年表|北条時宗に関わる出来事

西暦 年齢 内容
1251年 1歳 北条時宗が誕生
1257年 7歳 7歳の年に元服(成人の儀式)
1261年 11歳 「従五位下」の官位を授かり「左馬権頭」となる
1264年 14歳 執権の補佐役となる連署に就任
1268年 18歳 鎌倉幕府の執権に就任
1272年 22歳 幕府と京の内紛である二月騒動が起こる
1274年 24歳 1度目の元寇である文永の役が起こる
1281年 31歳 2度目の元寇である弘安の役が起こる
1284年 34歳 出家後に結核・心臓病にて亡くなる

歴史|北条時宗の生涯

北条時宗は、北条家の後継ぎとして生誕し、鎌倉幕府を運営する8代目の実験となった人物です。出世も早く、実権を握ったものの2度にわたる元寇(モンゴルの来襲)に対応した人物として認識している人が多いのではないでしょうか。

では、日本のために元寇に対応した「北条時宗」がどんな人生を歩んできたのか、時系列順にご紹介します。

北条時頼の子として生まれ7歳で元服

1251年に相模国にあった足立市の甘縄邸で北条時頼の子として北条時宗が生誕します。その数年もしないうちに、父である時頼は病にかかったのを機に、時宗の義理の兄である北条長時に執権を託し、時頼は出家。

1257年に時宗が7歳になったことで、成人として認められる「元服」をし、名前が正寿(しょうじゅ)から相模太郎時宗(さがみたろう・ときむね)と名前が変わりました。

 18歳で北条家8代目執権となる

父である時頼が亡くなり、7代目の執権は北条政村(ほうじょう・まさむら)が担うことになるのですが、鎌倉時代には高齢の68歳ということもあり、わずか数ヶ月で亡くなってしまいます。

そのタイミングで14歳の若さでありながら執権の補朝となる連署に就任。6代将軍である「宗尊親王」を更迭し、自ら執権を握るための準備を始めます。

その後、18歳には北条家の8代目の執権を得ることになるのです。

1度目の元寇襲来

その当時大帝国を築き上げていた元(現在のモンゴル)は日本と有効館関係を結びたいと考えていました。しかし、中国の南部にあった「南宋」と友好関係があり、モンゴルとの貿易はする必要がないと考え、この友好関係を結びたいという手紙を何度も無視したのです。

結局当時の元の王であるフビライ・ハン(クビライ・ハン)はしびれを切らし、日本への出兵の命令を出し、日本へと進軍します。

1度目の進軍は博多で日本軍を制圧しますが、すぐに帰ってしまい「文永の役」はあっさりと幕を閉じます。これは、元は武力制圧をしたいのではなく、元の武力を見せるために行う作戦だったのです。

2度目の元寇襲来

2度目の元寇襲来は「弘安の役」といい、今回は日本の有効的な貿易関係を結びたいという考えから一転し、軍事制圧を決行したのです。その理由は元(現在のモンゴル)からの使者が5人処刑され、それを聞いた元側が激怒し、日本へと襲来したからです。

襲来したときには日本で仲の良い貿易相手だった「南宋」は手中となっており、さらに勢力の増しているものとなっていたのです。しかし、時宗は焦らず情報を得ることにし、相手の動向を探っていました。

その上で博多での大敗から学び、戦法を相手の船に乗り込んで戦う。という作戦に変更し、元との戦いに勝利しました。

当時、台風が接近しており、天候のおかげで勝てたのではないか?という説もありますが、出どころがはっきりしない点もあるため、現在はこの天候勝利説は薄れてきています。

元寇に備えるも32歳の若さで亡くなる

2度目の元寇襲来後には、一緒に戦に挑んだ「御家人」に対しての報奨の問題が発生するなど、鎌倉幕府は財政難に悩まされることとなりました。

また、元がいつ来襲するか分からないということもあり、国防の強化にも頭を悩ませることになった時宗には、着々と病魔が迫ってきていたのです。

1284年には病床についており、同年の4月に出家しその日に病気(結核・心臓病と2説あり)で亡くなり、若くして執権を握った北条時宗の32年にわたる人生に幕を閉じたのでした。

家系図|北条時宗の一族

名言|後世に残る北条時宗の言葉

北条時宗は、7歳から鎌倉幕府の中心人物となり、20年以上にわたり鎌倉幕府の運営に携わり、18歳から十数年という間「鎌倉幕府」のリーダーとして活躍しました。

そんな時宗はじっくり相手の動向を見ながら、作戦をしっかりたてて行動するタイプであったと考えられています。そこで、リーダーとして活躍した時宗の残した名言を解説を含めて、ご紹介します。

忍耐は苦しい。けれどもその実は甘い。

この名言は北条時宗の名言でありながら、同じ言葉を野口英世も残しています。北条時宗は2度目の元寇のときには、相手が攻めてきても良いように、入念に対策や作戦を練っていました。

そのため、すぐに行動するのではなく、勝てると思ったタイミングで出れるように、耐えて準備を重ねてきていたのです。

結果的には元の戦いに勝つことができるのですが、勝機があるまで待ち、準備を重ねておく人柄がよく出ている名言となっています。

主君が未熟なれば、家臣もまた、か…。

戦国武将の本多忠勝も同じ名言を残していますが、こちらは北条時宗の名言でもあります。

部下が失態をしてしまったとき、その部下の責任にするのか、それとも指示をした自分が悪いのか。そう考えたことはあるのではないでしょうか。

それが部下である個人のミスであったとしても、そのミスを引き起こさないようにすることが、上司でありリーダーの役目と考えての発言となっています。自分の指示であれば、自分で責任を持つ人間性が分かる名言です。

自分の感受性くらい自分で守ればかものよ。

感受性が豊かというと、いろいろな意見や情報を聞くことで影響をうけやすいことをいいます。しかし、戦いをするうえでトップがいろいろな意見を聞いたことで、指示が変わってしまえば、統率ができるわけがありません

自分の感受性を守るというのは、自分の意見に責任を持つといった意味にも捉えられます。自分で思ったことを、すぐに変えない。

良い意見であれば受け入れて活かす、といったトップであれば堂々としている必要があることを感じられる名言となっています。

性格|北条時宗の人物像が見えるエピソード

北条時宗の生涯に迫ってきたのですが、教科書などで見るような内容でも、詳しく知ると面白いのが歴史です。

しかし、今まで授業などで知る北条時宗はまだ、ほんの一部で実際どんな人物だったのか、気になる方もいるのではないでしょうか。

そこで、ここからは北条時宗の人柄が分かるエピソードをご紹介します。

とても信心深い人物だった

北条時宗は禅僧の教えを信じ、すべてを捧げるとても信心深い人物でした。

南宋の大休正念(だいきゅう ・しょうねん)というお坊さんから、禅宗の教えを学び、中国の禅宗五家である臨済宗のお坊さんのサポートもしています。臨済宗の無学祖元(むがく・そげん)が鎌倉に円覚寺を建設する際には、時宗は開基となるほど、仏教については熱心に力をいれていました。

また、真言律宗のお坊さんであった忍性(にんしょう)の慈善活動もサポートし、土佐国大忍荘を寄進し、仏教に携わることが多い人物だったとされています。

政治統制力が高い人物

時宗は自らの地位を守りながら、政治をおこなっており、政治統制力の高い人物だったとされています。

文永の役のあと、元の襲撃にあった九州・中国地方の守護を、有力な守護と入れ替える指示をしました。また、時宗の弟である北条政宗(ほうじょう・まさむね)、自信の妻の父である安達泰盛(あだち・やすもり)を新守護として西国に進出させ、鎌倉から離れた場所への元国襲撃の対策をします。

また自信の家来の会議である「寄合」を政治の中心におき、御家人の話し合いで決めていた合議政治から、北条氏嫡流の当主たちの集まる得宗による独裁色の強い専制政治に変えたのです。

時宗の地位を守りながら、政治対策をすることで、勢力をその手にした北条時宗の統制力が理解いただけるのではないでしょうか。