源頼家の生涯

母・北条政子に嫌われていた?寂しい幼少期

源頼家は1182年、源頼朝と北条政子の嫡男として誕生しました。源頼朝から非常に大事にされていた頼家は、5歳頃から父・頼朝が行う年始行事や仏神事など、公的な場に連れ立って参加しています。幼い段階から後継者として教育しようとしていたことがうかがえます。

1193年、12歳になった頼家は富士の巻狩に初めて参加し、牡鹿2頭、雌鹿1頭を仕留めました。狩猟に参加することは武家社会では事実上の成人式を意味しています。その狩猟で獲物を仕留めることは、山の神様が祝福していることを示しているとされていました。

頼朝はこの狩猟の成果を非常に喜び祝いの席を設けています。北条政子にもその旨を手紙で送りましたが、北条政子は「将軍の子なら当然のことである」と苦言を呈したそうです。

頼朝の死後、自分勝手な振る舞いが目立つようになる

1999年、源頼朝が死去すると、当時18歳だった源頼家が頼朝の跡を継ぎました。しかし頼家中心の政権はほとんど行われていません。その理由として、頼家の素行不良があったと『吾妻鏡』に描かれています。

頼家の「暗君」としての有名なエピソードに、陸奥国新熊野社の所領の境界をめぐる訴訟があります。
頼家は提出された所領の図を見ると、自分で筆をとりその図の中央に線を引き、「土地の広さは運に任せよ。検地する人を派遣する手間をかけるまでもない。今後所領の境界をめぐる訴訟はすべてこのように判断する」と言いました。従来の慣習などを無視するやり方に、御家人は不安を覚えたようです。

「十三人の合議制」結成

源頼家の政権が立ち上がり約2か月ほどで「十三人の合議制」が結成されました。
十三人の合議制とは、訴訟問題について従来のように将軍一人で判決を出すのではなく、有力御家人13人の合議によって判断をすることを定めた制度を指します。北条時政義時を中心に、頼家が幼い頃から世話をしていた梶原景時和田義盛八田知家といった御家人たちが選出されました。

従来十三人の合議制は頼家の政権に反発した御家人によって結成されたと考えられていましたが、今はその見方を否定する意見もあります。頼家が幼い頃から面倒を見ていた御家人がメンバーにいることから、純粋に頼家をサポートするために発足されたと考えられています。

重病にかかっている間に将軍職を奪われる

1203年の3月頃から源頼家は体調不良を起こすようになりました。7月には病に倒れ、8月末には危篤状態に陥ります

この時、鎌倉幕府から「9月1日に頼家が亡くなったため弟の実朝が征夷大将軍を継ぐ」という知らせが朝廷に送られてきたという記録が残されています。頼家は存命だったにも関わらず、わざとこのような報告をしたのです。このような報告をしたのは、以前から実朝を将軍に立てようとしていた北条氏の思惑がありました。

頼家は危篤状態から回復し、自分が亡くなったという誤報を流したことに激怒。北条時政の追討を命じますが頼家に従う御家人はいませんでした。その結果頼家は将軍職を追われ、3代将軍・実朝が跡を継いでいます

源頼家の最期は伊豆修禅寺に幽閉

源頼家は将軍職を追われた後、北条政子の「取り計らい」により出家をしています。鎌倉を去り、伊豆の修禅寺に移ることになりました。北条政子がそのような判断をしたのは、重い病に苦しむ中で政務を行うのは危険であると考えたためだとされています。

しかし、修禅寺での生活は隠居とは程遠い「幽閉」生活でした。頼家は鎌倉にいる人々との連絡を禁止されただけでなく、自分の家臣を呼び寄せることもできない孤独な生活を強いられていたとされています。

修禅寺に移った翌年、源頼家はわずか23歳でこの世を去りました。『吾妻鏡』には源頼家の死に関して詳細は残されていませんが、その後の史料によれば浴室で襲撃を受け刺殺されたと残っています。

源頼家の家系図


源頼家を中心とした家系図は下記の通りです。

源頼家は父・頼朝と違い、複数の側室を迎え入れ子を成しています。しかしほとんどの子が幼い時期に非業の死を遂げており、世継ぎとして残った人はいません。

唯一頼家の死後も生き延びたのは娘の「竹御所」(たけのごしょ)です。竹御所は女子だったため幕府の政権争いに巻き込まれることなく、北条政子に唯一の血縁者として寵愛されました。4代将軍・藤原頼経の正室として幕府に迎え入れられています。

源頼家の妻と子供

若狭局(わかさのつぼね)

若狭局は源頼家の乳母夫である比企能員の娘です。頼家に嫁ぐと長男・一幡を授かり、比企家の外戚としての地位確立に貢献しました。
比企能員の変の際に息子・一幡とともに討たれ亡くなりました。火を放って自害したとする説と、北条義時の臣下によって刺殺されたとする説があります。

一幡(いちまん)

一幡は源頼家と若狭局の間に生まれた第一子です。
後継者として見込まれていましたが、北条氏と比企氏(一幡の母方の家系)の対立が深まり、「比企能員の変」が起こると、比企能員、若狭局とともに討たれました。

公暁(くぎょう)

公暁は源頼家の次男です。4歳の頃父・源頼家を亡くし、7歳の頃北条政子の取り計らいにより源実朝の養子となりました。
公暁は源実朝を鶴岡八幡宮で暗殺しますが、その後すぐ北条義時の家臣によって討たれてしまいます。

竹御所(たけのごしょ)

竹御所は源頼家の娘です。誕生の翌年には比企能員の変が起こり頼家の元を離れますが、竹御所は北条政子の庇護の元鎌倉で育ちました。

29歳の時、当時13歳だった第4代将軍藤原頼経に嫁ぎました。4年後には懐妊しますが、難産の末男児を死産し自身も亡くなりました。

源頼家を支えた御家人を紹介


源頼家に仕えた御家人の多くは、源頼朝時代から源氏に仕えていました。頼朝の死後も遺志を継ぎ、頼家のサポートをしています。しかし一部の御家人は、北条氏との権力争いに敗れ滅亡してしまいました。
この項目では頼家に信頼されていた御家人を中心に紹介します。

梶原景時(かじわら かげとき)

梶原景時は源頼朝の時代から源氏に仕える有力御家人です。頼朝の死後も頼家に仕え、頼家のサポートを行いました。侍所別当として力を持っていた一方、他の御家人から恨まれることも多い人物でした。

梶原景時は反発していた御家人数十名の訴えにより鎌倉幕府を追われます。頼家は景時に弁明を求めますが景時は何も言わず幕府を去りました。その後一族で上洛する道中で交戦となり、討ち死しています。

比企能員(ひき よしかず)

比企能員は源頼家の妻・若狭局の父です。若狭局と頼家の間で長男・一幡が生まれたことをきっかけに外戚として大きな発言力を持っていました。十三人の合議制のメンバーとしても頼家政権を支えています。

比企氏の権力が強くなっていくことを北条氏は危険視し、対立関係が深まっていきます。頼家が危篤状態に陥った際に北条時政は3代将軍として頼家の弟・実朝を擁立しました。これに反発した比企能員は北条時政を討とうと企てますが、時政に企てが発覚してしまい返り討ちに遭ってしまいました。

中野能成(なかの よしなり)

中野能成は源頼家の側近として、頼家の飼う猟犬の飼育係や、狩猟の際の随伴を務めました
源頼家が十三人の合議制に反発した際に、頼家に御目通りできる5人の側近のひとりに選ばれています。
4代将軍・藤原頼経の代でも将軍に仕えました。

小笠原 長経(おがさわら ながつね)

小笠原長経は源頼家の側近として仕え、流鏑馬の射手を行いました。源頼家が十三人の合議制に反発した際は、中野能成と同様に頼家に御目通りできる5人の側近に選ばれています。
比企能員の変では比企氏側の人物として拘留され、事件後鎌倉を引き払ったとされています。

源頼家の年表

出来事
1182年 源頼家誕生。
1186年 頼朝と共に公的な行事に参加するようになる。
1188年 初めて鎧を纏う「鎧着初」に臨む。
1189年 「弓始」(ゆみはじめ)が行われる。
1193年 富士の巻狩に参加。頼家の成果に感動した頼朝は山上矢口祭りを行った。
1197年 従五位上・右近衛権少将に任命。
1198年 頼朝と共に公的な行事に参加するようになる。
1199年 源頼朝死去。左近衛中将に任命され、二代目鎌倉殿を継承する。
「十三人の合議制」発足。
1200年 梶原景時の変により、梶原氏滅亡。
1202年 征夷大将軍に就く。
1203年 頼家が病により危篤状態になる。その間比企能員の変が起こる。
将軍職を追われた頼家は出家し、鎌倉を出て伊豆の修禅寺に移る。
1204年 伊豆・修禅寺にて死去する。