北条貞時の生涯


北条貞時は元寇(蒙古襲来)への対応で活躍した北条時宗の嫡男で、後に鎌倉幕府の執権となった人物です。貞時が執権だった時期の鎌倉幕府は、様々な問題に対応しなければならない状況でした。

貞時の生涯を見ていくと、時宗亡き後の鎌倉幕府や社会の状況などを知る上で役に立ちます。北条貞時の生涯について詳しく見ていきましょう。

偉大な父の長男として誕生

北条貞時は1272年に、鎌倉幕府8代執権の北条時宗の長男として誕生しました。幼名は幸寿丸(こうじゅまる)といい、母親も時宗の正室・堀内殿であったため、ゆくゆくは時宗の後を継ぐ存在とみなされます。

彼が生まれた頃、幕府は大陸のモンゴル帝国への対応に追われていて、父の時宗もその指揮をとっていました。1277年に6歳になった幸寿丸は元服し、「貞時」と名乗ります。

また1282年には11歳で従五位下左馬権頭(さまのごんのかみ)を任官しました。当時歴代の執権が左馬頭や左馬権頭などに就任していたため、貞時も順調に時宗の後継者としてのキャリアを積んでいたことになります。

14歳で鎌倉幕府9代執権になるも霜月騒動発生

1284年、貞時の父で8代執権の時宗が34歳の若さで世を去りました。貞時はすでに時宗の後継者と目されていたため、14歳の若さで9代執権となります。

ただ自ら政治を行うには十分な年齢ではなかったため、実権は外叔父(母方の叔父)である安達泰盛が掌握しました。なお泰盛は血縁上では叔父ではあったものの、貞時の母・堀内殿(時宗死後は覚山尼)が泰盛の養子となっていたため、実際には外祖父として君臨しています。

当時の幕府は元寇で活躍した御家人たちに与える恩賞(土地)がなく、御家人も窮乏していました。泰盛は何とかこの状況を打破しようとしたものの、改革の過程で平頼綱ら北条家の直臣や荘園領主と対立します。両者の対立は1285年に霜月騒動を引き起こし、頼綱は泰盛を排除しました。

平禅門の乱で平頼綱を討ち実権を掌握

霜月騒動で泰盛を排除した頼綱は幕府の実権を掌握します。貞時の権威を利用して泰盛を排除した頼綱も、次第に主君の貞時を無視する振る舞いが目立つようになりました。

北条家の直臣に過ぎない立場にもかかわらず、幕府の命令書を貞時の花押抜きで発行したり、高い官位を朝廷からもらったりするなどの専横ぶりで知られたほどです。しかも当時は旧泰盛派の御家人もいたため、彼らからも恨まれていました。

頼綱の専横ぶりに貞時は次第に不安を抱きます。そして1293年に鎌倉を大地震が襲ったのを機に、貞時は頼綱を討伐して滅ぼしました。この平禅門(へいぜんもん)の乱が起きた当時、貞時は政治のかじ取りができる年齢に達していたため、頼綱滅亡後に実権を手にします。

永仁の徳政令と得宗権力の強化

ようやく権力を得た貞時は、自らの理想とする政治を始めました。彼は父・時宗が行った得宗(北条家嫡流)が主導する政治への回帰を理想とします。そしてブレーンとして北条一門から師時(もろとき)や顕時(あきとき)らを、御家人から長井宗秀や宇都宮景綱を起用しました。

貞時は得宗主導の専制政治を推し進める一方で、元寇以来深刻な問題と化していた御家人の窮乏にも対処します。1297年には永仁の徳政令を発し、御家人が借金を返済しなくて良いように取り計らいました。ただ次第に貸す側が踏み倒しを嫌って御家人への融資を渋ったため、御家人は生活にすら困ってしまいます。結局徳政令は翌1298年に撤回されました。

ほかにも貞時は薩摩に異国船が出没したことを受け、モンゴルの再度の侵略に備える意味も兼ねて鎮西探題を設けています。

政治への情熱を失った末の最期

実権を掌握して以来、様々な政策を行ってきた貞時は1301年に突然執権職を辞し、出家しました。鎌倉でハレー彗星が目撃されて、戦乱の世が訪れることに不安を抱いたためです。

加えて1305年には北条一門内での対立による嘉元の乱が発生します。騒動を機に貞時は政治への熱意を失い、酒浸りの日々を送るようになりました。一方で嫡男の高時の将来を考え、長崎円喜や安達時顕を彼の補佐役に起用します。

この頃には貞時が政治を放置していた上、後を継ぐべき高時もまだ幼かったため、政治は円喜・時顕・北条家の庶流の人々が行いました。得宗の権力が弱体化してお飾りになる中、1311年に貞時は41歳で世を去ります。後には将来への禍根が多く残され、幕府の危機を暗示するような中での最期でした。

北条貞時の家系図を紹介!


北条貞時は北条時宗の息子として有名ではあるものの、実は彼の家系図を見ていくと他にも知名度の高い人物がいます。

家系図は以下の通りです(〇の数字は執権に就任した順番)。貞時は父に時宗が、母に安達家出身の堀内殿(覚山尼)がいて、母方の叔父(血縁上)に安達泰盛もいます。さらに息子が得宗では最後の執権となった北条高時です。高時については次の項目で見ていきます。

息子は第14代執権・北条高時

北条高時は貞時の三男です。2人の兄は早く亡くなっていたため、幼少時から次の北条家嫡流を継ぐ人物とされていました。

貞時が世を去って5年後、14歳になったところで14代執権に就任します。しかし実権は後見人の長崎円喜とその子・高資(たかすけ)が握っていたため、目立った実績は残せませんでした。1326年には病で執権を退任することになります。

同じ頃、朝廷では後醍醐天皇が幕府打倒を画策し、幕府に不満を抱く武士たちが決起しました。幕府は2度にわたって阻止したものの、1333年に3度目の倒幕運動が起きると、足利尊氏や新田義貞も参加します。やがて鎌倉は義貞に攻め落とされ、追い詰められた高時ら北条一門は自害して果てました。

孫は人気漫画で有名な北条時行

貞時の孫は高時の息子である時行です。人気漫画『逃げ上手の若君』の主人公として有名な彼は、幼少の頃に鎌倉幕府が滅び父も自害したため、北条家臣の諏訪頼重に庇護されます。

後醍醐天皇による建武の新政が行き詰まると、時行は新政に不満を抱く武士たちに支持される形で反乱を起こしました。時行軍が瞬く間に鎌倉を攻め落とすと、足利尊氏は急いで駆けつけて鎌倉を奪還します。

鎌倉を失った時行は、世が南北朝時代に突入すると南朝に帰順し、その一翼として2度鎌倉の奪還に成功しました。しかし3度目の奪還を果たした1352年、足利軍に惨敗した後に捕らえられ、鎌倉で処刑されます。

北条貞時が愛用した鶴丸国永とは?


北条貞時は「鶴丸国永」と呼ばれる刀を愛用したことで有名です。鶴丸国永は平安時代に山城の刀工である五条国永の作品で、刀の外装である拵(こしらえ)部分に鶴丸紋が入れられたことが由来とされています。

もともと安達泰盛が所有していたものの、泰盛が霜月騒動で滅びた後に貞時に渡ったとされているものです。以降は長らく行方不明でしたが、戦国時代に織田信長が入手します。さらに江戸時代には仙台藩主伊達家に渡りました。

明治時代になると鶴丸国永は伊達家から皇室に献上され、現在では御物として扱われています。

北条貞時に関してよくある質問

北条貞時は何をした人物ですか?

北条貞時は鎌倉幕府の9代執権で、1284年に14歳で就任しました。実権を握ってからは永仁の徳政令を出したり、得宗の権力の強化に努めたりしています。しかし晩年は政治への情熱を失い、1311年に世を去りました。

北条貞時はなぜ平頼綱を粛清したのですか?

北条貞時が平頼綱を粛清したのは、頼綱の専横ぶりが目に余るものだったためです。時には貞時の花押(サイン)なしで文書を発行するほどだったため、貞時は頼綱の振る舞いに不安を抱きます。そして1293年に鎌倉で地震が起きたのを機に彼を粛清しました。

北条貞時の死因は何ですか?

北条貞時の死因は病死です。具体的な病名は明らかにされていないものの、亡くなる数年前から酒びたりの日々を送っていたため、体調を崩して亡くなったと考えられます。

年表|北条貞時に関する出来事


最後に北条貞時の生涯を、年表を使って振り返りましょう。

西暦 出来事
1272年 鎌倉で北条時宗の嫡男として誕生
1277年 元服し「貞時」と名乗る
1284年 父・時宗の死により第9代執権に就任
1285年 霜月騒動が発生
1293年 内管領平頼綱(禅門)を誅殺して実権を掌握
1297年 永仁の徳政令の発布(翌年廃止)
1301年 出家・一族の師時が10代執権に就任
1305年 嘉元の乱が起きる
1311年 数え年41歳(満年齢39歳)で死去