しくは分かりませんが、周囲にそう思わせる魅力があったのは確かです。

物事には柔和・忍辱であり言葉は少なくして腹を立てることがなかった

兄 信之の言葉から受け取れる真田幸村のイメージは、周囲とは一味違うことで偉そうにふるまったり、相手を力でねじ伏せたりし多様に感じます。しかし、幸村は決してそのような人物ではなかったようです。

多くは語らないが基本的には物事に柔和で忍耐強く、腹を立てたり相手をののしったりすることはなかったといわれています。

幸村の忍耐強さは、人質としての期間や九度山での長い幽閉生活を耐え抜いこと、豊臣家に最後まで忠誠を誓ったりしたことからも分かりますが、家族から見てもそのような性格だったようです。

このような穏やかな性格だからこそ、幽閉先であってもどこでも幸村の周囲には人が集まったのではないでしょうか

信繁(幸村)は国郡を領する誠の侍だった

兄 信之が弟に対してどのような思いを持っていたのかが一番よく伝わってくる言葉です。

信之と幸村は、関ヶ原の戦いの前に真田家を存続させるために敵味方に分かれて戦うことを決めて犬伏で別れていますが、兄は幸村が死罪になるのを防ぐために徳川家に懇願しています。

敵味方になったとしても、幸村は兄にとっては悪く語ることができない存在であり、国郡を領する資格がある誠の侍だったと語るほど、幸村を高く評価していたことが分かります

本当は自分ではなく幸村が、真田家の当主になるのにふさわしい人物なのではないか、と兄信之は感じていたのではないでしょうか。

これらの話から、兄から見た幸村は優秀な人物であったということがよく伝わってきます。

周囲が語る真田幸村の性格

次は、周囲にいる人物が語った真田幸村の性格について解説します。

やはり現代にも語り継がれている幸村の性格と一致する部分も大きく、敵であった家康ですら高い評価をしていることからも、彼がいかに優れた人物であったのかが伝わってきます。

忠誠心が厚い

現代も幸村の性格をあらわすときによく使われている言葉のひとつです。

忠誠心の厚さは、幸村が豊臣秀吉に出会ったときから、秀吉の死後当主が変わっても最期の瞬間まで続いたとされている説が有力とされています。

負け戦になると分かっていながら関ヶ原の戦いでは豊臣軍につき、大坂の陣でも徳川家康から寝返るように要請されたのも断って、命を捨てる覚悟をして徳川本陣に攻めたのは有名なエピソードです。

戦況によって自分が生き残るためにどこに付くのかを変えながら生きていた戦国武将の中で、負けると分かっていながらも豊臣家に最後まで仕えていた幸村は、周囲からみても忠誠心が厚く信頼できる人物だったようです。

軍事に長けている

真田家といえば、幸村が誕生する前から武田信玄に仕えていたとされており、幸村自身も父昌幸を通して武田家の軍略を授けてもらっていたようです。

それだけではなく、人質となった上杉家や豊臣秀吉のもとでも人間力や知力を学び、関ヶ原の戦いのあとは父からも九度山でさまざまなことを学んだため、幸村の軍事や知略は周囲から認められるものとなっていきました

その力を認められていたからこそ、豊臣家の家臣である大谷吉継の娘を正室に迎えたり、大きな戦いで軍事会議に参加を求められたりしていたのでしょうし、徳川家に寝返るように要請されていたのだと思います。

また、その軍事や知略を授けてもらうために九度山まで訪れる者もいたともいわれています。

気さくで周囲とすぐに打ち解けた

こちらは、前述した兄が語った幸村の性格とも一致する部分がありますが、あまり周囲に腹をたてたりののしったりすることがなかった彼の周りには、いつも笑い声が絶えなかったそうです。

人をまとめるリーダーシップがありながら、決して威張らずに気さくに周囲と打ち解ける幸村。そんな彼の周りにはいつも人が集まっており、幽閉先の九度山まで訪れる人物もいたといわれています。

人として魅力がある幸村だからこそ、最後の戦いであった大坂の陣では、負け戦だと分かっていながらも突撃する彼についてきた配下がいたと考えられます。

周囲から「この人に最後まで付いていきたい」と思わせることができた幸村は、本当に魅力のある人物だったのだろうということが伝わってきます。

最後の敵徳川家康が語る幸村の性格

徳川家康と真田幸村といえば、関ヶ原の戦いのときから長く敵同士として対立しています。

大坂の陣の際には、幸村を自分側に寝返るように要請していたことから、家康は幸村を恐れておりその軍事や知略も認めていたということが分かります。

それでも最後まで徳川家に付くことはなかった幸村に対して、家康は一体どのように感じていたのでしょうか。

子孫が語るエピソードの中に、家康は本当は幸村のことが好きで一緒に酒を酌み交わしたかったと語っていたというものがあります。

その真偽は分かりませんが、これまで紹介してきたように、気さくで誰とでも打ち解ける幸村の姿は、敵である家康にとっても魅力的に映っていたのかもしれません。

真田幸村の性格をあらわす言葉

ここまで真田幸村が周囲の人物からどのように見られていたのか、詳しく解説してきました。

最後に、幸村が残した有名な言葉の数々から、汲み取れる幸村の性格について解説していきます。ぜひこちらもお読みください。

関東勢百万も候へ、男は一人もなく候

こちらの言葉は、大坂夏の陣の中で幸村含む豊臣軍が伊達政宗の軍勢と戦った道明寺の戦いのあとに放った言葉とされています。

大阪夏の陣は、ご存知の通り豊臣軍にとっては負け戦で、道明寺の戦いでも幸村が到着したときにはすでに劣勢の状況でしたが、そんな中でも幸村は奮闘して伊達軍を一蹴し、追ってくる敵がいなかったときにこの言葉を叫びました。

簡単にいえば、「関東には兵士がたくさんいるが弱すぎて誰も相手にならない」という意味です。

負け戦の中で、これほど強気な言葉を放つことができるのは、彼の強さやかっこよさ故だと感じました

今はこれで戦は終わり也 あとは快く戦うべし 狙うは徳川家康の首ただひとつのみ

こちらの言葉は、幸村の最後の戦いとなった大坂夏の陣の際に、負け戦だと覚悟した場面で放った言葉とされています。

その言葉の通り、「この戦は負け戦だと分かっているが、家康の首だけは取るために本陣に突撃しよう」と仲間に向けて語った言葉です。

実際この言葉のあと、幸村は少人数で徳川本陣に突撃し、家康に自害を何度も考えさせるほど追い詰めたといわれています。

家康の首を取ることは叶いませんでしたが、戦には負けても相手の大将の首だけは取りたいという強い思いがこの言葉や、彼の行動にあらわれていることがよく分かりました。

日本の半分をもらっても寝返るつもりはない

こちらの言葉は、大坂冬の陣のあと徳川家康から信濃一国を幸村に与えることを条件に、徳川軍に寝返るよう要請された際に、これを拒否した幸村が放った言葉とされています。

家康は、幸村の戦いの強さに脅威を感じていて、このあとの戦いが勝ち戦であることは分かっていても、何とか彼を味方につけたいと思っていたためこのような要請をしました。

ですが幸村は、最後まで豊臣家に忠誠を誓うことを決めていたため、上記の言葉とともに家康の要請を拒否します。

史記でも「忠誠心が厚い」と度々いわれている幸村ですが、彼が残した言葉からも、豊臣家に仕えて裏切ることなく最期を迎えると決めていたことが読み取れます。