豊臣秀吉は農民から天下人まで大出世を果たした人物として知られています。本能寺の変を起こした明智光秀を討伐し、志半ばに自害した主君織田信長の後継者として関白から天下人になりました。

厳しい戦国の世に一人でのし上がっていくことはできません。親・兄弟姉妹、そして妻と子供たちあってこそ、秀吉は天下人となることができました。特に秀吉は実子が少なかったこともあり、妻と養子たちの力を存分に使った武将ともいえます。

天下を取った秀吉を取り巻く人々について「家系図」を元にひも解いていきましょう。

豊臣秀吉の家系図

豊臣秀吉の家系図です。こうして家系図を見ると戦国時代の武将として側室を多数持ちながら、実子の数が少ないことがわかるでしょう。当時秀吉は「子どもを持てない体」ではないかとうわさされており、長男の豊臣秀勝・跡継ぎとなった秀頼でさえも、実は実子ではない?といわれています。

秀吉の両親と兄弟姉妹

両親・兄弟姉妹 生没年 詳細
豊臣秀吉の父
木下弥弥右衛門
生年不明 ~1543 農民・足軽等身分もはっきりしていない
文書等残っておらず実は竹阿弥ではないかといわれている
豊臣秀吉の母
大政所(なか・天瑞院春岩)
1516~1592 尾張国出身 秀吉が長浜城主になったとき北政所と共に暮らし秀吉から大切にされていた
豊臣秀吉の義父
竹阿弥
生年没年共に不明 情報が残されていない
秀吉の母「なか」と再婚し入り婿になった
秀長と旭姫の父親とされているが矛盾点が多い
一説では負傷した木下弥右衛門が出家し名前を変えたともいわれている
豊臣秀吉の姉
とも(日秀尼)
1534~1625 尾張国の農民 三好吉房へ嫁ぐ
秀次・秀勝・秀保を産む
秀次と秀勝は秀吉の養子へ
秀保は豊臣秀長の養子へ
豊臣秀吉の弟
豊臣秀長
1540~1591 秀吉の元 政務・軍事等で活躍
秀吉の左に配された重要な存在
秀吉に異を唱え意見ができる人物だった
豊臣秀吉の妹
旭姫(駿河御前・南明院)
1543~1590 秀吉によって夫と強制的に離縁させられ徳川家康に嫁がされた
徳川に嫁ぎ駿河府中に暮らしていたことで駿河御前と呼ばれた
晩年は病床が多く臨済宗に帰依した

豊臣秀吉の妻子

秀吉には正室「ねね(おね)」のほかに多数の側室がいました。今回は「秀吉の子を産んだ」側室のみ紹介します。

妻子 生没年 詳細
正室
ねね(おね 淀殿 北政所)
1549~1624 杉原定利・朝日殿の二女
叔母ふくの嫁ぎ先 浅野長勝の養女となった
秀吉とは当時珍しい恋愛結婚
側室
茶々 (淀殿)
1568-1615 浅井長政とお市の方の長女
妹は初と江
秀吉の実子鶴松・秀頼の母
浅井長政亡き後の養父柴田勝家は秀吉に敗れ自害している
長男
羽柴秀勝(幼名 石松丸)
生年不明~1576 秀吉が信長の家臣であり長浜城主だったころに生まれた
3歳くらいで亡くなったとされる
長女
名前不明
生年・没年共に不明 幼い頃に亡くなったとされる
次男
豊臣鶴松
1589~1591 53歳の秀吉と側室・茶々との間に生まれた
最善を尽くしたが病弱で数え年3つで亡くなった
三男
豊臣秀頼
1593~1615 57歳の秀吉と側室・茶々との間に生まれた
秀頼が5歳の時に秀吉他界
関ヶ原の戦い・大阪冬の陣・大阪夏の陣により家康に追い込まれ23歳で自害

◆幼くして亡くなったもう1人の実子

家系図には入れていませんが、幼くして亡くなったとされる長女のほか、羽柴秀勝「石松丸」という子がいます。(秀吉は秀勝という名を3人の子につけている 石松丸のほか、信長の四男で養子にした於次丸、さらには三好吉房の子で秀次の弟)

羽柴秀勝は側室であった南殿との間に生まれた子とされていますが、確かなことはわかっていません。当時長浜城主であった秀吉のもとに生まれました。城主であった頃に生まれ、亡くなったのは1576年と伝えられており3歳くらいで亡くなったのではないかといわれています。

長浜には「曳山祭」という祭りがありますが、これは長浜城主であった秀吉に男児が誕生したことを祝い始まったといういわれがあります。

秀吉の養子たち

養子 生没年 母 親
豊臣秀次 1568~1595 秀吉の姉「とも」
秀吉から関白を譲られるも秀頼誕生がきっかけとなり自害
豊臣秀勝 1569~1592 姉「とも」
朝鮮出兵中に現地で病没
羽柴於次丸秀勝 1574~1607 織田信長の側室「養観院」
幼名は於次丸
信長生存時に秀吉の養子となる
18歳で死亡
羽柴秀康 1574~1607 徳川家康の側室「長勝院」
小牧長久手の戦いの講話に伴い秀吉の養子へ
のちに下総の結城氏の養子へ
羽柴秀俊
(小早川秀秋)
1582~1602 雲照院(秀吉の正室 ねねの実兄 木下家定の子)
関ヶ原の戦いで石田三成を裏切り家康を勝利に導く
羽柴秀家 1572~1655 円融院(備前国 戦国大名 宇喜多直家の子)
豊臣五大老の1人
八条宮智仁親王 1579~1629 勘修寺 春子(誠仁親王の子)
今出川晴季により秀吉の猶子へ
関白職を約束されていたが鶴松が誕生し解約となっている

このうち秀吉が亡くなった後に残っていた子どもは以下となります。

  • 豊臣秀頼
  • 羽柴秀康
  • 羽柴秀俊(小早川秀秋)
  • 羽柴秀家(宇喜多秀家)
  • 八条宮智仁親王

養子の中でも特に信頼されていた2人

正室にも多数いた側室にもなかなか子が生まれなかったことで、秀吉は養子を多数迎えています。そのうちの豊臣秀次と豊臣秀長は、養子でありながらも秀吉から特に信頼されていました。

秀次・秀長はどのような人物だったのか、後にどうなったのか紹介します。

秀吉の姉の子「秀次」

豊臣秀次は秀吉の実姉「とも」の長男です。秀吉待望の実子「鶴松」が亡くなり、秀次に関白職を譲り家督も相続させました。鶴松の代わりに自分の跡継ぎにするのですから、秀次は秀吉からかなり信頼されていたのでしょう。

しかしその後、秀吉が57歳になって秀頼が誕生しました。これまで頼りにしてきた「我が跡継ぎ」の秀次でしたが、秀頼が生まれたことで一気に「邪魔な存在」となってしまったのです。

秀次は謀反の罪を着せられ出家することになり、最終的には切腹に追い込まれました。首は三条河原で無残にもさらし首となり、親族・郎党含め処刑となっています。

秀吉の異母兄弟「秀長」

秀吉が天下人となる際、大きな働きをした人物の1人が「秀長」です。秀長は秀吉の父「木下弥右衛門」が亡くなったのち、母「大政所」と再婚した竹阿弥との間に生まれました。秀吉とは異父兄弟にあたります。

豊臣政権は常に力のある外様大名に囲まれていたようなものです。徳川家康に伊達政宗など名だたる名将が名を連ね、いずれも曲者でした。秀長はこうした力のある大名たちと秀吉の間に入り、うまく調整してくれたのです。

寺社の多い大和も治めていた秀長ですが、諍いが起きることもなく実にうまく統制していました。秀吉に対し意見を述べることができる秀長がいたからこそ、秀吉の豊臣政権は崩れることなくいられたのです。秀長は病死しましたが、子の中に男子がいなかったため、秀吉の実姉「とも」の息子「秀保」が家督を継いでいます。

豊臣秀吉の親類

戦国の武将たちは自分の親・子・兄弟姉妹などを政治に利用してきました。豊臣秀吉もしかりです。自分の娘を嫁に出したり、母親を人質に送ったり・・・戦国の世は非常なものでした。

こうして親兄弟など政治に利用してきたことで、意外な親類関係も生まれています。

豊臣秀吉と織田信長

豊臣秀吉と織田信長は、側室「茶々」によって繋がれています。茶々は浅井長政とお市の方との間に生まれました。当時お市の方は戦国の世の中で一番美しいといわれていた方です。秀吉もお市の方にあこがれを持っていたといわれています。

またお市の方は、秀吉が武将として最も憧れたであろう織田信長の妹です。そのお市の方の忘れ形見となった三姉妹の長女が茶々ですから、美しさはもちろんのこと、秀吉にとって特別な存在でした。秀吉は側室の中でも特に茶々を寵愛していたといわれています。

茶々にしてみれば、実の父である浅井長政を母の兄であり自分の伯父の命によって秀吉に処刑され、のちに義父となった柴田勝家も秀吉によって自害に追い込まれていますので「敵」に当たるはずです。戦国の世ですから、側室になるという運命から逃れる術はなかったとしても、複雑な心境だったでしょう。

豊臣秀吉と徳川家康

豊臣秀吉の異父妹である「旭姫」は元々、農民でありのちに武士に取り立てられた佐治日向に嫁いでいました。しかし秀吉は徳川家康としっかりとした主従関係を築きたいと考え、旭姫を無理やり離縁させ家康のもとへ嫁がせたのです。家康と秀吉の和議も旭姫との婚姻あってこそといわれています。

また豊臣秀頼も家康の三男である徳川秀忠と浅井三姉妹の三女である「お江」の娘「千姫」を正室としており、秀頼と千姫は従妹同士となります。たった7つで秀頼のもとに嫁いだ千姫ですが、秀頼とはとても仲が良かったそうです。

千姫は大坂夏の陣の際、徳川家康により大阪城から助けだされました。夫秀頼と側室との間に生まれた「天秀尼」が殺されそうになったとき、千姫は天秀尼を自分の養女とすることで救いました。また千姫は秀頼と淀殿の命を助けるようにと必死に頼んでいますので、温和で戦いを好まない優しい女性だとわかります。

豊臣家滅亡|豊臣秀頼の最後

豊臣秀吉が亡くなったことで、秀頼はたった6歳で家督を継ぐことになりました。まだ6歳ですから政治を担うことはもちろんできません。そこで秀吉は秀頼が成人するまで、徳川家康に政治を託しました。

しかし1600年に関ヶ原の戦いにより、東軍「徳川家康派」と西軍「石田三成率いる豊臣派」がぶつかり東軍が勝利しました。豊臣政権は領地220万石を手放すことになり、豊臣の領地は65万石とわずかなものとなります。それに代わり関ケ原の戦いによって徳川家康は400万石の大名となったのです。

家康は1603年に征夷大将軍に就任、1605年には実子「徳川秀忠」へ職を譲り徳川家の将軍職世襲を公に知らせました。つまり徳川家康が秀吉を裏切ったことで、豊臣家と徳川家の立場が変わったのです。

その後、方広寺の鐘銘事件に加え、豊臣が不当な浪人を大阪城に雇い入れていると言いがかりをつけ宣戦布告し、20万もの兵で大阪城を囲みました。この大阪冬の陣で淀殿は仕方なく和睦したのですが、再び反撃を試みようとしたため、大阪夏の陣が勃発、最終的に秀頼と淀殿は大阪城で自害したのです。

  • 方広寺の鐘銘事件

家康は秀吉が残した大阪城にある莫大な資産が気になっていました。その資産があれば多くの兵を雇用し、幕府に対抗することもできます。そこで豊臣を五摂家同様とし寺社の再建などを勧め資産をどんどん利用させようとしました。

慶長の大地震により倒壊した方広寺の再建の際、鐘銘の中に不適切な言葉があるとして家康が言いがかりをつけます。その言葉は「国家安康」「君臣豊楽」です。君主から民衆まで豊かで楽しく暮らすという意味でしたが、国家安康は「家康」を分断、「君臣豊楽」は豊臣が君主として楽しむという意味ではないのか?と文句をつけ大阪城から退城しろと迫りました。大阪冬の陣のきっかけともいえる事件です。