大江広元の生涯

大江広元は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて活躍した官僚です。同時に鎌倉幕府の創建にも深く関わっている人物としても知られています。

平安時代から鎌倉時代にかけての激動の時代を生きた、大江広元の生涯を順番に見ていきましょう。

学問の家柄大江氏の出身で朝廷の官吏として活動

大江広元は平安時代後期の1148年、大江維光(これみつ)の子として京都で生まれました。大江氏は代々学問の家系で、祖先には『古今和歌集』や百人一首に歌が選ばれた大江千里(ちさと)や和泉式部などもいます。

広元は生涯の前半期は養子として入った中原氏を名乗っていました。養父の中原広季は「明経博士(みょうぎょうはかせ)」と呼ばれる儒学の専門家で、彼の教育を受けながら育った広元も朝廷の官吏として活躍します。

朝廷の官吏だった頃は、「外記(げき)」と呼ばれる天皇への上奏文の作成や儀式を司る役職でした。朝廷の官吏として活躍したキャリアが、後に源頼朝に高く評価されることになります。

源頼朝に仕え政所別当や最重要の側近に

1180年代になると、全国各地で源氏と平家が争う時代に突入しました。広元の兄・中原親能(ちかよし)は当時関東で台頭した源頼朝と親しく、自身も頼朝の配下として活躍しています。

やがて親能から広元の話を聞いた頼朝は、自身の幕僚として広元を迎えることにしました。頼朝の招へいを受けた広元は、1184年に関東に下るとともに、頼朝が開設した公文所の別当(最高責任者)に任命されます。

以来広元は頼朝勢力内の官僚として内政や法整備、朝廷との折衝などで活躍しました。1185年に頼朝が朝廷に全国に守護・地頭の設置を願い出たことも、実は広元の献策が実を結んだものです。加えて御家人と頼朝とのパイプ役も務めていて、頼朝の弟・義経も頼朝に宛てた腰越状(嘆願書のこと)を広元に託していました。

頼朝の死後は鎌倉幕府の重鎮の一角に

1199年、頼朝が53歳で世を去ると、彼の嫡男・頼家が2代目の将軍(鎌倉殿)に就任します。当時頼家は18歳と若かったため、北条時政などの13人が合議制で補佐することになりました。いわゆる「13人の合議制」には広元も、兄の中原親能とともに参画しています。

頼朝死後の広元は、幕府の実権を握り始めた北条氏寄りの姿勢を取りだしました。1203年に将軍頼家が時政により追放された際も、時政とともに追放計画を立案したほどです。加えて1213年に反北条派の有力御家人・和田義盛が決起した際、広元は2代執権北条義時とともに軍勢の招集や土地訴訟に関する文書を発給しています。

ちなみに1216年にはそれまで名乗っていた中原姓から大江姓に改め、ここに「大江広元」が誕生しました。

執権政治の確立を見届け没する

鎌倉幕府が次第に執権となった北条氏が主導する体制に移る中、1221年には後鳥羽上皇が全国の統治権を回復すべく、承久の乱を引き起こします。広元は老齢に達していたものの、義時の姉・北条政子とともに御家人たちを鼓舞し、幕府の勝利に貢献しました。

承久の乱後の鎌倉幕府は全国への影響力を確固たるものとします。加えて執権職も2代義時から3代泰時に移るとともに、執権政治が確立していきました。

広元は1225年に78歳で世を去っています。なお、広元の死後に北条政子も世を去ったため、鎌倉幕府における1つの時代の終焉となりました。

大江広元の性格や人物像

鎌倉幕府の創建から執権政治の確立まで有能な官僚として活躍した大江広元。彼の性格や人物像がどのようなものだったのかは意外とよく知らないのではないでしょうか。

大江広元の性格などを見ていくと、彼の意外な一面にも気づかされます。広元の人となりをエピソードも交えながら見ていきましょう。

「泣いたことがない」と言われる逸話

大江広元の性格については歴史書でいくつか逸話が残っています。特に有名なものが、鎌倉時代の歴史書である『吾妻鏡』に記された「泣いたことがない」というものです。

この話は、1219年に広元が3代将軍源実朝とともに鶴岡八幡宮に参拝した際の発言に基づいています。「成人後は今まで泣いたことはないのに、今日は涙が止まらないのです」と伝え、実朝に腹巻を身に付けるように進言したという内容です。

「成人してから涙を流したことがない」と本人が言うくらいであるため、普段は冷静な判断力と明晰な頭脳で職務に当たっていたことがうかがえます。

幕府のために尽くす責任感の強さ

また広元は責任感の強い面も持ち合わせていました。3代将軍実朝の時代に鎌倉の市街地を舞台にした戦乱が起きた際、御家人たちは何とか実朝を避難させたものの、焼けていく市街地の様子に呆然とするしかありませんでした。

しかし広元はここで幕府の重要書類が灰になるのを危惧し、書類を救い出すために市街地へ戻ろうとします。周りの御家人たちは広元に何かあってはいけないと感じて一生懸命制止しました。自身のことよりも幕府の運営や行く末を重んじていた広元の責任感の強さがうかがえます。

大江広元の死因

大江広元の死因は病死とする説が有力です。亡くなる数年前から重病に苦しんでいたとも言われています。1225年に亡くなっているため、4年前の承久の乱でも病身を押して御家人たちを鼓舞したとしても不思議ではありません。

そして亡くなる直前には、激しい下痢を伴う病で亡くなったとされています。広元の墓の場所は、自身を抜擢してくれた頼朝の墓の近くにあるのも有名です。

大江広元の家系図・子孫を紹介

大江広元は鎌倉幕府の創建にも関わった有能な官僚としてだけでなく、家系図や祖先・子孫についてもよく話題にされます。彼の祖先や子孫にも多くの著名な人物が名を連ねているためです。

広元の家系図を通じて、彼の祖先や末裔について色々と見ていきましょう。

百人一首で有名な大江匡房と大江広元の関係は?

まず祖先から見ていくと、大江氏は学問の家柄であったことから、祖先にも平安時代に文化面で足跡を残した人物が何人かいます。

中でも大江匡房(まさふさ)は、百人一首にも歌が残されていることで有名です。この匡房は広元から見て曽祖父に当たります。同時に匡房は院政を始めた白河上皇を支えた人物で、高級貴族である公卿として権中納言にまで昇進しました。

子孫はあの毛利元就!

続いて子孫には、中国地方を制した戦国大名毛利元就がいます。実は広元の息子たちのうち四男の季光が毛利氏を名乗った人物です。

その後季光の孫・時親が安芸の吉田庄に定着し、以来安芸毛利家の流れが元就にまで繋がります。加えて元就の孫・輝元が長州藩祖となったことから、幕末にも活躍する長州藩の藩主の血筋も広元から始まるものです。

大江広元の家紋は毛利家と同じ

大江広元の家紋は子孫の毛利元就ら毛利家と同じ「一文字に三つ星」でした。3つの星はもともとオリオン座のおへそのあたりにある3つ並ぶ星を図案にしたものです。

3つの星は「将軍星」とも呼ばれていて、武士の間で広く信仰されていた存在でした。大江家や毛利家の家紋の場合、上に「無敵」を意味していた一文字を付け足すことで、願掛けのような意味合いで採用されました。

年表|大江広元に関する主な出来事

最後に大江広元の生涯を、年表で振り返りましょう。

西暦 出来事
1148年 京都で大江維光の子として誕生
1184年 源頼朝に仕える・公文所別当に就任
1191年 公文所が「政所」に改称・引き続き政所別当に
1199年 頼朝の死により13人の合議制の一員に
1221年 承久の乱で北条政子とともに主戦論を主張
1225年 数え年78歳で死去