行基は何をした人?

行基の生い立ち

行基は668年に河内国大鳥郡で誕生しました。父は高志才智、母は蜂田古爾比売で、父は中国系帰化人だったといわれています。行基は14歳で出家し、薬師寺に入りました。そこで高僧の「義淵」(ぎえん)」から、古代中国で生まれた仏教宗派である「法相宗(ほっそうしゅう)」を学んでいます。

当時は国が仏教を管理している時代で、道場の中で学問と修行に励むのが通常でした。また仏教は「政治のために学ぶもの」であり、布教活動などしている僧侶はいなかったのです。

初めのうちは行基も勉強に励んでいましたが、いくら自分の頭の中に仏教の教えが入っても、人の役には立たないと考えるようになります。行基は朝廷の許可を得ず、仏教の布教活動を開始しました。

仏教布教と弾圧

行基が仏教の布教活動をしていることを知った朝廷は、717年、仏教寺院に再度「辻説法(道端で歩いている人に対し説法する)」の禁止を伝えました。しかもその際、「行基と弟子が道端で指を切りそれを焼くなどを苦行といい、民衆に食事を要求して惑わせている」と、行基を名指しで批判したのです。

朝廷の許可を得ることなく仏教の布教活動などを行う人物は「私度僧(しどそう)」と呼ばれており、その活動に対する弾圧は厳しいものだったようです。

しかし行基の活動は大衆から注目され、1万人の聴衆が行基の活動を見に行くようになりました。722年にも同様に、朝廷は辻説法の禁止を再度呼びかけましたが、行基の布教活動は続きます。

行基集団で「社会事業」を行う

行基は群衆の力で何かしようと考えていたわけではなく、あくまでも仏教を広めたい、人の役に立ちたいという考えから布教活動を行っていました。また行基は布教のほか、皆と一緒に耕作地を開拓し、貧しい人が食事をして泊まれる「布施屋」を造り、橋・道路などの土木工事まで行ったのです。

行基の師とされているのは「道昭」で、遣唐使として唐に渡り、玄奘三蔵から法相驚愕などを学んだ人です。唐で各地を遊行した道昭は、土木事業なども行っていたといわれています。行基は公共的な土木工事にも携わっていますが、師であった道昭から影響を受けていたのではないでしょうか。

こうした活動が朝廷から認められ、731年になると以下の通達を出しました。

  • 行基法師と共に修行し法を守っている者に限って、男性は61歳以上・女性は55歳以上の者に対し「僧尼」と認める

この通達によって行基は「私度僧」から「法師」として認められました。

東大寺「大仏」建立の寄付を集める

朝廷に認めてもらった行基ですが、それ以降も変わることなく、全国各地で布教し、池を掘ったり寺を建立したりと、精力的に慈善活動を行いました。行基が関係した貧しい人たちの宿泊所、救護施設である布施屋は9件に及びます。

そのほかにも橋の建設が6基、道場や寺院も49か所、ため池15面と、行基の社会活動は止まることを知りませんでした。こうした活動を見ていた朝廷は、次第に行基を尊敬するようになります。

当時、連続した災害や疫病などにより、民衆の生活は苦しい状態でした。聖武天皇はこれを救いたいと東大寺に大仏の建立を決めます。

聖武天皇は、大仏建立の莫大な資金の調達と労働力の捻出業務を行基に依頼しました。行基は信徒と全国各地を巡り、積極的に勧進(信者に話をして寺院建立等の寄付金をいただくこと)を行い、大仏の建設現場でも先頭に立って働いたといいます。

日本初の「大僧正」となった行基の死と「開眼供養」

聖武天皇は行基の働きに深く感謝し、745年行基に対し「大僧正」の位を与えました。これは日本で初めてのことです。当時の人たちは行基を尊敬し「行基菩薩」と呼んでいたといいます。

しかし大仏の建設が始まると、次第に行基は体調を崩すようになります。その様子を見ていた聖武天皇は行基の死期を悟り、749年の正月に出家します。聖武天皇に対する出家の儀式を行ったのは行基です。

行基は大仏の完成を見ることなく、749年に亡くなりました。大仏は9年という歳月をかけ、752年に完成しています。

大仏の開眼供養(仏像等に魂を入れる儀式)では、聖武天皇が大仏の目に墨を入れようとしていましたが、すでに筆を持つ力もありませんでした。聖武天皇は行基が中国より招いた「菩提僊那(ぼだいせんな)」という僧侶に手紙を出し、開眼供養を依頼したそうです。

古式の日本地図「行基図」は行基が作った?伝説と実態

行基図というのは古式の日本地図で、行基が作ったといわれています。しかし行基が作ったとされる古式地図で、当時造られたものは残っていないようです。この行基図は、日本地図の原型となっており、江戸時代中頃に長久保赤水らが造った日本地図以前は、行基図が日本地図の基礎でした。

行基図は「行基式日本図」とも呼ばれます。平安京の「山城国」が中心として書かれており、各国は俵や卵状に表示されています。平安京から街道が伸び、全国の街道につながり、行基図によっては田畑の面積なども記されているようです。

ただ行基が書いたものであれば、行基が生きていた頃の都「大和国平城京」が中心になっているはずという意見もあります。全国各地を布教活動で回っていた行基だったから、こうした地図がかけたのかもという予想から、行基が作者と仮定されたのかもしれません。

行基ゆかりの場所

喜光寺は行基が創建したお寺で、東大寺大仏殿のモデルといわれており、本堂は「試みの大仏殿」と呼ばれる重要文化財です。喜光寺は6月下旬からお盆あたりまで見ることができる「蓮の花」でも知られています。

行基が聖武天皇より依頼され、東大寺の大仏建立のため布教活動を行っていた際、喜光寺が拠点となっていました。

元々は「菅原寺(すがはらでら)」という寺でしたが、病に倒れた行基を聖武天皇が見舞った際、ご本尊から光が差し、これを見た聖武天皇が喜ばれたことで「喜ばしい光の寺・喜光寺」としたそうです。

喜光寺

奈良にある3体の行基像

奈良には3体の行基像があります。1体は近鉄奈良駅前にある行基像で、1970年に駅前広場ができた際に建立されたそうです。元々は奈良の伝統工芸「赤膚焼(あかはだやき)」で造られていましたが、何度か破損し、現在は3代目のブロンズ像となっています。

1970年に行基像がつくられた際、同時にあと2体造られていました。もう1体は行基が建立したといわれている霊山寺「八体仏霊場」横にあります。

最後の1体は「九品寺」で、こちらも行基が開創したといわれているお寺です。こちらの本堂裏手には、1,000体の石仏群があります。この「千体地蔵」と呼ばれる石仏群は、200年前に境内の竹藪を開墾した時に発見されたものです。実際には1,800体ほどあるという石仏群も圧巻です。

河内七墓

行基が布教活動を行っていた時代は、飢饉や疫病で多くの方々が苦しみ亡くなっていました。行基はこうした厄災によって亡くなった河内一円の方々を手厚く葬り墓を建てます。そのお墓が「河内七墓」です。

行基は、当時には珍しく亡くなった方々を「火葬」によって葬りました。行基の師である「道昭」が日本で初めて火葬されたことで、それに倣ったのかもしれません。しかし疫病等で亡くなった方々から、生きている人々を守るために火葬にしたともいわれています。

河内の人々は行基が開いた「七つの墓」をお参りすることが先祖供養につながり、子どもに迷惑をかけることなく往生できるといい伝えています。

行基の生涯年表

西暦 年齢 出来事
688年 0歳 河内国大鳥郡で誕生
682年 15歳 大官大寺で得度
691年 24歳 葛城山高宮寺徳光禅師の元で授戒

飛鳥寺・薬師寺で教学を学ぶ

704年 37歳 山の修行を終え都で布教活動・社会活動開始
717年 50歳 僧尼令違反で朝廷から布教活動を禁止される
730年 64歳 平城京の東丘陵で説法し数千から時には1万人を集める
731年 65歳 朝廷が弾圧を緩める
736年 70歳 インドの菩提僊那・チャンパ王国の仏哲・唐の道璿が来日 行基が迎える
738年 72歳 朝廷より「行基大徳」の諡号が授けられる
740年 74歳 東大寺の大仏造立責任者に任命される
743年 77歳 東大寺大仏造営の勧進となる
745年 79歳 朝廷から仏教界最高位「大僧正」の位を送られる
749年 81歳 入滅