年表|石田三成に関わる出来事

石田三成に関わる出来事

石田三成は、豊臣秀吉の天下統一を支え、その死後は徳川家康と対立し、関ヶ原の戦いで敗れました。彼の生涯は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての激動の時代を物語っています。

この年表では、一次史料や信頼性の高い二次史料に基づき、石田三成の生涯における主要な出来事をまとめました。

1560年(永禄3年) 近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)にて石田正継の次男(幼名は佐吉)として生まれる
1574年(天正2年) 織田信長の家臣、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えるようになる
1577年(天正5年) 豊臣秀吉の中国攻めに従軍し、三木城攻めで活躍
1582年(天正10年) 本能寺の変後、豊臣秀吉が中国大返しを行い、山崎の戦いで明智光秀を討つ際に、石田三成も従軍
1583年(天正11年) 賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉が柴田勝家を破り、天下統一への道を進める中、石田三成は軍功を挙げ、近江国内に所領を与えられる
1585年(天正13年) 豊臣秀吉が関白に就任したことに伴い、石田三成は従五位下治部少輔に叙任
1587年(天正15年) 九州平定に従軍
1589年(天正17年) 美濃国検地で手腕を発揮
1590年(天正18年) 小田原征伐に従軍
1591年(天正19年) 豊臣秀吉から近江佐和山19万4千石を与えられ、佐和山城主となる
1592年(文禄元年) 朝鮮に渡海し、兵站業務にあたる
1593年(文禄2年) 明との和平交渉を開始し、豊臣秀吉に戦況報告を行う
1595年(文禄4年) 豊臣政権の五奉行の一人に任命
1598年(慶長3年) 豊臣秀吉が亡くなる
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで西軍を率いるが敗北し、近江国古橋村で捕らえられる
1600年(慶長5年) 京都六条河原で斬首される(享年41歳)

歴史|石田三成の生涯

石田三成の生涯

石田三成の、類まれなる知略と忠誠心は、豊臣秀吉政権下で高く評価されました。しかし、豊臣秀吉の死後、徳川家康との対立は避けられず、関ヶ原の戦いで敗北し悲劇の武将としてその名を歴史に刻んでいます。

ここでは、石田三成の生涯を主要な出来事とともに振り返り、その知られざる人物像に迫ります。

石田三成の誕生と幼少期

石田三成は、永禄3年(1560年)、近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)にて、石田正継の三男として生まれました。幼名は佐吉で、長男が早世したため、事実上の次男として育てられています。

石田家は、藤原氏北家利仁流を称する土豪の家柄であり、近江国守護・佐々木氏の被官として、代々石田村を治めてきました。石田三成の少年時代については、確かな記録は多く残されていません。

しかし、幼少期から聡明で学問好きであり、将来を嘱望されていたことがいくつかの逸話から伺えるのではないでしょうか。例えば、石田三成がまだ幼い頃、父・正継が領内の寺に立ち寄った際、住職が佐吉に禅問答を仕掛けたという話が残っています。

このとき、石田三成は幼いながらも機転を利かせた受け答えをし、住職を感心させたといわれています。また、石田三成は15歳頃になると、当時長浜城主であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えるようになります。豊臣秀吉は、石田三成の聡明さと才覚を見抜き、彼を小姓として召し抱えました。

豊臣秀吉の下で、石田三成は持ち前の才能を発揮し、めきめきと頭角を現していきます。やがて、豊臣秀吉の天下統一事業に大きく貢献し、豊臣政権下で重要な地位を占めることになります。

豊臣秀吉政権下での台頭

15歳で豊臣秀吉に仕え始めた石田三成は、持ち前の聡明さと才覚で頭角を現し、秀吉の天下統一に大きく貢献しました。特に、美濃国検地での手腕は豊臣秀吉の信頼を勝ち取り、全国規模の太閤検地でも中心的な役割を担うことになります。

この検地は、豊臣政権の財政基盤を強化し、天下統一を後押しする重要な事業です。また、文禄の役(朝鮮出兵)では、兵站奉行として兵糧や武器の調達・輸送を担い、困難な状況下で軍の維持に尽力しました。

これらの功績により、石田三成は文禄4年(1595年)に五奉行の一人に任命され、豊臣政権の中枢へと昇り詰めます。さらに、近江佐和山19万4千石を与えられ、佐和山城主として政治的・軍事的にも重要な地位を確立しました。

豊臣秀吉死後の権力闘争

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去すると、豊臣政権内部では跡目争いと権力闘争が激化しました。石田三成は、豊臣秀吉の遺言に従い幼い豊臣秀頼を補佐する立場として、豊臣家の安泰を第一に考え行動しましたが、五大老筆頭の徳川家康は着実に勢力を拡大していきます。

石田三成は豊臣秀吉への忠誠心と豊臣家への強い責任感から徳川家康の台頭を警戒し、対立姿勢を強めていきます。両者の対立は慶長4年(1599年)の石田三成襲撃事件で決定的となり、三成は佐和山城に身を隠すことを余儀なくされました。

この事件は豊臣政権内の分裂を決定づけるもので、石田三成は内政や外交を重視する「文治派」の中心人物であり、武力行使には慎重な姿勢をとっていました。一方、徳川家康を筆頭とする「武断派」は、武力による領土拡大を主張していきます。

豊臣秀吉存命中は両派のバランスが保たれていましたが、秀吉の死後、武断派が台頭し、文治派は次第に追い詰められていきます。

徳川家康の会津征伐を機に、石田三成は挙兵を決意し、毛利輝元を盟主として西軍を結成し、家康率いる東軍との対決、すなわち関ヶ原の戦いに発展しました。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成の対立は関ヶ原の戦いで決着をつけることとなりました。徳川家康が会津の上杉景勝討伐のため大坂城を離れた隙を突き、石田三成は毛利輝元を盟主とする西軍を結成し挙兵、自らは事実上の総大将として戦略立案や各大名との連携に奔走します。

彼の戦略は、東軍の背後を突くことで徳川家康を孤立させ、一気に決着をつけるというものでした。しかし、西軍は内部の足並みが揃わず、兵力では優勢ながらも小早川秀秋や吉川広家などの裏切りや寝返りにより、劣勢に立たされます。

関ヶ原の戦いは濃霧の中で始まり、両軍入り乱れての激戦となりました。当初は西軍が優勢でしたが、小早川秀秋の寝返りが決定打となり形勢は逆転し、石田三成は敗走します。

その後、近江国古橋村で捕らえられ、京都六条河原で斬首されました。

家系図|石田三成の一族

石田三成家系図

相関図|石田三成の一族と関わりが深い人物

石田三成の一族と関わりが深い人物

石田三成は、豊臣政権下で数多くの人物と関わりを持ちました。親族や親友、そして共に戦った盟友もいれば、天下分け目の関ヶ原の戦いで敵対した武将たちもいます。

それぞれの関係性をみていきましょう。

■親族(父母兄妹)

  • 父・石田正継:近江国の土豪で、石田家の家督を継ぐ
  • 母・瑞岳院:石田正継の正室
  • 長兄・石田弥治郎:早世したため、石田三成が事実上の次男となる
  • 次兄・石田正澄

親族(妻子供)

  • 正室・皎月院:宇多頼忠娘
  • 長男:石田重家:関ヶ原の戦いの後、助命される
  • 次男・石田重成:関ヶ原の戦いの後、助命される。
  • 長女・吹殿:記録がない
  • 次女・小石殿:江戸に呼び出されて切腹処分になると会津を離れる
  • 三女辰姫:弘前藩主の津軽信枚の正室

親交の深かった人物

  • 大谷吉継:親友であり盟友で、関ヶ原の戦いでは共に西軍を率いる
  • 直江兼続:上杉家の家老で、石田三成と親交があり、書状のやり取りもしていた
  • 宇喜多秀家:豊臣五大老の一人で、関ヶ原の戦いでは西軍の主力として参戦
  • 小西行長:豊臣家の外交僧で、石田三成と協力して明との和平交渉に尽力

敵対勢力

  • 徳川家康:豊臣家の五大老筆頭で、豊臣秀吉死後に石田三成と対立し、関ヶ原の戦いを引き起こす
  • 福島正則:豊臣家の武将で、武断派の筆頭格で、石田三成とは犬猿の仲
  • 加藤清正:豊臣家の武将ですが、武断派の一人で石田三成とは対立関係にあった
  • 黒田長政:豊臣家の武将で、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、石田三成と対峙

合戦|石田三成にまつわる戦い

石田三成にまつわる戦い

石田三成は、豊臣秀吉の側近として活躍し、関ヶ原の戦いでは西軍を率いた武将です。彼の生涯は、豊臣秀吉への忠誠と徳川家康との対立に彩られ、数々の戦いに身を投じました。以下の表に、石田三成が関わった主な戦いをまとめました。

中国攻め 1582年(天正10年) 初陣として、羽柴秀吉に従い毛利氏との戦いに参加
賤ヶ岳の戦い 1583年(天正11年) 豊臣秀吉と柴田勝家の戦いで、情報収集と偵察任務で功名を挙げた
小牧・長久手の戦い 1584年(天正12年) 豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄の連合軍との戦いに従軍して重要な役割を果たした
忍城の戦い 1590年(天正18年) 初めて大将として指揮を執るも、水攻めが失敗​
文禄・慶長の役 1592年-1598年(文禄元年-慶長3年) 日本による朝鮮出兵で、石田三成は豊臣政権の奉行として後方支援を担当​
関ヶ原の戦い 1600年(慶長5年) 石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍の決戦で、西軍は内部の不協和音や裏切りにより敗北し、三成は処刑された

家紋|石田三成の家紋

石田三成家紋

石田三成の家紋は主に「九曜紋」と「下り藤」が知られており、彼の旗印として有名なのが「大一大万大吉」です。

■九曜紋

石田三成が使用していた家紋のひとつに「九曜紋」があります。九曜紋は9つの星が配置されたデザインで、星や天体を象徴しています。

この家紋は、占星術で用いられる9つの星を表しており、運命や季節の変化を司るものとして信仰されてきました​。

丸に三つ星

「丸に三つ星」も石田三成が使用した家紋のひとつです。このデザインは丸の中に三つの星が配置されており、天体や星への信仰を表しています。

石田家の家紋として広く使用されていました​。

■下り藤

「下り藤」は、石田三成が関ヶ原の戦いで使用したとされる家紋です。藤の花をデザインしており、戦場での旗紋として使用されました。

しかし、一次資料が少なく、後世の創作という可能性も指摘されています​。

大一大万大吉

「大一大万大吉」は石田三成の旗印であり、「一人が万人のために尽くし、万人が一人のために尽くせば、天下が平和で幸せになる」という意味が込められています。この旗印は戦場で使用され、石田三成の理想と信念を象徴するものでした​。

性格|石田三成の人物像が見えるエピソード

石田三成の人物像が見えるエピソード

石田三成は、豊臣秀吉の忠実な家臣として知られ、その人生には数々のエピソードが語られています。彼の忠誠心、機転、公正さ、そして友情は、多くの逸話を通じて明らかにされています。

ここで紹介するエピソードは、石田三成の人物像を深く理解するためのものであり、彼の生き様や信念を垣間見ることが可能です。

茶の接待

石田三成は、豊臣秀吉の忠実な家臣として知られ、その性格を示すエピソードとして「茶の接待」がよく取り上げられます。このエピソードは、石田三成が若かりし頃に、豊臣秀吉が休息している際に茶を出した際の話です。

豊臣秀吉が喉の渇きを訴えたとき、石田三成は最初にぬるい茶を出し、その後、少し熱い茶、最後に熱い茶を出しました。豊臣秀吉はこの順序立てた茶の出し方に感心し、石田三成の機転と配慮に深く感銘を受けます。

これがきっかけとなり、石田三成は豊臣秀吉の側近として取り立てられることとなりました​。

大谷吉継との友情

石田三成と大谷吉継の友情は、戦国時代の武将たちの中でも特に有名で、その絆は戦場を超えたものです。大谷吉継は、重度の病で顔に癩瘡(らいそう)を患っていましたが、石田三成はそのことを全く気にせず、吉継と親しく接していました。

関ヶ原の戦いの前夜、大谷吉継は自らの病状を理由に戦いへの参加を控えるようすすめられましたが、彼は「三成のために戦う」と答え、戦場に赴きます。大谷吉継のこの行動は、石田三成への深い友情と忠誠心を示しています。

さらに、関ヶ原の戦いでは、大谷吉継は石田三成のために命を懸けて戦い、最期を迎えました。大谷吉継の忠誠心と友情は、石田三成にとって大きな支えとなり、彼の戦国武将としての人格を形成する重要な要素です。

石田三成もまた、大谷吉継の死後、その忠誠心と友情に深く感謝し、彼の名誉を守るために尽力したといいます。

関ヶ原の戦いでの行動

関ヶ原の戦いは1600年に行われ、石田三成が西軍の指揮を執り、徳川家康率いる東軍と戦った決戦です。この戦いにおいて、石田三成は軍略の才を発揮し、戦局を有利に進めようとしましたが、西軍内の不協和音や裏切りにより、戦況は不利に転じました​。

関ヶ原の戦いの敗北後、石田三成は一度退却し隠れることになりましたが、彼は地元の農民によって匿われましたが最終的には捕らえられます。居場所がバレて彼を匿っていた人物に迷惑がかからないように自ら出頭し、捕縛されています。

彼は自らの信念を貫き、豊臣家のために命を賭して戦い続け、捕らえられた後も冷静な態度を崩さず、最後まで豊臣家への忠誠心を示しました。

拠点|石田三成ゆかりの城

石田三成 城

佐和山城 滋賀県彦根市 石田三成の居城として知られ、関ヶ原の戦い後に東軍により落城しました。三成が多くの時間を過ごした城です​。
水口城 滋賀県甲賀市 石田三成が初めて築いたとされる城で、東海道の要所に位置し、島左近を召し抱えたエピソードが有名です​。
伏見城 京都府京都市 豊臣秀吉の隠居所として築かれ、石田三成が一時的に避難した「治部少丸」がある城です​。
大垣城 岐阜県大垣市 関ヶ原の戦いで西軍の重要拠点となり、戦後に東軍により落城しました​。
長浜城 滋賀県長浜市 豊臣秀吉の時代に石田三成が長浜城主として活動し、三成の生涯を学ぶための歴史博物館もあります​。
大津城 滋賀県大津市 関ヶ原の戦いの前哨戦で石田三成が一時的に拠点とした城で、東軍と激戦を繰り広げました​。
宇治山田城 三重県伊勢市 石田三成の指揮の下、関ヶ原の戦いで西軍の拠点として使用されました​。
津城 三重県津市 石田三成が領地を管理し、関ヶ原の戦いの前線基地となりました。
伊賀上野城 三重県伊賀市 関ヶ原の戦いでの西軍の重要な拠点となった城です​。
田辺城 京都府舞鶴市 石田三成が関ヶ原の戦いの準備として一時的に拠点とした城です​。