吉備真備の生涯


吉備真備(きびのまきび)は、奈良時代に活躍した有力官僚です。歴史の教科書で彼の名前を見たことがある方も多いかと思います。

しかし教科書に載るほどの知名度があるにもかかわらず、真備が何をした人なのかや、どのような生涯を送った人なのかがわからない方もいるのではないでしょうか。実は吉備真備は奈良時代に多くの事績を残した人物です。まずは吉備真備の生涯について見ていきます。

唐への留学生で阿倍仲麻呂と並ぶ存在に

吉備真備は695年に、備中(現在の岡山県)の下道(かとう)郡の豪族の子として生まれました。15歳の頃に平城京に設けられた大学(官僚養成機関)に入って勉学に励みます。

大学にいた頃の真備は高い成績を収めていたため、翌716年には第9回遣唐使の一員に選ばれました。なお同じ遣唐使には唐の玄宗皇帝に重用された阿倍仲麻呂や、当時学問僧であった玄昉も一緒に選ばれています。

唐に入った真備は、以後18年にわたって幅広い学問を身に付けるべく勉学にまい進しました。彼が学んだものは四書五経・歴史書・天文学・音楽・兵法学などと広範囲に及んでいます。元からの俊才ぶりもあり、唐でも阿倍仲麻呂と並ぶ知識人として名を馳せました。

帰国後は玄昉とともに出世

唐で18年にわたって勉学に励んだ真備は、734年に日本に帰国します。735年に都の土を踏んだ後、唐で最新の知識を得たことを買われ、玄昉とともに異例の出世を遂げました。

真備が帰国して間もない737年、平城京では天然痘が流行し、当時権勢を振るっていた藤原四兄弟(藤原不比等の子たち)が全員死亡します。四兄弟の死後は橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を握るとともに、真備や玄昉を補佐役としました。

出世を重ねた真備は、一方で春宮大夫(とうぐうだいぶ)として阿倍内親王の教育も担当しています。真備の教育を受けた内親王は749年に父の聖武天皇から譲位され、孝謙天皇として即位しました。

2回目の遣唐使と鑑真の招へい

孝謙天皇は即位したものの、真備の出世は一時的に止まります。ライバルであった藤原仲麻呂(藤原四兄弟の長男・武智麻呂の子)が橘諸兄に代わって政権を掌握したためです。仲麻呂政権のもとで出世が見込めなくなった真備は、九州へと左遷されます。

そんな中、752年に第12回遣唐使が派遣されることになり、真備も副使として再び唐に渡りました。今回の入唐は翌年に帰国するという慌ただしいものだったものの、真備は日本に渡ることを願っていた鑑真を伴っての帰国に成功しています。

ただ真備自身は帰国後も引き続き大宰府での任務に当たり続けました。当時日本と朝鮮半島の新羅との関係が悪化していたため、新羅への対応を命じられたためです。

藤原仲麻呂の乱の鎮定を経て右大臣に

藤原仲麻呂が政権を掌握して以来、長く中央政界から離れていた真備も764年に70歳を迎えました。真備は老齢を理由に引退を願い出たものの、朝廷からは引退を許されませんでした。代わりに東大寺建立の責任者として都に呼び戻されます。

しかし都に戻って間もなく、藤原仲麻呂が朝廷に対して反乱を起こしました。当時孝謙天皇は淳仁天皇に譲位して上皇となった上、自身の病を治した道鏡を重用していたためです。自身の将来を危ぶんだ仲麻呂は反乱による政権転覆を狙います。

反乱が起こると真備は、唐で得た兵学の知識を買われて鎮圧に当たることになりました。真備の見事な采配のおかげで乱は早期に平定されます。

真備は乱を収めた功により、称徳天皇(孝謙天皇が再び即位)のもとで順調に出世を重ねました。766年には右大臣にも昇進しています。

光仁天皇の時代に老齢で引退

769年に称徳天皇が崩御すると、彼女には子がいなかったため、天智天皇の孫である白壁王が光仁天皇として即位しました。光仁天皇即位の2年後、真備は70代後半に差しかかっていたことを理由に引退を願い出ます。

最初に引退を願い出た際は、光仁天皇の意思で右大臣職に留まり続けました。そして翌772年に改めて引退を願い出た際、右大臣も辞任しています。

真備は辞任した後3年は余生を送り、775年に81歳で世を去りました。

吉備真備はどんな人だった?性格や逸話を紹介


奈良時代の有能な官僚として活躍した吉備真備はどのような人物だったのでしょうか。

真備は多分野に精通していた人物であった分、政治や軍事など多くの面で活躍しました。同時に彼は様々な伝説を残していることでも知られています。

吉備真備の性格や逸話を理解すると、彼の人物像が浮かんできます。吉備真備の人物像を、逸話や死因などとともに色々と見ていきましょう。

政治学や兵法など多芸に秀でた人物|後世の陰陽師の参考にも

吉備真備は政治学や兵法など様々な分野に秀でた俊才でした。もともと平城京の官僚養成機関に入るほどの地頭の良さを備えていた上、唐で多くの学問を修めてきたことで彼の才能が花開きます。

政治面では晩年の769年に、かつて藤原不比等が制定させた養老律令(ようろうりつりょう)の改定法を整備しました。軍事面でも藤原仲麻呂の乱の鎮圧に活躍した上、中国古来の兵法書である「六韜三略(りくとうさんりゃく)」をもたらした伝説まであるほどです。

真備の才能で意外と思われるものに陰陽道もあります。唐から帰国した際に陰陽道の聖典を持ち帰ったほか、国内での普及に力を注いだ話も有名です。なお平安時代の陰陽師・安倍晴明も真備の残した陰陽道を学んで活躍したとされています。

無理難題を鬼の助けで乗り切った説話も

吉備真備は多くの伝説があることでも有名です。中でも有名なものに、唐に渡った際に無理難題を切り抜けた話があります。

吉備真備が唐に渡った際、現地の役人の手で高い建物(高楼)に閉じ込められるものの、鬼になった阿倍仲麻呂の助けを借りて乗り切るという話です。役人たちは真備に次々と無理難題を持ち掛けたものの、真備は仲麻呂のもたらした情報をもとに窮地を乗り越えました。

この話は歴史的な事実というよりも、民間伝承や逸話として伝えられているものです。

真備の説話は他にもいろいろ残されていて、それだけ彼が才知に長けた人物であることを物語っています。

吉備真備の死因は?

吉備真備は775年に81歳で世を去ったことは明らかにされていますが、具体的な死因については不明です。むしろ772年に政界を引退した後の事績がほとんど残されていないため、真備がどのような最期を迎えたのかさえわかりません。ただ大和で没した説が有力視されています。

ただ平均寿命が30代だった奈良時代において、80代まで長生きしている点も真備のすごさを物語るポイントです。

吉備真備は桃太郎の子孫というのは本当?


吉備真備はよく桃太郎との関わりが言われます。桃太郎の子孫とさえ言われていますが、実際のところはどうなのでしょうか?

結論から書くと、吉備真備が桃太郎の末裔かといえば怪しいところです。桃太郎のモデルは、第10代崇神天皇の命で吉備地方を平定した吉備津彦命(きびつひこのみこと)とされています。そして真備ら下道氏(吉備氏)も吉備津彦命の弟・稚武彦命(わかたけひこのみこと)の末裔とされる氏族です。

正確には桃太郎のモデルになった吉備津彦命の弟の家系であるとともに、吉備津彦命には子がいなかったため、桃太郎の子孫とは言えません。なお真備は稚武彦命から9代後の子孫とされています。

年表|吉備真備に関する主な出来事


最後に吉備真備の生涯を年表としてまとめました。彼の生涯を確認する際にご活用ください。

西暦 出来事
695 備中にて誕生
716~17 第9回遣唐使の一員として唐に渡る
734~35 唐より帰国
738 右衛士督に叙任
743 春宮大夫に叙任
746 吉備氏に改姓
750 大宰府に左遷
752 再度の入唐
753 鑑真を伴って帰国
754~64 大宰府にて対新羅対策に従事
764 藤原仲麻呂の乱の鎮定で活躍
766 右大臣に昇進
771 政界から引退
775 81歳で死去