徳川家康には有能な武将・家臣が多くいます。
織田信長や豊臣秀吉の家臣には有名な武将も多いですが、なぜか徳川家康の家臣はあまり有名ではありません。
2023年放送のNHK大河ドラマ「どうする家康」で、ようやく名前とどんな人物だったのかが理解できたという方が多かったと思います。
徳川家康の家臣を詳しく見ていくと、織田家臣団や豊臣家臣と比べても、決して見劣りしない実績を持っていると分かります。
事実、長篠の戦いや小牧・長久手の戦いを見ても、徳川家臣は数々の武功を挙げています。
そして、これらの家臣の末裔は、後々まで徳川幕府を支え、老中などの重職についています。
徳川家康に重用された「四天王」と功績を立てた16人の武将「十六神将」を中心に徳川家臣団を見ていきましょう。
徳川家康 家臣一覧
名前 | 呼称・立場 | プロフィール |
---|---|---|
井伊直政 | 四天王 | 初代彦根藩主。赤備えで有名な「井伊の赤鬼」だが、外交面にも優れている。 |
酒井忠次 | 四天王 | 家康の人質時代から仕えており、家臣団のまとめ役。 |
榊原康政 | 四天王 | 家康の小姓から仕えており、戦上手である。 |
本多忠勝 | 四天王 | 生涯57回の出陣で傷ひとつ追っていないという伝説がある。槍の名手。 |
米津常春 | 十六神将 | 桶狭間以前から仕えており、戦功が多い。目の病により蟄居。 |
高木清秀 | 十六神将 | 元は水野信元に仕えていた武将。武勇に優れている。 |
内藤正成 | 十六神将 | 弓の名手。「軍神四郎左兵右衛門」と呼ばれ恐れられる。 |
大久保忠世 | 十六神将 | 蟹江七本槍の一人。信玄から、「さてさて、勝ちてもおそろしき敵かな」と言わしめた。 |
大久保忠佐 | 十六神将 | 大久保忠世の弟。蟹江七本槍の一人。戦場において、生涯無傷だったと伝えられる。 |
蜂屋貞次 | 十六神将 | 蜂屋貞次は三河武士で、桶狭間の戦い以前から家康に仕えていた。 |
鳥居元忠 | 十六神将 | 伏見城の戦いでは攻防戦の後、討ち死にする。 |
鳥居忠広 | 十六神将 | 三方ヶ原の戦いでは、武田二十四勝の土屋昌続との一騎打ちの末討ち死にした。 |
渡辺守綱 | 十六神将 | 槍の名手で、「槍半蔵」と称される。 |
平岩親吉 | 十六神将 | 家康の信頼は厚く、家康の長男松平信康の傅役。 |
服部正成 | 十六神将 | 別名「服部半蔵」、異名は「鬼半蔵」。伊賀衆と甲賀衆を指揮する。 |
松平康忠 | 十六神将 | 松平康忠は家康の従弟。武田信実の鳶の巣砦を攻略した。 |
石川数正 | 重要家臣 | 小牧・長久手の戦い後は出奔し豊臣秀吉の臣下となる。 |
大久保長安 | 重要家臣 | 武田滅亡後は家康に仕え、新田開発や金山採掘に才能を発揮する。 |
本多正信 | 重要家臣 | 初期徳川幕府の幕僚。 |
夏目広次 | 重要家臣 | 三方ヶ原の戦いでは、家康を逃すため、家康になりすまし、武田勢に突進して討死。 |
三浦按針 | 重要家臣 | イギリス人。大砲の製造や使い方などを教える。 |
徳川四天王
井伊直政
井伊直政は最初は家康の小姓となり、高天神城の戦いなどの武田氏との戦いの中で、戦功をあげていきます。
井伊の軍勢は、旧武田家臣を吸収しており、山県政景の朱色の装備を継承したことから、「井伊の赤備え」と呼ばれました。
小柄で少年のような姿でしたが、赤備えをまとって、いざ戦いになると勇猛果敢に戦う姿を、「井伊の赤鬼」と称されました。
交渉事も得意で、豊臣秀吉が死去すると、黒田如水を始めとした豊臣側の武将を徳川方に引き込むことに成功しています。
彦根藩の初代藩主です。
酒井忠次
酒井忠次は三河武士で、家康の幼少期から仕えており、今川家人質の際も同行しました。
桶狭間の戦い以降は家老となり、三河一向一揆で成果を挙げ、東三河を統制する役割を与えられています。
武田信玄・武田勝頼や浅井長政との戦いで、多くの戦功をあげています。
特に長篠の戦いでは、織田信長に献策し、軍議の場では罵倒されましたが、軍議後にその策の実行を命じ、結果として味方を勝利に導きました。
信長は、忠次の功績を高く賞したと言われています。
石川和正が出奔した後は、徳川唯一の重臣となり、徳川家臣団をまとめました。
榊原康政
康政は家康の小姓(こしょう、近くで仕える人)で、三河一向一揆が初陣となります。
このとき武功があり、ほうびとして「康」の字を与えられました。
本多忠勝と共に旗本先手役となり姉川の戦いでは、朝倉軍に側面攻撃を行うなど勝利に貢献しています。
三方ヶ原の戦いでは、家康撤退時に浜松城に入らず、味方をかき集め夜襲を行い、武田軍をかく乱・瓦解させました。
小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀次軍をほぼ壊滅に追い込み、森長可・池田恒興を討ち死にさせています。
関ケ原の戦いでは、徳川秀忠軍の軍艦となり、秀忠を補佐しています。
本多忠勝
本多忠勝で有名なのは、彼の槍で「蜻蛉切」(とんぼきり)というものです。
生涯57回の戦いで傷ひとつ負わなかった逸話でも知られています。
初陣は桶狭間の戦いで、大高城への兵糧の運び入れでした。
19歳で、榊原康政とともに旗本衆に選ばれ、54騎を統率する武将となります。
姉川の戦いでは、織田・徳川連合軍が敗戦が濃厚になったところ、忠勝が単騎で朝倉郡の正面に突入し、これがきっかけで形勢逆転の勝利を得ました。
一言坂の戦いでは、家康の撤退中に武田軍が猛追し、一言坂での戦いとなりました。忠勝は殿をつとめ、味方の犠牲を出さずに撤退を完了させました。
武勇に優れ、敵味方問わず賞賛された武将です。
徳川十六神将
米津常春
米津常春は三河武士で、13歳から松平家に仕えていました。
家康の武将となり、桶狭間の戦いの前哨戦である丸根砦攻めでは、家康の護衛を務めています。
武勇の誉れ高く、生涯で戦功18回、一番槍13回を数えます。
しかし若くして、目の病気にかかり蟄居しました。
高木清秀
高木清秀は三河武士で、元は水野信元に仕えていました。
当初は織田家臣団の一人であり、姉川の戦い、長嶋攻め、長篠の戦いに従軍しています。
三河一向一揆の際には、水野信元が家康を助けるため出陣し、その際に大いに奮戦し、家康は清秀の武功を賞しました。
信長死去後家康に仕えます。
その後、小牧・長久手の戦いや小田原征伐にも参戦しています。
武勇に優れ、多くの戦功を残しています。
内藤正成
内藤正成は最初は、家康の父松平広忠に仕えていました。
弓の名手として有名で、16歳に参戦した小豆坂の戦いで、攻める織田軍を200人以上を死傷させたと言われています。
桶狭間の戦いでは、家康と同行し大高城の兵糧入れに成功します。
正成は、三河一向一揆、三方ヶ原の戦い、高天神城攻城戦で武功を立て、敵からはその弓矢の腕を恐れられていました。
内藤正成は、「軍神四郎左兵右衛門」と呼ばれ畏敬されました。
大久保忠世
大久保忠世は三河武士であり、蟹江七本槍の一人としても数えられています。
三河一向一揆や三方ヶ原の戦いに参戦しています。
三方ヶ原の戦いでは、武田の陣に闇夜の中銃撃を仕掛け混乱させています。その際信玄から、「さてさて、勝ちてもおそろしき敵かな」と称賛されたと言われています。
長篠の戦いでも活躍し、織田信長から賞賛を受け、家康からはほら貝を褒美として与えられました。
戦上手としても知られていますが、上田合戦では真田昌幸に大敗しています。
大久保忠佐
大久保忠佐は、大久保忠世の弟であり、兄弟共に武勇の人です。
兄と共に、蟹江七本槍の一人に数えられています。
一言坂の戦いでは、本多忠勝と共に殿を務め、味方の撤退を無事に成し遂げました。
長篠の戦いでは、兄忠世と共に、織田信長から武功を賞賛されています。
本多忠勝と同じく、戦場において、生涯無傷だったと伝えられています。
蜂屋貞次
蜂屋貞次は三河武士で、桶狭間の戦い以前から家康に仕えていました。
水野信元との戦い「石瀬の戦い」では、松平信一と共に戦い軍功をあげました。
また、吉田城攻め・長養の戦いでも武功を挙げています。
三河一向一揆が勃発すると、家康に背いて一向宗に付き、家康軍を散々苦しめますが、最終的に大久保忠政の仲介で降伏、帰参を許されました。
再度の吉田城攻めで、本多忠勝と一番槍を争うも先を越され、怒った貞次が猛然と敵に向かったところ鉄砲の玉が当たり負傷、間もなく死去しました。
鳥居元忠
家康が人質時代からの側近で、家康が三河統一後に旗本先手役となります。
寺部城攻め、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いに従軍しています。
多くの武功を挙げ、家康からの信頼も厚かった鳥居元忠ですが、特に有名なのは関ケ原の戦いです。
前哨戦となる伏見城の戦いでは、13日間の攻防戦の後、討ち死にしました。
元忠の死は後に、子孫が改易になる憂き目の際に元忠の勲功により断絶を免れました。
鳥居忠広
鳥居忠弘は三河武士で、鳥居元忠の弟です。
三河一向一揆の際は一向宗側に参加していました。
一揆収束後は、帰参を許され、再び家臣として仕えます。
姉川の戦いでは、先鋒を務めるなど武芸に秀でています。
三方ヶ原の戦いでは、家康に籠城を進言しましたが受け入れられませんでした。
家康が三方ヶ原の戦いで大敗した際、殿を務めましたが、武田二十四将の土屋昌続との一騎打ちの末討ち死にしました。
渡辺守綱
渡辺守綱は、家康と同い年で16歳から仕えています。
槍の名手で、「槍半蔵」と称されました。
三河一向一揆の際には、一向宗側に付き、一揆が終結した際許され帰参しています。
姉川の戦いでは一番槍を挙げ、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手の戦いでは先鋒を務めました。
後年家康の勅命で、尾張藩主 徳川義直の付家老となり補佐しました。
平岩親吉
平岩新吉は家康と同年代で、家康の今川人質時代から仕えていました。
家康の信頼は厚く、三河統一戦、遠江平定戦で活躍しました。
家康の長男松平信康の傅役として補佐するものの、信康の切腹が原因で蟄居します。
その後、家康の命を受け水野信元を謀殺します。
本能寺の変後は、甲斐の国内経営に尽力したり、尾張藩の付家老になりました。
服部正成
服部正成は、別名「服部半蔵」と言います。
異名は「鬼半蔵」と称されています。
伊賀衆と甲賀衆を指揮しており、文字通り忍者の棟梁です。
三河統一戦の時には、すでに家康の家臣として旗本馬回衆に属していました。
服部正成が最も活躍したのは、伊賀越えの時です。
本能寺の変が起こり、堺見物をしていた家康は、岡崎に逃れるため、伊賀越えを決意しました。
この時、茶屋四郎と共に、土豪衆と交渉し、家康を無事帰還させました。
その後も、伊賀衆を率いて、城攻めで多くの軍功を挙げています。
松平康忠
松平康忠は家康の従弟です。
姉川の戦い、長篠の戦いに参戦しています。
武田信実の鳶の巣砦を攻略して、長篠の戦いの勝利に貢献しています。
松平信康の切腹により蟄居しましたが、後に家康に召喚され、本能寺の変では共に伊賀越えをしています。
小牧・長久手の戦いに参戦した後、嫡子の康直へ家督を譲り隠居しました。
家康の重要家臣
家康には、徳川四天王、十六神将以外でも、重要な家臣が多数いますので、ここで紹介します。
石川数正
石川数正は、酒井忠次と並ぶ徳川家の家老でしたが、小牧・長久手の戦いの後、出奔して豊臣秀吉に仕えました。
家康には今川家人質時代から仕えており、今川家の交渉役として活躍しています。
清州同盟後に今川家の人質となっていた筑前殿と松平信康らを見事な手腕で救い出しました。
戦上手であり、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いで多くの武功を挙げています。
小牧・長久手の戦い後に、家康に秀吉との和睦を提案しましたが、家臣達から猛反発を受け孤立しました。
これが出奔の原因と言われています。
大久保長安
大久保長安は、元々武田家臣です。
武田滅亡後は家康に仕え、新田開発や金山採掘に才能を発揮し、奉行の地位まで瞬く間に上り詰めました。
全国の金山銀山を管理する奉行となり、経理にも明るいため家康の寵愛を一心に受けていましたが、晩年は金銀の採掘量の低下で、代官職を次々に罷免されました。
死後、不正蓄財を疑われ、後の大久保長安事件を引き起こしています。
本多正信
本多正信は三河出身の武士です。
三河一向一揆では、一向宗側に味方して家康から離反します。一揆鎮圧後は加賀に向かったと言われています。
大久保忠世のとりなしで家康の元に帰参し、最初は鷹匠として仕えました。
本能寺の変では、伊賀越えの際に付き従ったと言われ、その後、武田家臣団を徳川に取り込むために尽力しました。
関ケ原の合戦後は、家康が将軍職を得るため朝廷との交渉を行いました。
徳川幕府の初期に幕政に参加し、家康、秀忠の元で幕政の指導をしました。
夏目広次
夏目広次は松平家の譜代家臣であり、桶狭間の戦い後の今川との戦いで家康を支え軍功を挙げる活躍をしていました。
三河一向一揆では、家康に敵対し一向宗側に加担しましたが、一揆沈静後は帰参を許されました。
三方ヶ原の戦いでは、家康を逃すため、家康になりすまし、武田勢に突進して討ち死にしました。
三浦按針
三浦按針は、イギリス人でウィリアム・アダムスと言います。
オランダ船に乗り、遭難し日本に漂着しました。
家康の家臣となり、大砲の製造や使い方など西洋文化や科学を教えました。
これが関ケ原の戦いで使用された大砲に役立ちました。
家康の死後は、秀忠や家光に冷遇されて、不遇のうちに死去しました。