平将門の乱は、今からおよそ1000年以上も前にあった戦いで、実は日本の歴史に大きな影響を与えたとされる事件の1つです。

本記事では平将門の乱を中心に、平将門の乱が起きた経緯や詳細、結末などを解説します。

平将門といえば東京・大手町にある将門塚を思い浮かべる方もいるはずです。この将門塚ができたのも平将門の乱が大いに関係しています。

大河ドラマにおいてあまり細かく触れられることが少ない、平将門の乱について詳しくまとめました。

平将門の乱とは

平将門の乱は939年に平将門が起こした反乱です。下総の北部を拠点として勢力を拡大していた平将門が、最終的に自らを新皇と名乗り、朝廷に反旗を翻し、戦いを仕掛けました。

事の発端は平将門が妻として求めていた、源護(みなもとのまもる)の娘3人がいずれも嫁いでしまったことで、平将門が激怒し、源護の息子や叔父を殺害してしまいます。これに怒った源護などが平将門打倒に動いたのです。

しかし、平将門は強く、歯が立たなかったため、源護などは朝廷に泣きつき、平将門は一度囚われの身になります。ここで天皇からの恩赦があって平将門は釈放され、再度勢力を拡大していきました。

平将門の勢力は関東一円まで拡大し、朝廷を敵に回して自ら新皇と名乗り出します。これに朝廷が激怒して平将門の乱が起こりました。

朝廷のメンツをかけたなりふり構わぬ対応がようやく実を結び、平将門は討ち死にとなったのです。

平将門の乱が始まった経緯

平将門には父・平良将から受け継いだ所領がありましたが、この所領が叔父である平良正や平良兼、平国香に横取りをされていた事実が明らかとなりました。

加えて、妻として求めていた源護の娘3人が、あろうことか父の所領を横取りした平良正や平良兼、平国香に嫁いでしまったのです。他には平将門は別の女性を妻にしたものの、今度は源護の3人の息子が平将門の妻を奪おうとしたとされています。

土地も女性も奪われ、挙句、妻までも奪おうとされたら平将門も黙ってはいません。こうした経緯から源護の息子や国香が殺され、親族間の争いに発展します。

この戦いで平将門は完勝し、のちに朝廷に捕まるも恩赦で復活すると、今度は朝廷を味方につけて完膚なきまで叩き潰していきます。

一方で朝廷の横暴に対する平将門の怒りも強く、次第に矛先は朝廷にも向けられていき、1つの出来事をきっかけに平将門の乱が勃発しました。

平将門の乱を起こした平将門の人物像

そもそも平将門とはどのような人物像なのか、主な人物像を以下にまとめました。

  • 天皇の血筋を引く人物
  • 親族間で権力争いを展開

本項目では、平将門の人物像を詳しくまとめています。

天皇の血筋を引く人物

平将門の家系図をさかのぼると、桓武天皇に行きつきます。つまり、平将門は桓武天皇の血筋を引いている人物です。桓武天皇のひ孫「高望王」が「平」という姓をもらい、上総の国司を務めました。

高望王は将門の父・良将をはじめ、のちに敵対する良正や良兼、国香など5人の子どもがいます。平将門は若くして京に行き、要職を目指しますが、当時藤原氏が要職を独占していたため、要職には就けないと平将門は諦め、上総に戻ってきました。

夢破れて上総に戻ってきた時、父の所領が父の兄弟たちに横取りされていたことが発覚します。これをきっかけに親族間でさまざまな権力争いが起こったのです。

親族間で権力争いを展開

平将門の乱に至るまで実に多くの争いが起きており、935年2月に源護の息子3人が殺害され、源護の本拠地を焼き払った際に国香は焼死してしまいます。ここから激しい親族間の争いに発展、そのすべてで平将門は勝利を収めました。

息子3人を殺された源護はついに朝廷に泣きつきますが、運悪く朱雀天皇の元服にぶつかり、恩赦があったために平将門は釈放され、残っていた親族も平将門によって駆逐され、親族間の争いにピリオドを打ちます。

935年に源護の息子3人を殺害してからわずか数年の出来事でした。その結果、平将門の名は関東で知られるようになります。

平将門の乱の詳細

平将門の乱はいくつかのプロセスによって起こりました。プロセスを以下にまとめています。

  • 人助けの末に朝廷から領地を奪取
  • 朝廷は平将門を朝敵に
  • 関東8カ国を奪取して新皇を名乗る

本項目では平将門の乱に至った経緯について詳細をまとめました。

人助けの末に朝廷から領地を奪取

関東一円に勢力を拡大した平将門は、藤原玄明に助けを求められます。藤原玄明は税金の支払いを巡って常陸の国司と対立しており、平将門に味方になってほしいと泣きつかれた形です。

藤原玄明は重税で多くの民が苦しんでいたことを理解し、あえて税金を支払わず、朝廷が持っていた蔵を襲撃して、蔵の中にあった米を民に配っていた人物でした。こうした活動を平将門は理解し、助太刀をした格好です。

結果として平将門が常陸の国司と対峙することになり、多勢だった常陸の軍を打ち破り、国府を焼き払いました。この時、国司に与えられた書類を奪い、朝廷から領地を奪取しました。

朝廷は平将門を朝敵に

平将門の存在は当然朝廷もわかっていましたが、「関東で起きている親族間の争い」程度でしか考えておらず、いわば対岸の火事としての認識でしかありませんでした。

ところが、朝廷の領地が奪われたことで、朝廷は事の重大さに気づかされます。平将門が起こしている反乱に当然ながら朝廷は激怒し、平将門を討伐しようという動きに発展します。

その間も平将門の快進撃は止まりません。朝廷の領地をことごとく襲撃していき、奪取に成功しました。

一方で朝廷は東での平将門の動きだけでなく、西側で藤原純友が反乱を起こしているという情報が伝わっていました。東西で朝廷を脅かす存在が出てきたことで、何が何でも討伐をしなければならないという機運につながります。

関東8カ国を奪取して新皇を名乗る

平将門は結果として関東8カ国を奪取することに成功し、重税などに苦しんでいた民たちは平将門の動きに感謝し、絶大な支持を向けるようになります。

こうした動きを察知した平将門は、関東8カ国を抱えるトップとして自らを「新皇」と名乗りました。新皇と名乗ったことに対し、周囲は諫めたものの、平将門は聞く耳を持ちません。

こうした新皇の動きなども朝廷は把握しており、ついに平将門の討伐に動きます。常陸の領地を奪ってから新皇を名乗るまでわずか2か月程度とその動きは相当な速さでした。

平将門の乱の結末は?

平将門の乱は結果として鎮圧され、平将門は討ち死にとなります。

最後に、平将門の乱がどのような形で幕を閉じたのかを解説します。

朝廷の執念を前に将門無念の討ち死に

朝廷は平将門討伐に動き、最初は「祈祷」を行いました。当時敵対する相手に呪いをかけることが一般的であり、陰陽師が政治に影響を与えることが目立っていた時代です。

しかし祈祷を行っても情勢は何も変わりません。しびれを切らした朝廷は、平将門を討ち取った人物はどんな身分であろうと貴族にするという通達を出しました。

なりたくてもなれない貴族に、平将門を討ち取ればなれるとあって、平将門討伐に向けた動きが各地で本格化します。この動きに乗ったのが藤原秀郷でした。

そして、父である平国香を平将門によって殺されていた平貞盛が藤原秀郷と手を組み、多くの兵をかき集めて平将門と戦い、勝利をおさめました。

貴族になりたかった藤原秀郷の野心と父の仇を討つために執念を燃やした平貞盛を前に、平将門は敗れ、討ち死にとなりました。

平将門の首は京で何か月も晒され続けますが、一向に腐らず、夜になると叫び続け、いつの日か関東に飛んでいったという話まで出ました。大手町にある将門塚は平将門の首が落ちた場所と言い伝えられています。

将門を討伐した武士の子孫が平清盛

平将門を討伐した平貞盛は、朝廷から認められ、官位を授けられました。その後は貴族としてさまざまな要職を歴任し、多くの子どもを残しました。

平貞盛の四男が平維衡(たいらのこれひら)で、伊勢を中心に地盤を固めていきます。伊勢平氏と呼ばれる一族は代を重ねていき、そこから平清盛が誕生します。

父を殺した平将門への復讐を果たし、自ら貴族となった平貞盛は武士が政治を担う世の中のきっかけを作ったと言えます。