安徳天皇の生涯

後白河天皇と平清盛の孫として誕生

安徳天皇は、第81代天皇であり後白河天皇と平清盛の孫です。後白河天皇と清盛は、最初は友好的な関係でしたが、後に反目しあい清盛は後白河天皇を幽閉してしまいます。

安徳天皇の父は高倉天皇、母は清盛の娘の徳子(後の建礼門院)です。

1178年に誕生し、生後1か月ほどで、「立太子の礼」の儀式を行いました。立太子とは、天皇の跡継ぎとして太子を立てる儀礼です。

生後間もない赤子に立太子の礼を行い跡継ぎであること宣言するのはあまりにも強引な行いですが、当時の清盛に意見を言える人はいませんでした。

その後に天皇となる後鳥羽天皇は1180年生まれであり、安徳天皇は後鳥羽天皇よりも2歳年上になります。

数え年3歳で天皇に即位

安徳天皇は、数え年3歳で「践祚(せんそ)」しました。践祚とは、天子の位を受け継ぐことで、先の天皇の崩御か譲位で行われます。

数え年3歳というと、満1歳2か月で天子の位を譲られたことになります。そしてその2か月後には、天皇に即位します。

もちろん、1歳の赤子に天皇の政治が行えるはずもなく、実際の政治は祖父の平清盛が行いました。このとき、もう一人の祖父である後白河天皇は清盛に幽閉されており、政治に口を出すことが出来ませんでした。

古代は天皇の代替わりで遷都が行われることが多いのですが、清盛の時代にはすでに遷都は行われていませんでした。しかし、安徳天皇が即位した年に、清盛の主導で福原行幸を行っています。清盛は福原京の計画をしていましたが、源氏の挙兵などが発生して結局のところ、福原京への遷都は実現しませんでした。

それで、福原には半年ほど滞在して京に還幸(かんこう:天皇が帰ること)することとなりました。

清盛死後源平合戦勃発、平氏一門と共に都落ち

平清盛の死の前後、各地で源氏の挙兵が起こりました。清盛が死ぬ間際に、源頼朝が挙兵し湊川の戦いで源氏が圧勝します。

そして、京に一番に攻めあがったのが、源義仲でした。

安徳天皇は平宗盛とその一族と共に、1183年に三種の神器を持って都落ちして、瀬戸内海の屋島の御所に入ります。瀬戸内海は、平家の支配下に置かれ、強力な水軍も有していました。

安徳天皇が去った後は、三種の神器が無いままで後鳥羽天皇が即位します。この時初めて同じ時代に2人の天皇が存在する事態となります。

三種の神器が無いまま即位した後鳥羽天皇は、この事が後々負い目となっていきます。つまり、天皇の即位には三種の神器が不可欠です。

それがあった安徳天皇は天皇としては正当で、三種の神器が無いまま即位した後鳥羽天皇は正当な天皇として認められないという事です。

京から落ち延びた安徳天皇と平家一門は、最初大宰府に向かいましたが、平家に対抗する勢力によって、大宰府に入る事が出来ず、讃岐国屋島に向かいました。

御所の建築が間に合わず、一時六萬寺というお寺を借り御所としていました。屋島の御所に滞在したのは2年程度でした。

壇ノ浦の戦い|安徳帝入水

源範頼、源義経率いる鎌倉軍と平家の戦いが苛烈になってきます。

後白河法皇は、持ち去られた三種の神器の奪還を強く望んでおり、平宗盛に三種の神器返還と源氏との和平を打診する使者を送りました。

しかし、宗盛はこれを拒否します。

安徳天皇の御所がある屋島に義経軍が攻めてきました。平家側は、源氏が海から攻めてくると想定していましたが、義経は意表を突いて

一の谷の戦いと屋島の戦いで、平家は破れ安徳天皇と平家の一門は海に逃れます。そして、壇ノ浦で平家と源氏が戦います。

平家は優秀な水軍をもっており、壇ノ浦の戦いでは最初は平氏が優勢でした。しかし、潮の流れが変わり源氏が優勢となります。

加えて、義経がこれまでの戦の常識を覆すような戦術(船の漕ぎ手を射るなど)を行ったことで、平家軍水軍は大打撃を負い壊滅しました。

追い詰められた平家一門は、自決を決意します。

清盛の妻で安徳天皇の祖母である二位尼(平時子)は、「波の下にも都がございます」と言って、安徳天皇を抱いて入水しました。

享年数え年8歳、実年齢は6歳4か月、あまりにも短い生涯でした。

三種の神器の行方

安徳天皇が都落ちした際に、三種の神器も持ち出されています。

そして壇之浦の戦いで、安徳天皇が入水した際に、三種の神器も海に投げ出されました

八尺瓊勾玉と八咫鏡は、木箱に入っていたため浮き上がり、回収できました。しかし、草薙の剣は海底に沈んでいき、取り戻すことは出来ませんでした。

現在ある草薙の剣は、いわゆる複製品です。熱田神宮にてご神体として祀られています。

安徳天皇生存説?地方に伝わる伝承の数々

安徳天皇には生きていて各地に現れたという伝承が数多くあります。

吾妻鏡には、安徳天皇を抱いて入水した按察局(あぜちのつぼね)がいますが、彼女は助け出されてたと書かれています。

しかし、安徳天皇は浮かび上がらず、消息も分かっていないと記載されています

また、当時の関白である九条兼実の「玉葉」でも「安徳天皇の事はよくわからない。」と書かれています。

藤原経房の遺書には壇ノ浦から山里能勢まで安徳天皇を連れて逃げたと書かれています。しかし、一年後には崩御されたとの事でした。

また、久留米の水天宮には、按察使局伊勢に守られ筑後に逃げ伸びたとの言い伝えもあります。
この安徳天皇の久留米潜幸の伝承は水天宮以外にも多く残されています。

その他の地方では、青森県つがる市、鳥取県各地、徳島県三好市、高知県高岡郡、対馬、佐賀県鹿児島県三島村などに伝承が残されています。

安徳天皇の家系図

安徳天皇をお祀りしている神社

赤間神宮

赤間神社は、山口県下関市にあります。
神社ですが、前身は阿弥陀寺で、有名な怪談「耳なし芳一」の部隊になったところです。

主祭神は安徳天皇です。

859年に阿弥陀寺として開かれ、1191年に勅命で御影堂が建立されました。明治時代に入り、神仏分離政策により阿弥陀寺は廃止され、天皇社と名前が変えられます。

その後、「赤間宮」、「赤間神宮」と名前が変わっていきます。

水天宮

水天宮は、祭神が天之御中主、安徳天皇、高倉平中宮、二位の尼の神社です。

壇ノ浦での入水から生き延びた按察使局が水天宮を祀ったのが始まりとされています。水の神であり、子供の守護神として信仰が篤く、全国に多くの分社があります。

総本宮は、福岡県久留米市にあります。

水天宮には安徳天皇の生存の伝承があり、この地で27歳まで生きたと伝えられています

安徳天皇|生涯年表

西暦 出来事
1178 高倉天皇と平時子の第一皇子として誕生する
1178 立太子の儀礼が行われ、天皇の後継として認められる
1180 満1歳2か月で践祚
1180 満1歳4か月で即位
1180 この頃福原へ行幸、半年ほどで還幸
1181 平清盛が死去。大きな後ろ盾を亡くす
1183 源義仲が急に攻め上り、平家一門と一緒に三種の神器を持って都落ちする
1183 三種の神器が無いまま後鳥羽天皇が即位。2人の天皇が存在する事態となる
1185 一の谷の戦い・屋島の戦いで平家が敗北、海上に逃げる
1185 壇ノ浦の戦い。平家が敗北し、安徳天皇は入水。遺体は発見されていないが崩御したものと推定。