北条義時の生涯


1163年、北条義時は北条時政の次男として生まれました。北条氏は一般的な地方豪族でしたが、伊豆に流された源頼朝が北条政子と結ばれたことで、運命が大きく変わっていきます。

この項目では北条義時の主な出来事について解説します。

平氏討伐に父、兄と共に出陣

1180年、以仁王が平氏打倒の令旨を発布しました。伊豆国にいた源頼朝も呼応する形で出陣し、北条義時は父・時政と兄・宗時と共に源頼朝に従いました

富士川の戦いで勝利を収めた義時と時政はその功績を称えられ、頼朝の側近として活躍するようになります。合戦の中で宗時は戦死してしまったため、義時が嫡男(子の中での年長者)になりました。

源頼朝の側近として仕える

1181年、北条義時は源頼朝の寝所の警護をする側近に選ばれます。義時は側近の中でも筆頭だったとされており、頼朝に信頼されていたことがうかがえます。

1182年、源頼朝の愛妾(あいしょう)だった亀の前に嫉妬した北条政子が、亀の前の邸宅を破壊するという事件を起こします。源頼朝は実行した牧宗親に厳しい罰を与えましたが、その対応に時政は激怒し、伊豆国に戻ってしまったのです。

北条義時は時政に従うことなく鎌倉に留まったことで、頼朝から称賛を受けます。以後、側近として重用されました。

十三人の合議制の一員に抜擢

源頼朝が亡くなった後、将軍職は頼朝の息子・頼家が引き継ぎました。しかし、頼家は当時18歳。武士たちをまとめ上げた経験などもない頼家ひとりに幕政を背負わせるのは危険だと周りの有力御家人は考え、「十三人の合議制」を結成しました。

十三人の合議制は、訴訟が起こった際に有力御家人13名で合議し、判決を出すという制度です。北条義時は父・時政とともに合議制のメンバーに選ばれました。

十三人の合議制は有力御家人の権力争いの場でもありました。北条義時は時政と共に敵の御家人を滅ぼし、権力を拡大していったのです。

2代執権として幕府内での権力を強める

1205年、牧氏事件をきっかけに初代執権だった北条時政は失脚し、義時が2代執権を継ぎました

実際に執権としての権力を確立したのは和田合戦後だったとされています。侍所別当だった和田義盛が滅びたことで、北条義時は侍所別当を引き継ぎました。
侍所別当、政所別当、執権を兼任し、名実ともに幕府の最高権力者となったのです。

北条義時が執権として進めた最大の仕事は、承久の乱の戦後処理でした。承久の乱に勝利したことで幕府の支配圏は広がり、新たな体制づくりが求められたのです。
北条義時は朝廷の監視と西国の御家人の統率を行う六波羅探題を京都に設置したほか、守護・地頭の再配置なども行いました。

北条義時の最期

北条義時は62歳でこの世を去りました。死因は病気だったとされています。当時は猛暑が続いていたため、義時は脚気や熱中症のような症状に悩まされていたようです。
北条義時の死は突然だったこともあり、死因については様々な噂が飛び交いました。妻・伊賀方が毒殺したとする説や、義時の近習が刺殺したという説も史料に残されています。

北条義時が関わった事件

事件 概要
比企能員の乱 比企能員の乱は、2代将軍・源頼家の外戚として力をつけていた比企能員(ひきよしかず)を、北条時政が自邸に呼び出し殺害した事件です。
北条義時は軍勢を率い、頼家の妻と息子を滅ぼしました。
畠山重忠の乱 有力御家人だった畠山重忠が北条時政の謀略によって滅ぼされた事件です。北条時政の後妻・牧の方が畠山氏が謀反を企んでいると讒言し、時政の命で北条義時が討伐しました。
重忠の討伐に反対していた北条義時は、この事件を機に時政と対立するようになります。
牧氏事件 平賀朝雅を将軍に擁立しようとした北条時政と後妻・牧の方を、北条義時と政子が討った事件です。時政と牧の方は伊豆国に追放され、平賀朝雅は京都で殺害されました。
時政を追放したことにより、義時は御家人の中で最高権力者としての地位を確立しました。
和田合戦 北条氏打倒を企てた和田義盛が起こした争乱です。三浦氏の裏切りにより和田義盛は滅ぼされました。
北条義時は和田義盛を滅ぼし、義盛が就いていた侍所別当の役職を引き継ぎました。この時点で義時は執権、政所別当、侍所別当を兼任しています。
源実朝暗殺 3代将軍・源実朝は源頼家の息子の公暁(くぎょう)によって暗殺されました。実朝が亡くなったことで源氏の血縁は断絶したため、北条政子が一時的に政務をとり、補佐として義時が実権を掌握しました。執権政治のはじまりだとされています。
承久の乱 承久の乱とは、1221年に起こった朝廷対幕府の争乱です。
幕府に対し不満を抱えていた後鳥羽上皇が北条義時を追討しようと挙兵しますが、東国の御家人により鎮圧されました。承久の乱に勝利したことで、幕府は全国支配を固めます。

北条義時の家系図


北条義時を中心とした家系図は以下の通りです。

北条義時は北条時政の次男として生まれ、姉の政子、弟の時房らとともに源頼朝の側近として活躍しました。

家系図からもわかる通り、北条義時は複数の妻と子供を儲けており、10人以上の子がいたとされています。いずれの子も六波羅探題評定衆といった要職に就いており、北条家得宗(直系の家系)が強い力を持っていたことが分かります。

北条義時の女性関係


北条義時は4名以上の女性と子を儲けたとされています。その中でも正室の姫の前、側室の阿波局伊賀方は北条義時の妻として有名な人物です。
この項目では上記3名について簡単に紹介します。

正妻|姫の前

姫の前は比企朝宗の娘で、頼朝の御所に勤める女官でした。姫の前は北条義時に見向きもしていませんでしたが、源頼朝が2人の仲を取り持ったことで結ばれました。

比企能員の乱を機に比企氏は滅び、その際に義時と離別したとされています。

側室|阿波局

阿波局は義時の長男・北条泰時の母です。

義時との結婚に至る経緯は不明ですが、史料に「御所女房」の記載があることから、姫の前と同様頼朝の御所に勤めていたのではないかと考えられています。

側室|伊賀方

伊賀方は御家人伊賀朝光の娘です。北条義時が姫の前と離別した後に側室として迎え入れられたとされています。
のちに7代執権を担う北条政村ほか5人の子を儲けました。

北条義時の死後、北条政子によって謀反の疑いをかけられた伊賀方は、兄の伊賀光宗、娘婿の一条実雅とともに流罪の刑に処されました。実際に伊賀方が謀反を企んでいた可能性は低く、北条泰時は調査をした上で北条政子の訴えた内容は嘘だったと否定しています。

北条義時の年表

出来事
1163年 北条義時誕生。
1180年 伊豆で挙兵した頼朝に従い平氏討伐に参加する。
1181年 源頼朝の寝所を警備する側近に選ばれる。
1183年 嫡子・北条泰時が誕生。
1199年 源頼朝死去。源頼家が2代鎌倉殿に就任する。
十三人の合議制」を発足しメンバーとなる。
1203年 比企能員の乱が起こる。
源実朝が3代将軍に就任。北条時政が執権を担う。
1205年 畠山重忠の乱が起こる。
北条時政、牧の方が鎌倉を追放される(牧氏事件)
1209年 政所別当に就任。
1213年 和田合戦が起こり有力御家人・和田義盛が敗れる。義時が政所別当、侍所別当を兼任する。
1219年 3代将軍・源実朝が公暁により暗殺される。源氏家系が途絶え、執権の権力が強くなる。
1221年 承久の乱が起こり、幕府側が勝利する。
1224年 病気で倒れ死去。享年62歳。