日蓮とは?どんな人なのか

日蓮の誕生・出家と布教活動

日蓮は安房国長狭郡東条郷という漁村で1222年に誕生しました。12歳になると当時は天台宗寺院だった「清澄寺」に入ります。師匠は道善房で、学問は先輩の浄顕房と義浄房から指導を受けました。

日蓮が生まれた時代は、鎌倉幕府と朝廷が争った「承久の乱」の翌年でした。戦乱の世の中を幼いながらも経験した日蓮は、清澄寺に入ると寺のご本尊である虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)に、日本一の知恵者になりますようにと願いをたてたといわれています。

17歳になると全国行脚を開始し、鎌倉の比叡山延暦寺四天王寺などで学びました。その間、日蓮は膨大な数の経典を学び、そこで最終的に選んだのが「妙法蓮華経」だったのです。妙法蓮華経の素晴らしさを世間に広めようと布教活動を始めました。この日蓮が興した宗派が日蓮宗です。

日蓮の姿勢「四箇格言」

日蓮が広めようとしていた教義は、「題目(南無妙法蓮華経 私は法華経を信じます)」と唱えることで、極楽浄土にいけますよという、とてもシンプルなものです。

当時は浄土宗・法然の「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えることで極楽浄土へ行けるという教義や、禅の修行により仏道を極める禅宗といった教義が次々と誕生していました。日蓮はこうした他宗派の教義を全面否定します。

この他宗派を認めないという否定こそ、日蓮宗の特徴の1つといえるでしょう。日蓮は「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」という言葉を残しました。これを「四箇格言(しかかくげん)」といいます。

日蓮は他宗派の教義は断固として認めず、他宗派に対して戦いを挑むような姿勢で、布教活動に専念していました。

鎌倉幕府に立正安国論を提出

日蓮は1260年、鎌倉幕府の第5代執権北条時頼に対し「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」を提出します。立正安国論というのは、当時相次いで起きていた地震や暴風雨、さらに疫病や飢饉などの原因が、正法である「妙法蓮華経」を信用せず邪法を信用しているためであると説いたものです。

日蓮は邪法を信用していることで国を守ってくれる諸天善神(八幡大菩薩や天照大神、鬼子母神など)が国を去り、悪鬼が国に入っているから災難が起こると説きました。こうした災難を止めるためには、悪法を直ちに止めて、正法(日蓮の法華経)に帰依しなければならないとしたのです。

また浄土宗を名指しにして、「浄土宗を放置すれば天変地異などが起き、国内では内乱、外国からは侵略を受けると唱えます。

これに激怒した浄土宗の宗徒たちは日蓮への襲撃事件「松葉ヶ谷の法難」を起こし、禅宗を信頼していた北条時頼からも怒りを買い、翌年伊豆国に流罪となったのです。

日蓮宗の教えとは

日蓮宗の教義を簡単にいえば、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることで極楽浄土に行けるというものです。南無妙法蓮華経と繰り返し唱えることが修行であり、信仰そのものだと伝えています。

日蓮は法華経(南無妙法蓮華経)はお釈迦様の心をそのまま表しているとし、この7文字こそ、功徳なのだと教義しています。

この日蓮宗の教義のみが本当の教義であり、そのほかの宗派・教義を決して認めないのも、日蓮宗の教えといっていいでしょう。

日蓮に起きた4つの法難

松葉ヶ谷法難

日蓮に起きた四大法難のうちの1つが、松葉ヶ谷法難です。日蓮は鎌倉幕府に立正安国論を提出しました。今起きている地震や異常気象、疫病や飢饉などは、念仏や禅教といった「邪教」が原因であり、幕府は宗教政策を変更し「法華経を正法」とすべきだという内容です。

これを聞いた浄土宗の宗徒たちは激怒し、立正安国論を提出した1か月後、日蓮の草庵を夜間襲撃し焼き討ちしたのです。日蓮は下総国中山に避難し無事でした。

この襲撃の黒幕には鎌倉宗教界で実力を持っていた北条重時や、第6代執権の北条長時らがいたといわれています。

伊豆法難

立正安国論を鎌倉幕府に提出した翌年、日蓮は捕らえられ伊豆に流罪となりました。伊豆に着く前に、俎岩(まないたいわ)と呼ばれる岩礁に一人置き去りにされます。

そこに漁師の弥三郎という人が助けに来てくれたため、日蓮は命を落とさずに済んだといわれています。伊豆に入ってから3年、この地で過ごし、1263年に赦免により鎌倉に帰ることができました。

伊豆の川奈港の奥にある御岩屋祖師堂には今でも日蓮をかくまったといわれる岩屋が残されています。また日蓮を助けた弥三郎の住所跡には、蓮慶寺が建立されました。お寺には日蓮と弥三郎夫婦の像が祀られています。

小松原法難

1264年、日蓮は母が重い病だと聞き、故郷である安房国長狭郡東条郷へ向かっていました。それを聞いた東条景信(熱心な念仏者)は日蓮を襲撃しようと考えます。

天津に向かっていた日蓮と弟子一行を、景信らは武装した数百人で襲撃したのです。日蓮は頭に傷を、また左手を骨折するという大怪我でした。弟子の鏡忍房は討死し、急ぎ駆け付けた工藤吉隆も重傷を負い、後にその傷が原因となって亡くなっています。

この時、襲撃を企てた張本人の「東条景信」は落馬したため、日蓮は命まで取られなかったと伝えられています。

日蓮は弟子が亡くなり、幾人もの人がケガを負ったこの法難に際し、やはり念仏は災いのもとになるのだと、改めて法華経が正法だと強く感じたのです。こうしたことがあり、日蓮は後に見舞いに来てくれた道善房に、改めて念仏から法華経へ帰依するように説いたそうです。

日蓮は同年の末ごろに鎌倉に戻ったといわれています。

滝ノ口法難

1271年、真言律宗の良観と祈雨の件で諍いがあり、良観は幕府に対して訴えを起こしました。日蓮は訴えに対して陳上を提出しましたが逮捕されます。御家人の平頼綱の取り調べにおいて、日蓮は再度立正安国論を訴え「鎌倉にある寺を焼いて浄土宗の僧侶たちの首をはねなければならない」と主張し佐渡国へ流罪となってしまいました。

しかしこの流罪は表向きで、実は瀧口(たきのくち 鎌倉幕府の処刑場)で斬首しようとしていたのです。日蓮が刑場に着きいよいよ首をはねようとすると、不思議な光の玉が周囲を照らし刀が折れるなどの不思議な出来事が起こり、処刑は中止となりました。日蓮は殺されることなく、佐渡へ流罪となったのです。

佐渡では塚原三味堂という墓のある野原に建てられていた粗末なお堂で暮らします。冬は雪が吹き込み夏は暑く、食料も乏しい厳しい環境だったそうです。しかし日蓮は到着したその日から、開目抄の執筆にとりかかったといいます。

日蓮に法難が起きた理由

日蓮は法華経を通じ、法難にあうことを理解していたと思われます。法華経の一節では「法華経を広めるものは、それを理解しないものから迫害にあう」と説いているのです。

つまり法華経によると、日蓮に法難が相次いだ理由は、正しいことを行っているからこそ起こるものということになります。日蓮からすれば、松葉ヶ谷の法難・伊豆法難・小松原の法難・瀧の口の法難という四大法難が起きた事実そのものが、法華経が正法だと証明するものだったのです。

日蓮と鎌倉幕府

日蓮は佐渡に流されてから、より一層、思想を極めていきました。その独自の教えをまとめたのが「観心本尊抄(かんじんのほんぞんしょう)」です。

日蓮は1274年に佐渡流罪が赦免され、鎌倉幕府に呼び出されました。実はこの年、モンゴルの「元」が侵攻寸前となっており、元の侵攻について「外国が日本を攻め日本は滅亡する」と予言していた日蓮に力を借りようとしたのです。

平頼綱は日蓮の前に立つと「寺院をやるから元を追い払う祈祷をしてほしい」と依頼します。すると日蓮は条件を出しました。日蓮宗以外の宗派を認めないという条件です。その条件を告げると、日蓮は身延の門弟屋敷に引きこみました。

1274年には日蓮の予言通り元が来襲しましたが、鎌倉幕府が奮闘し元を撃退します。日蓮の予言は半分あたり、半分外れたのです。日蓮は蒙古軍が全滅したと聞くと、自分の予言が半分外れたことを知り大層落ち込んだといいます。

日蓮は気落ちしたまま重病となり、1272年に60歳で亡くなりました。

日蓮の生涯年表

西 暦 年 齢 出来事
1222年 0歳 安房国長狭郡東条郷で誕生
1234年 12歳 初等教育を受けるため清澄寺へ入る
1238年 16歳 道善房を師匠とし得度・出家
1253年 31歳 清澄寺で「日蓮宗」宗旨建立
1260年 38歳 立正安国論を鎌倉幕府に提出
松葉ヶ原の法難
1261年 39歳 伊豆法難
1264年 42歳 小松原法難
1271年 49歳 瀧の口の法難
佐渡流罪
1274年 52歳 身延山入山
1279年 57歳 本門戒壇 大御本尊建立
1282年 60歳 日興上人を後継者と定める
武州 池上宗仲の館で入滅(逝去)