一遍上人の生涯

出生から仏門に入るまで

一遍は、1221年に伊予国で生まれました。生家の河野家は承久の乱で没落しており、次男であった一遍は10歳にして仏門に入ります。

1251年には大宰府の聖達上人の元で修行し、浄土教を学びました。父の死により、一度故郷に帰って、半分還俗したような生活を送っていましたが一族の争いに嫌気がさし、再び出家しました。そして、財産の一切を捨て家族・一族とも別れ行脚の旅に旅立ちました。

時宗の開祖となる

時宗とは、浄土宗の流れを組む一派になります。一遍が出家して間もなく、浄土宗の修行をおこなっています。

「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで極楽浄土に行けるという教えが時宗のベースとなっています。

お経は、浄土三部経(「無量寿経むりょうじゅきょう」・「観無量寿経かんむりょうじゅきょう」・「阿弥陀経あみだきょう」)を拠り所としているところも、浄土衆がベースだからです。

時宗の最大の特徴は踊り念仏と呼ばれる儀式にあります。

一遍は、時宗を開宗する意思は全く持っていませんでした。しかし、彼の弟子の他阿によって、時宗という宗派が確立し、一遍は「時宗の開祖」と言われるようになりました。

念仏札を配りながら遊行

念仏札とは、一遍が人々と念仏を結びつけるためのお札で、一遍はこれを250万人に配ったと言われています。

念仏札に描かれている言葉は、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書かれており、熊野権現が夢に現れてからは、「決定(けつじょう)往生/六十万人」という言葉も追加されています。

各地を遊行して、踊り念仏を行いました。踊念仏は、一遍が尊敬してやまない平安時代の空也が始めたものです。鉢をならして「南無阿弥陀仏」と唱える儀式です。

当時は過激なパフォーマンスに、見物に来る人たちで賑わったそうです。牛車に乗り込んだ貴族たちも見に来ました。

そこに見に来た人に念仏札を渡していましたので、25万人に渡したという伝承は、あながち嘘ではないかもしれません。

一遍上人 51歳で没す

各地で遊行を続けた一遍ではありますが、武士上がりの頑丈な体とは言え、年を取り衰えていきます。

死去する前は西日本を中心に旅をしており、兵庫県加古川市にある教信寺に向かうところで倒れます。そして、兵庫島(今の兵庫県神戸市兵庫区)で51歳で死去しました

死因は、長年の過酷な遊行による過労と栄養失調が原因と言われています。死ぬ前には、それほど多くはない書籍や遺品をすべて焼き捨てました。

まさに「捨て聖」という言葉通りの死にざまでした。

一遍上人の「時宗」とは?

「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽浄土に往生する教え

時宗は、浄土宗の一派とされています。

これは、一遍が仏門に入り、間もなく大宰府の聖達上人の元で浄土宗を学んだことが教えの基本となっています。

この頃の浄土宗の宗派としては、法然が開いた「浄土宗」、親鸞が開いた「浄土真宗」があります。

浄土宗のように、難しい学問や知識を必要とせず、ただ「阿弥陀仏」にすがりなさいという、優しく万人向けの教義です。

時宗は、浄土宗の教えに、踊り念仏を取り入れています。客寄せという事もあったようですが、踊る事でトランス状態になる事も目的と言われています。

時宗開宗のきっかけは熊野権現の夢のお告げ

一遍が時宗を開いた切っ掛けになったのは、熊野権現のお告げです。

熊野本宮大社に参拝した際は、夢の中で白髪の山伏が夢の中に現れて、「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、阿弥陀仏の念仏札を配りなさい」と告げられます。

その前まで、一遍は自身の不信心をある僧に指摘され悩んでいました。しかし、夢のお告げでこの悩みを吹っ切る事が出来たとの事です。

この時をもって、一遍の念仏札は完成し、時宗が開宗されたと言っても過言ではないでしょう。

国宝|一遍上人の活動を描いた一遍聖絵

一遍に関する絵巻物で、「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」という国宝があります。

内容は一遍の生涯が描かれている絵巻物です。いま現存しているもので、「歓喜光寺本」と「御影堂本」があります。

歓喜光寺本は、神奈川県の正常光寺がかつて所蔵しており、現在は東京国立博物館が所蔵しています。
全12巻48段からなります。

御影堂本は、歓喜光寺の写本で御影堂が歓喜光寺のとなり合った位置にあった縁で借りて写本を作成しました。

現在は尊経閣文庫と奈良県の山林王が所有しています。

一遍上人の名言

「旅ころも 木の根 かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき」

木の根やかやの根のようなところでも、どこでも、この身をすてられるものだという意味で、旅の苦労は苦しみにはあたらないと解釈されます。

「身を観ずれば水の泡 消ぬる後は人もなし 命を思へば月の影 出で入る息にぞ留まらぬ」

水の泡や月の影のように、人間の一生もはかないものです。 築きあげた名声、蓄積した財産なども、いつ消えてなくなるか分からない事を言っています。

 

一遍上人の家系図

一遍上人のゆかりの寺・神社

ゆかりの寺社 説明
天台宗継教寺 一遍が10歳で出家した時のお寺が継教寺です。伊予の国にあったと言われていましたが、現在所在地が不明となっています。
鹿児島神宮 鹿児島県霧島市にある神社で、海彦山彦の伝承がある地の神社で有名です。主祭神は、天津日高彦火火出見尊、豊玉比売命です。一遍が遊行した最南端となります。
遊行寺 別名「清浄光寺」と呼ばれている神奈川県藤沢市にある時宗総本山です。一遍の死後、弟子の他阿により時宗が再集結して、遊行寺が時宗の総本山となりました。ここには国宝である「一遍聖絵」が伝えられています。

一遍上人に深く関わった人物

他阿

他阿は、一遍の弟子です。正しい名前は「他阿弥陀仏」と言われています。

一遍は時宗の組織化を考えていなかったのですが、他阿は一遍の死後に一旦解散された時宗をとりまとめk宗教集団を作り上げました。

そしてこれまで基盤となる寺を持ちませんでしたが、清浄光寺(遊行寺)に拠点を置き、時宗の発展に努めました。

他阿は、真教上人とも呼ばれていますが、一遍と並び「二祖上人」と呼ばれています。

空也上人

空也上人は、平安時代中期の僧です。京都で疫病が流行った時に「空也踊躍念仏」を行い、疫病退散を祈祷したと伝えられています。

出自については、903年頃の生まれで、噂では皇室の出とも言われています。

922年に出家しています。宗派については超宗派的な立場にあり、「南無阿弥陀仏」と唱えながら、道路や橋の造営の社会事業を行いました。

難しい修行を行わず、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えるスタイルを始めて行った僧であり、後の浄土宗などの念仏信仰の先駆者と言われています。

一遍|生涯年表

年代 出来事
1239 伊予国(現在の愛媛県松山市)で、河野家の次男として生まれる。
1248 母の死去が切っ掛けで、父の勧めもあり、天台宗継教寺で出家する。
1251 大宰府で法然の孫弟子「聖達」について浄土宗西山義を学ぶ
1263 父の死により、故郷に帰り還俗する
1271 再出家。この時から諸国遊行が始まる
1271 この頃、参拝した熊野本宮で、熊野権現の夢の御告げを受け取る
1276 鹿児島神宮で、神詠を拝する
1277 豊後国大野荘で他阿に出会い、弟子にする
1279 長野に遊行しているときに、踊念仏を始める
1284 上洛して、都の各地で踊念仏を行う。
1286 四天王寺や石清水八幡宮から始まり、西に向かって遊行する
1289 大山祇神社関係者の夢に「一遍を招待すべし」との夢告があり、一遍を大山祇神社に正体、参詣する
1289 明石に渡り、兵庫県加古川市にある教信寺に向かう途中、発病し摂津兵庫津の観音堂で死去。享年51歳。