後白河天皇の生涯
第77代天皇として即位
後白河天皇は、1127年鳥羽天皇の第4皇子として誕生しました。本来であれば、天皇になる可能性が極めて低い事から、親王時代は遊興にふけっていました。
1155年に近衛天皇が崩御して、守仁親王が即位するまでの中継ぎ的な立場として、天皇に即位します。第77代後白河天皇の誕生です。
このとき、後白河天皇は29歳で、崇徳上皇が院政を行っており、政治的な権限は限定されたものでした。
台頭する武家勢力を翻弄し、王朝権力の復興を目指す
保元の乱・平治の乱を経て、武家勢力が台頭していきます。後白河天皇は、平氏・源氏両方を翻弄して、時には日和見的な態度でかく乱します。
このようにして、自身は一旦は朝廷での立場を悪くしたものの院政を復活させました。最終的には、頼朝と良好な関係を築き、平家に乗っ取られた朝廷の権威も回復しました。
保元の乱に勝利して院政を開始するも傀儡のような存在
保元の乱は、後白河天皇派と崇徳上皇派の戦いで、敗れた崇徳上皇は隠岐に流されました。
後白河派に味方した武士は平清盛、源義朝が居ました。
一方、崇徳上皇側の武士には、強弓で有名な源為朝が居ます。この戦いでは、平氏・源氏共に身内同士の戦いとなっています。
後白河天皇は、二条天皇に譲位し院政を開始しますが、後見の信西に政治の主導権を握られてしまいます。
このことが、貴族の中で不満が大きくなり、平治の乱が起こる原因となります。
平治の乱では、信西に対するクーデターの勃発で、信西は自害し、クーデターの首謀者である藤原信頼も処刑されます。
これにより、後白河上皇の多くの側近を失う事になり、平家政権の足掛かりを作る事になりました。
後白河天皇が本当の意味で、院政を行い朝廷内の権力を握ったのは、平家が滅亡し、頼朝と対面した頃になります。
平家との蜜月関係と崩壊
白河天皇と平家の関係が緊密になったのは、平治の乱の後からです。
減時の乱は、後白河天皇(この時は上皇)が信西(藤原通憲)を徴用したことで、反感を持っていた藤原信頼らがクーデターを起こしたのが始まりでした。
この戦いは、鳥羽上皇の崩御によって、二条天皇派と後白河上皇派の対立が深まる中、信西の目に余る振る舞いが引き金になりました。
これが、源氏と平家の戦いに発展して、藤原信頼に味方する源義朝と反藤原信頼から協力を要請された平清盛が争います。
その結果として、清盛が勝利し源義朝は討死、その子の頼朝は伊豆に流されます。
後白河上皇は、平治の乱で側近を失いその立場も危ういものでしたが、清盛と結託して二条天皇を退位させ、かわりにその子のまだ2歳の六条天皇を即位させました。
そして、院政を行う事で再び権力を手に入れます。1168年には六条天皇も退位させ、高倉天皇を即位させ、反対勢力を抑え込むことに成功します。
1169年には出家して「法皇」となりました。
しかし、清盛との良好な関係も長くは続かず、清盛排除に動いた後白河法皇は、謀議が発覚して幽閉されることとなりました。
後白河天皇の名前の由来と背景
なぜ名前の前に「後」が付くのか?
歴代天皇の名前に「後」が付いている天皇を多く見かけます。
良く知られている例は、「御醍醐天皇」でしょう。
この「後」の意味は、先の天皇のゆかりの土地が今の天皇と同じであるために区別してつけられた、または先の天皇の憧れがあり名前をあやかった場合があります。
後白河天皇の母である藤原 璋子(ふじわら の しょうし)は、幼少の時に父を亡くし白河上皇に育てられました。
後白河天皇は、上皇の立場で天皇よりも権力があった白河上皇に憧れて、白河上皇の後を引き継ぐ思いで、この名前を望んでいたと言われています。
後白河天皇は後白河法皇?法皇とは?
後白河天皇には、「後白河上皇」、「後白河法皇」と呼び名が変わっていきます。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、この時は「法皇」でした。
後白河天皇は、譲位して「上皇」となり、さらに出家した事で「法皇」となりました。
「法皇」の正式名称は、「太上法皇」と言います。
後白河天皇の家系図
後白河天皇の功績
梁塵秘抄の編纂
梁塵秘抄(りょうじんひしょう)は、1180年頃後白河天皇が編纂した歌謡集です。
後白河天皇は、年少の時には天皇になる可能性がほぼなかったことから自由な生活をしており、今様という歌謡にのめりこんでいました。
成人して、歌の上手い人を招いて歌謡をたしなんでいましたが、歌手が死去し、その歌が後世に伝わらない事が残念という思いで、書き留めて本にしました。
これが、「梁塵秘抄」です。
巻は20巻あると伝えられていましたが、実存するものは断片的なものしか残されていません。
出家して、多くの寺仏を造営した
後白河天皇は、上皇になった後出家して「法皇」となりました。法皇となった後は、多くの寺社を造営しています。
主な寺社としては、三十三間堂「蓮華王院」ですが、これは平清盛に命じて作らせたものです。
造営後はしばらく、後白河法皇の院所として使用されました。
法住寺という寺の境内に建てられています。後に源義仲が上皇御所を襲撃する「法住寺合戦」の舞台となります。
長講堂は、後白河法皇が六条殿に建立した持仏堂で、1183年に建立されました。
平清盛と共に日宋貿易に貢献した
日宋貿易は中国の宋との貿易で、960年頃から貿易が盛んでした。
これに目を付けたのは平忠盛で、平時の乱後に平家が大宰府を支配下に置いたことで本格的な取引を開始しました。
後白河天皇も日宋貿易には関心があったようで、1170年に福原の清盛の別荘にて後白河天皇と宋人が面会したと伝えられています。
これにより、福原・博多では宋船の出入りが頻繁に行われ、福原を中心に宋銭が次第に普及していきました。
後白河天皇に深く関わった人物
人物 | 説明 |
---|---|
源義経 | 源義仲・平家追討の為、京に入った義経は、後白河法皇から検非違使の官職を賜ります。しかし、これが頼朝の逆鱗に触れ、結果として奥州平泉で自刃しました。 |
源頼朝 | 頼朝は後白河天皇の日和見的な態度を激しく叱責して、交渉の主導権を握りました。京育ちの頼朝は公家のやり口を熟知していますので、交渉については有利だったと考えられます。 |
平宗盛 | これまで散々後白河法皇につくし、一緒に逃げようとしていたのに、一人だけ逃げ出し「平氏追討」の院宣を発するなど、かなりの裏切り行為をされました。 |
平清盛 | 平治の乱後は平氏が政権を掌握し後白河天皇とは蜜月の状態でしたが、後に反目した後白河法皇は幽閉されます。その後は、天皇の譲位即位も思いのままでした。 |
後白河天皇の評判
後白河天皇の評価にはあまり良いものはありません。
評価の一部を紹介します。
評価の良くないものは次の通りです。
崇徳上皇「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」
「保元物語」に出てくる言葉です。重仁親王を差し置いて即位した事について崇徳上皇が語った言葉です。
藤原信西「和漢の間比類少なき暗主」
九条兼果が編纂した「玉葉」に書かれている藤原信西の言葉です。
信西は後白河天皇の側近でしたが、痛烈に評価しています。
源頼朝「日本国第一の大天狗」
この言葉は「鎌倉殿の13人」にもありましたが、あまりにも有名な言葉です。日和見的な行動に、頼朝はかなり怒っていました。
一方、高評価の言葉は次の通りです。
藤原信西「一旦やろうと決めたことは人が制止するのも聞かず、必ずやり遂げる。」
酷評した信西ですがそのフォローのつもりか、後白河天皇の良い所も述べています。
九条兼果「「法皇は度量が広く慈悲深い人柄であられた。」
この言葉は、後白河法皇が崩御した際に、日記に書いた言葉です。
現在の研究者の評価としては、「武士の台頭に翻弄される古代最後の王」と言われています。
後白河天皇|生涯年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
1127 | 1127年10月18日 鳥羽天皇の第4皇子として誕生 |
1139 | 元服 |
1139 | このころ歌謡・猿楽・田楽など遊興にふける |
1155 | 近衛天皇崩御、棚ぼた的に即位する |
1156 | 保元の乱。後見の信西が実権を握り、お飾りの天皇化になる |
1158 | 二条天皇に譲位し、上皇になる |
1159 | 平治の乱。信西や多くの側近を殺害された後白河派は力を失う。 |
1159 | 後白河派の貴族がどんどん解任されていく。 |
1165 | 二条天皇崩御、六条天皇に譲位 |
1166 | 清盛の協力を得て、憲仁親王の立太子を行う |
1169 | 嘉応の強訴 |
1170 | 福原で宋人と面会 |
1178 | 治承三年の政変にて院政停止。幽閉される |
1180 | 高倉天皇譲位、安徳天皇即位 |
1180 | 以仁王の謀叛発覚。富士川の戦い |
1181 | 平清盛死去 |
1181 | 院政の再開 |
1183 | 叡山潜幸。平家一門・安徳帝都落ち |
1183 | 後鳥羽天皇即位 |
1183 | 法住寺合戦。源義仲の幽閉される |
1184 | 源義経が源義仲を破る。平氏追討の宣旨が下される |
1185 | 平氏滅亡。安徳天皇入水 |
1185 | 東大寺大仏開眼供養 |
1188 | 義経自害。奥州合戦 |
1190 | 源頼朝上洛。後白河法皇と頼朝のみで対談 |
1191 | 再建した法住寺にて崩御。 |