歴史の授業では必ずといっていい程、出てくるワードが「寝殿造」。
これ程有名なワードであるのに、実際にどのような物か、知っている方は少ないでしょう。
寝殿造は、平安時代の代表的な建築様式であり、唐の文化から日本独自の文化に変わっていく過程で生まれた建築様式です。
これは、その当時の日本の気候が関係していました。
現在NHKで放映されている大河ドラマ「光る君」では、その当時の寝殿造での生活を見る事が出来ます。
この記事では、寝殿造の特徴的な構造について分かりやすく解説します。また、寝殿造の代表的な建築物や寝殿造と書院造の違いについても紹介します。
寝殿造りとは?
寝殿造は、平安時代を代表する建築様式です。
寝殿造に暮らしていたのは、平安時代の藤原氏のような高位の貴族です。
寝殿造は、その頃の日本の気候にマッチした作りになっていきます。その頃の日本の気候は現在よりも温暖な気候でした。
住宅は、風通しが良い構造であり、夜は扉や蔀(しとみ)で建物を閉め、昼はこれを外して解放しました。当然、このような建築様式は強盗などに襲われる危険性がありました。
ドラマでも、警護の武士がいて夜警をしているシーンをよく見かけます。そのため、警護の武士を雇えるほどの裕福な人物でないと寝殿造に住むことが出来ないということです。
奈良時代では、中国文化が色濃く出ている宮殿建築と言われる建築様式が主流でした。遣唐使によって唐の文化が持ち込まれ、瓦の屋根や密閉された建物の様式、土間や寝台がありました。
遣唐使が廃止され、気候などの理由から日本独自の建築様式に変化して、中世になると寝殿造は書院造に様式を変えていきました。
寝殿造りの特徴
寝殿を中心としたレイアウト
寝殿造の最大の特徴は、「寝殿」です。
寝殿というのは、元々は「天子が日常寝起きをする宮殿」という意味です。この意味から、主人が日常生活を行う建物という役割となり、いわばプライベートスペースになります。
寝殿造は、この寝殿を中心に、庭や対屋が位置するように設計されています。
南には庭があり、東・西・北に対屋が建つようになります。印象的なのは寝殿と対屋を繋ぐ渡り廊下の「渡殿」です。渡殿は平安時代を題材とするドラマでは、名場面となるシーンでよく見かけます。
寝殿造の建物や庭の位置関係は、風水に深く関係しています。特に四神相応の思想(東西南北を青龍・白虎・朱雀・玄武の四神がその方角を司る思想)が、建築設計の基本とされていました。
現代よりも高い気温に適した、風通しの良い構造
平安時代は、現代よりも温暖な気候でした。このため、蒸し暑い夏でも心地よく過ごすため、寝殿造は壁の無い構造でした。
この構造により、建物の中を風が通りやすくなるので、建物の中の熱は外に出やすくなります。
奈良時代の唐文化の影響を受けた建物から、寝殿造に移り変わった背景には、気候が関係しています。
壁が無く、屏風や衝立で間仕切る構造
壁が無い構造の寝殿造ですが、これでは着替えなどはさぞ不便だったろうと想像できます。
そこで重宝されたのが、屏風や衝立です。平安時代の絵巻物でも使い方を見る事が出来ます。生活に欠かせない屏風や衝立ですが、貴族ともなるとそれが美術品となりました。
一例を挙げると、国宝の『神護寺山水屏風』があります。
壁が無いと書きましたが、例外として寝室を兼ねた金庫室には壁があり、これを「塗籠(ぬりごめ)」と言います。
寝殿造は母屋と庇が特徴的
寝殿造の特徴の一つは、母屋(おもや)と庇(ひさし)です。
これは大陸文化の建築様式からの継承ですが、これに板床・濡れ縁が追加されています。母屋は寝殿の中の主人の部屋で、母屋の周辺は屋根に囲まれていました。
また、庇の周辺に孫庇が設けられる事があります。このように寝殿造の特徴の一つであった母屋と庇ですが、書院造では母屋・庇の区別は無くなっていきました。
瓦ぶき屋根から檜皮葺
唐文化の影響の強い奈良時代の建築では、瓦ぶき屋根が特徴的です。遺跡の中には、瓦を生産する瓦窯が多く存在しています。瓦を使用できたのは、大きな仏教寺院に限られています。
奈良時代でも、その他の多くの建物は檜皮葺(ひわだぶき)・板葺・草葺でした。
瓦から檜皮に変化した理由としては、技術的な面もあります。しかし、最も大きな理由としては、運搬が楽で容易に入手できる事でした。
密教などの寺院から檜皮が普及して、上級貴族の屋敷でも流行していきます。
檜皮葺は、長くは持たないので平安時代のままのものは存在しません。約30年でふき替えられます。
寝殿造の最大の特徴「蔀」(しとみ)
「蔀」という漢字を初めて見る方も多いと思います。「しとみ」と言い、寝殿造に用いられた建具の一つです。
構造は、柱と柱の間に付ける格子状の扉で、跳ね上げて吊ったりして開閉する扉です。
現在ではあまり見かけない構造ですが、法隆寺聖霊院ではその姿を見る事が出来ます。
寝殿造の代表的な建築物
東三条殿
東三条殿跡は、京都市中央区にあります。
藤原良房が建てた邸宅と考えられており、その後は藤原忠平、兼家などの住まいとなりました。
888年の記録に登場している事から、それ以前に建築されています。
984年に火災に遭いましたが、987年に藤原兼家によって、東三条本院が再建されました。その後、道隆の時代になり、1038年に2度目の火災に遭いました。
1031年再建途中で再び火災に遭い、1043年にようやく再建されました。摂関家の儀式場としての役割が大きく、皇族も内裏の火災の際の避難場所として活用していました。
1166年には、高倉天皇の着袴の儀が行なわれた2日後に、再び火災に合い、再建することはありませんでした。
京都御所
京都御所は、794年の平安遷都に建てられましたが、現在の京都御所とは別の場所にありました。
現在の京都御所は1790年に建てられたものですが、裏松固禅の『大内裏考證(だいだいりこうしょう)』という書物を参考に、平安時代の建築様式に従い再建されました。
裏松固禅は、江戸時代の公家であり、有職故実家でした。大内裏考證の内容は、平安京の大内裏の建物の構成・配置・沿革等が書かれています。
完全な寝殿造りでは無いのですが、当時の寝殿造りの様子を見る事が出来ます。現在の建物は火災のあった後の再建の物で、1855年に建てられました。
宇治 平等院鳳凰堂
京都府宇治市にある平等院鳳凰堂も厳密には寝殿造りではありません。しかし、当時の面影を残している数少ない建築物で平安時代の建築様式を見る事が出来ます。
平等院鳳凰堂が寝殿造ではない理由としては、建物の配置にあります。
鳳凰堂は東向きであるのに対し、寝殿造りは南向きに作られており四神相応の考え方で配置されています。
創建年は1052年で、平安時代の史跡がそのまま残っているのは平等院鳳凰堂のみです。
寝殿造では檜皮葺屋根ですが、平等院鳳凰堂は1103年の修理の際に、木造瓦から粘土瓦に変更になっています。
驚くべきことに、平安当時の瓦が1560枚も残っていたという事でした。
寝殿造と書院造の違いは?
寝殿造は平安時代を代表する建築様式ですが、一方の書院造は室町時代を代表する建築様式です。
「書院」とは、元々は書斎という意味があります。大きな違いは、母屋と庇の区別が書院造りでは無くなったことです。
また、寝殿造では屏風や衝立の間仕切りだったのが、書院造りでは障子や襖などの間仕切りの建具が発達して、「表」と「奥」の区別が明確になったことです。
- 「表」とは儀礼や行事を行う場所、現代でいうなら「応接室」や「来賓室」
- 「裏」とは、一般居住スペースでプライベートルーム
寝殿造では「寝殿」が中心となりコの字の配置になりますが、書院造では書院をならべた雁行型になります。
また、書院造では畳が使用されるようになりました。現在の書院造の代表例は、京都にある銀閣寺です。
寝殿造での生活が見て取れる絵巻物
寝殿造での生活の様子は、平安絵巻で見る事が出来ます。歴史の授業では教科書にも掲載されていますし、源氏物語の絵巻物も有名です。
これらの絵画では、蔀(しとみ)や御簾、屏風、衝立がどのように使われていたかが分かります。代表的な平安絵巻を紹介します。
源氏物語画帖
源氏物語絵巻 東屋
源氏物語第六帖「末摘花」
門と土塀の様子