豊臣秀吉の妻といえば正妻の「ねね」、後の北政所・高台院です。周囲の反対を押し切り、当時としては珍しい恋愛結婚だったといわれています。

しかし秀吉はねね一筋とはいかず、多数の側室が存在していました。戦国時代ですから側室がいて当たり前とはいえ、秀吉の女好きには正妻であるねねも手を焼いていたといいます。

今回はそんな秀吉の正妻「ねね」や、側室の中でも代表的な8人について紹介します。

豊臣秀吉の正妻|ねね( 北政所 高台院)

百姓から大出世を果たし天下人まで上り詰めた秀吉には、正妻とたくさんの側室がいました。
正妻である「ねね」は秀吉にとって妻であり、また困ったときには頼りになる存在だったようです。

秀吉とねねとの間に「子」はありませんでしたが、養子はもちろん、秀吉の若い部下たちを立派な武将に育て上げたといっても過言ではないでしょう。

そんなねねとの出会いから結婚、さらには秀吉にとってどんな存在だったのかなどを紹介します。

きわめて異例!身分の低い男との恋愛結婚

杉原定利と朝日殿との間に生まれた「ねね」について、尾張国朝日村で誕生したということ以外、詳細は分かっていません。
ねねという名もいくつかの説があり、「ねね」なのか「おね」なのか詳細は不明です。
しかし秀吉がねねに送った書状を見ると「お禰」と書かれており、名前は「ねね」で愛称が「おね」ではないか?といわれています。

ねねは、1561年に秀吉と結婚しました。
秀吉は当時、木下藤吉郎と名乗っており一説によると、あちこちふらふらと遊びまわっていたともいわれています。
ねねの家は武士の家柄であり、現代でいえばお嬢様のように育てられたねねです。
藤吉郎のように自由に遊びまわる「人たらし」に落ちてしまったのかもしれません。

しかし武士の家である浅野家で、農民出身の藤吉郎との結婚はもってのほかでした。
特に母「朝日殿」は猛反対しましたが、結局ねねはその思いを貫き藤吉郎と恋愛結婚したのです。
戦国時代は政略結婚が通常でしたから、2人の恋愛結婚は異例中の異例といえるでしょう。

結婚式は長屋で土間にござをひいて、盃を交わすだけの大変質素なものだったと伝えられています。
朝日殿は秀吉が大名になっても2人の結婚を認めなかったそうです。

秀吉の天下取りを支えたねね

秀吉は長浜で一国一城の主となりますが、その後もずっと合戦が続き出陣を繰り返していました。
ねねは秀吉の妻としての役割以外に、仕事の良きパートナーとしても才覚を見せています。
播磨攻め・中国地方平定など秀吉が留守にしている間は、ねねが政務を担当していたほどです。

明智光秀の謀反によって引き起こされた「本能寺の変」では、秀吉が中国大返しで急ぎ京都へ引き返していた頃、ねねは秀吉の母「なか」たちを引き連れ美濃へ逃亡します。

本能寺の変のような大事が起きても困らないように、かねてから逃亡ルートを考えていたのです。

秀吉はその後、朝廷より関白宣下を受けます。
これによりねねは「北政所」という通称で呼ばれるようになり、大阪城に住まいを移しました。
当時のねねのことをポルトガル人宣教師「ルイス・フロイス」は著書「日本史」において、「異教徒であるが人格者であり、彼女に依頼して解決できなことはない」と記しています。

秀吉の天下取りを支えたねねは、周囲の人々からみても秀吉のよき「ブレーン」だったのではないでしょうか。

秀吉亡き後「高台院」へ

秀吉が亡くなった後のねねは「秀吉の遺言」でもあった千姫(徳川秀忠の娘)と豊臣秀頼との婚礼を見届け落飾し、仏門に入りました。
朝廷より「高台院快陽心尼」の院号を授かり、後に「高台院湖月心尼」と改めています。

秀吉亡き後には徳川家康が頭角を現しており、ねねは徳川家と円滑な関係を築きます。
豊臣を衰退させないためには、秀吉亡き後頭角を現した「徳川家康」に従うことが必須と考えていたのです。

しかし秀吉の跡継ぎ「秀頼」を産んだ側室「淀殿(茶々)」は、秀頼こそ天下人となるべきと主張し家康に従うことはなく、ねねの心配は深まるばかりでした。

とうとう家康は1615年「大坂夏の陣」で秀頼に大阪城からの退去か淀殿を人質に出すようにと要求します。
秀頼がこれに応じなかったため、家康は大阪城に出陣しました。
ねねはこの要求をのむように説得を試みようと大阪城に向かおうとしましたが、この動きを知った家康は「木下利房」(ねねの甥)に監視させねねの動きを封じます。

家康は当時のねねの強い影響力があれば、秀頼が説得に応じてしまうかもしれないと思ったのです。
結局ねねの思いは秀頼に届くことなく、ねねは豊臣家の滅亡を見届けました

美貌の姫を見つけては側室にしたがる・・秀吉は好色だった?

現代は一夫一妻制、結婚できるのは1人に対し1人です。
しかし戦国時代は一夫多妻制で、正室(本妻)のほか複数の側室を持つことができました。

戦国時代に側室を持たず正室だけを愛した武将は3人しかいません。
熊谷信直の娘・新庄局を妻とした吉川元春、秀吉のよき家臣でもあり櫛橋伊定の娘・光を娶った黒田孝高、そして織田信長の娘・永姫を妻とした前田利長です。

戦国時代に生きた武将の中でも秀吉には、多数の側室がいたと伝えられています。
側室の中には織田信長の娘、前田利家の娘など上司・同僚の娘まで名を連ねます。

美貌の姫を見つけてはすぐに側室にしたがる秀吉に、正室であるねねも困っていたのではないでしょうか。

秀吉が側室として選んだ人はどのような女性だったのでしょうか。

秀吉の側室|南殿

小谷城落城の際、お市と3人の娘を救出するなど大活躍を見せた秀吉(当時は藤吉郎)は、浅井氏の滅亡後に信長からその領地の大部分を与えられました。
この時「藤吉郎」から「羽柴秀吉」と名を変えています。

翌年に作られた長浜城の城主となった秀吉は、妻の1人として南殿を選びました。
南殿という名は、城の南に暮らしていたからといわれています。

この件により機嫌を損ねたねねに信長は「あなたは魅力がある。あの藤吉郎がうだうだ言っているらしいがとんでもない話だ。あなたは明るく堂々と嫉妬しないでいきなよ。これは藤吉郎にも見せること!」という書状を送りました。

この書状がねねに届いた頃、南殿は石松丸という男児を出産しています。(石松丸とのちに生まれた子も死亡している)
この事実をねねが知っていたかどうかはわかりませんが、知っていたとすれば子をなすことができなかったねねにとって南殿は恐怖の対象だったのかもしれません。

秀吉の側室|淀殿

秀吉の側室として最も知名度が高いのは「淀殿」でしょう。

淀殿は浅井長政と織田信長の妹「お市の方」との間に生まれました。
「茶々」としても知られる淀殿は、母であるお市の方とよく似ており非常に美しかったといいます。

お市の方は戦国一の美女といわれていた女性です。
その美貌を譲り受けた娘であり、敬愛する信長の血族であることも秀吉が溺愛したといわれる要因だったのではないでしょうか。

淀殿は秀吉の子どもを産んだ唯一の側室です。
多数の側室がいましたが秀吉は子宝に恵まれず、淀殿との間に生まれた「鶴松」が秀吉唯一の子でした。

鶴松はのちの「秀頼」ですが、実は淀殿が別の男性と通じ生まれた子であるという説もあります。

秀吉の側室|松の丸殿(京極童子)

晩年を迎えた秀吉が死期迫る中で行った「醍醐の花見」で、北政所(高台院)・淀殿の次に続く輿に乗っていたのが「松の丸殿」です。
京極高吉の娘であり京極童子という名でも知られています。

また松の丸殿は淀殿のいとこ(松の丸殿の母が浅井長政の姉・京極マリア)です。

元々は若狭守護・武田元明のもとに嫁ぎました。
しかし本能寺の変で夫と兄が明智光秀に味方し敗れてしまいます。
謀反を起こした光秀側につき本来であれば殺されるところ、兄の命を守るために秀吉の側室となったのです。

兄は助かりましたが夫の元明は秀吉に殺されたという説もあり、松の丸殿は夫を殺した人の側室となる運命をどのように感じていたのでしょうか。

秀吉は名門の有力一族出身、しかも松の丸殿も美しい女性だったことで溺愛しました。

秀吉の死後は兄が暮らす大津城に身を寄せていましたが、関ケ原の合戦で大砲が撃ち込まれ侍女2名が吹き飛ばされてしまいます。
その後、淀殿が仲介したことで和睦し、松の丸殿は京都へ移り生涯を終えました。

秀吉の側室|加賀殿

加賀殿は「摩阿姫(まあひめ)」とも呼ばれていたことが知られています。
前田利家と「まつ」との間に生まれた加賀殿は、柴田勝家の家臣であった「佐久間十蔵」と婚約していました。
しかし賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ自害してしまったのです。

人生を一緒に歩むはずだった婚約者を殺した相手の側室となるなんて、加賀殿はどんな気持ちでいたのでしょうか。
病弱だった加賀殿は父の住まいで過ごすことが多く、後には側室を辞退しました。

加賀殿の妹「豪姫」は秀吉の養女となり、秀吉に大変気に入られ可愛がられたと伝えられています。

京都で結婚しましたが加賀に戻り、病弱だった加賀殿はその地で亡くなりました。

秀吉の側室|三の丸殿

秀吉は出自が百姓ということで自分の経歴に劣等感を持っていました。
そのためなのかどうか定かではありませんが、秀吉は名門家の女性を側室にすることが多かったのではないかといわれています。

三の丸殿は織田信長の娘で、信長亡き後は蒲生氏郷に引き取られていました。
秀吉の側室になったのがいつなのかはわかっていませんが、信長が亡くなった時点ではまだ幼かったため茶々の後でしょう。

秀吉の醍醐の花見の際には正妻の「北政所」、次に側室の「淀殿」「松の丸殿」さらに「三の丸殿」という位置でした。

秀吉の側室|甲斐姫

甲斐姫は安土桃山時代に「忍城(おしじょう」の城主であった「成田氏長」の長女として生まれました。
氏長には男児に恵まれず聡明で男子のように背が高い甲斐姫に目をかけ、幼い頃から武術の稽古をさせていたといいます。

本能寺の変により信長が自害し、信長の死後天下統一に向けてひた走っていた秀吉が総仕上げとして小田原城の北条氏征伐に動きました。
氏長は北条家の配下だったため、秀吉軍を迎え撃つべく小田原城に籠城します。

その際「忍城」の留守を預かったのは「成田泰季」でしたが、なんと病死してしまいました。
仕方なく泰季の嫡男「長親」を総大将にたてますが、まだ幼く合戦の指揮を執ることは不可能です。

そこで活躍したのが当時19歳の甲斐姫でした。
甲斐姫は秀吉軍であった石田三成の水攻め、真田正幸・幸村親子や長束正家らの加勢も退けいったんは甲斐姫たちが勝利しましたが、最終的には秀吉に屈することになります。

小田原落城により降伏した甲斐姫は秀吉の側室となりました。
側室の中では淀殿と親しく、秀頼の守役の任を受け自分の子のように愛し育てたといわれています。

秀吉の側室|三条殿

近江国日野城主の娘であった「とら」も秀吉の側室でした。

秀吉が三条殿を舟遊びに誘ったという手紙は残されていますが、なぜ三条殿が秀吉の側室になったのかわかっていません。

憶測の域を出ませんが、信長が亡くなり秀吉の家臣となった蒲生賢秀・氏郷親子が、秀吉との関係を深く結ぶために娘を差し出したのではないかといわれています。

賤ヶ岳の戦いののち、三の丸殿と同じ時期に側室となりました。

豊臣秀吉の妻たち|一覧

正妻・北政所 杉原定家の娘 ねね
秀吉の死後 高台院
側室・淀殿 浅井長政の娘 茶々
次男 鶴松
三男 秀頼
側室・南殿 素性不明
嫡男 秀勝(石松丸)
女 (名前不明)
側室・松の丸殿 京極高吉の娘 京極童子
加賀殿 前田利家の娘 摩阿
甲斐姫 成田氏長の娘
三の丸殿 蒲生氏郷の養女・織田信長の娘
三条殿 蒲生賢秀の娘 とら
姫路殿 織田信包の娘
広沢局 名護屋経勝の娘
月桂院 足利頼純の娘 嶋子
香の前 高田次郎右衛門の娘 種
円融院 三浦能登守の娘 おふく
(宇喜多秀家の母)