2023年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、主役の小栗旬に匹敵するほどの存在感を示したのが北条時政演じる坂東彌十郎さんでした。
学校の歴史の授業では、鎌倉幕府の誕生時は源頼朝が主役であり、北条時政は初代執権程度にしか教えられていませんでした。
多くの方は名前すら知らなかったのでは無いかと思います。しかし、吾妻鏡をベースとした「鎌倉殿の13人」では、北条時政が大活躍し、鎌倉幕府を牛耳るまでになりました。
この記事では、北条時政の人物像、功績、陰謀の数々、そして失脚の経緯について解説します。
生き方がヒールで人間くさい北条時政について、見ていきましょう。
北条時政とはどんな人物?
北条時政は、元々は伊豆の豪族でした。
家系をたどると、桓武天皇平氏の子孫とされています。ただし、この説には疑問視されています。
北条時政の娘は北条政子です。頼朝が伊豆に流された時に頼朝と政子は恋仲になり、最初は結婚に反対していましたが、考えなおして頼朝に協力します。
頼朝が源平合戦を制し、時政は京都守護など重役を任されます。
頼朝死去後、時政は陰謀によりライバルを次々葬っていき、遂には鎌倉幕府の主導権を握りました。しかし、息子の義時によって、失脚し追放されました。
北条時政の功績
源頼朝と娘政子の結婚を認めた
時政の最大の功績は、頼朝と政子の結婚を認めた事でしょう。
当時の頼朝は血筋は良いのですが罪人で、平家に危険人物認定をされていました。
時政が仕事で京に行っている間、頼朝と政子が出来てしまい、慌てた時政は別れさせようとしました。
しかし頼朝は政子と駆け落ちまでして、結婚の意思が固いことから、それを許しています。
時政には先見の明があったのか、打算的な考えがあったかは定かではありません。
頼朝の挙兵を手助け
挙兵した頼朝に、一番初めに味方し兵を出したのが時政でした。
当時権力を誇っていた平家に対し、源氏の棟梁に味方するという事は、平家に盾突くことでしたので、時政にとっては仁政最大の賭けだったかもしれません。
手始めに伊豆目代の山木兼隆を討ちます。石橋山合戦では平家に負けましたが、安房国に渡り、すぐに関東の源氏勢力を集めます。
時政は甲斐や駿河の源氏と交渉し味方に付けました。
このように、頼朝の後ろ盾になり、関東の武士との交渉役として手助けしました。
後白河法皇に、守護・地頭の設置を認めさせた
時政の交渉上手が見て取れる出来事で、後白河法皇に守護・地頭の設置を認めさせたことが挙げられます。
源平合戦後に、後白河法皇が源義経に官位を与えたのがきっかけで、頼朝は時政に千名の軍勢を与えて義経を追討しました。
京に入った時政は、後白河法皇と面会し、義経に味方した皇族の処罰と義経を捕まえるための守護・地頭の設置を認めさせました。
守護・地頭は今でいう警察と税務署を合わせたような役割であり、朝廷から警察権を奪った形になりました。
兵を連れていたとはいえ、海千山千の後白河法皇に対して、要求を認めさせる交渉力は評価に値します。
13人の合議制を主導
頼朝亡き後、2代目将軍として、頼朝の子の頼家が立ちました。
この時、将軍の権限を限定し独断をさせないように、宿老13名による合議制を行うように主導しました。
これは、頼朝が行ってきた政治を覆すような事を繰り返す頼家に対し、御家人たちは頼家の独裁権を奪うものでした。
宿老13人のメンバーは、北条時政、北条義時、比企能員、和田義盛、梶原景時、足立遠元、三浦義澄、八田知家、安達盛長、大江広元、中原親能、二階堂行政、
三善康信です。
この合議制は権力闘争ですぐに崩壊してしまいます。
しかし、この経験が北条泰時の頃の「評定衆」に生かされました。
北条時政の陰謀の数々
事件名 | 説明 |
---|---|
富士の巻狩り | 源頼朝が大規模な狩猟を催した際に、曾我祐成と曾我時致の曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を襲撃して討ち取る事件が発生するが、弟の時致は頼朝の宿所に入り込もうと捕らえられる。時政が黒幕で頼朝をどさくさにまぎれて殺害しようとしたのではという説がある。 |
梶原景時の変 | 多くの御家人から憎まれていた梶原景時が結城朝光が謀反を企てているという讒言を頼家に讒言した事が切っ掛けで、鎌倉追放となった。時政は糾弾の連判状に署名をしていないが、結果として上位のライバルが消えたことになる。 |
比企能員の変 | 景時がいなくなった後、比企能員と時政が対立する。頼家と比企の時政討伐の密談を聞いたことで、時政が先手を打って比企能員を討った。一説には、頼家の後見人からはずされた時政が密談をでっち上げて謀殺したと言われている。 |
頼家追放と実朝擁立 | 頼家が危篤となり、次の将軍として実朝を擁立したところ、頼家が意識を取り戻してしまった。朝廷に頼家死去と届けられてしまったため、無理やり出家させ修善寺に幽閉された。その後北条の手勢に殺害される。また息子の一幡も殺された。 |
畠山重忠の乱 | 時政の娘婿の平賀朝雅と畠山重保の言い争いがきっかけとなり、牧の方が時政に重忠謀反の讒言を吹き込む。時政が忠重討伐の命令を出し討伐されたが、後に無実と分かった。一説では重忠が持つ武蔵国の行政権を奪うのが目的と言われている。 |
牧氏事件 | 時政が将軍実朝を殺害して、次の将軍に娘婿の平賀朝雅を擁立しようとした事件。結果として義時によって実朝は救い出され時政はその日の内に出家、伊豆へ追放された。 |
時政ななぜ失脚したか
切っ掛けは畠山重忠の乱
北条時政が失脚したきっかけは、「畠山重忠の乱」でした。
畠山重忠は「武士の鑑」と言われる程、武勇と人望に優れた人物でした。
ある日平賀朝雅と重忠が言い争いがきっかけとなり、牧の方の讒言(ざんげん)により時政は忠重を討つことを決意します。
息子の義時・時房を呼び、「重忠を討伐する」ことを相談しますが、普段から親交のある義時・時房は反対します。
牧の方の兄が「牧の方が継母だから仇をしようと思っているのだろう」と言われ、渋々ながら義時は討伐に同意しました。
重忠を討った後に、重忠の無実が発覚します。
これにより、時政は御家人たちの信頼を得る事が出来なくなり孤立することになりました。
時政は、息子義時に追放された?
畠山重忠の乱により、時政は御家人たちの人望が一気に失われました。
時政と牧の方は、この状況を挽回する為に、実朝を謀殺し娘婿の平賀朝雅を将軍にすることを計画します。
これを「牧氏事件」と言います。
この計画は義時に知られ、計画を阻止されます。
終結した御家人は義時に味方し、幕府内では時政は孤立無援となります。
その日の内に出家し、翌日伊豆に隠居させられることなりました。
このようにして、時政は義時に失脚させられ、鎌倉を追放されました。
そして、再び鎌倉に地を踏むことなく、78歳の生涯を終えました。
時政の妻|牧の方は悪妻だったのか?
吾妻鏡では、牧の方は度々悪妻として書かれています。
「亀の前事件」では、頼朝に愛人がいる事を牧の方が政子に教えます。
激怒した政子は牧の方の兄牧宗親に命じて、頼朝の愛人の家を破壊しました。激怒した頼朝は、牧宗親の髷を切りました。当時の人にとって髷を切られるのは相当な侮辱でした。
時政は、この事件に怒って一族共に伊豆に引き上げましたが、おそらく牧の方が激怒して時政をけしかけたのでしょう。
牧氏事件では、自分の娘婿である平賀朝雅を将軍にするように時政をそそのかしました。その結果、平賀朝雅は義時によって討たれ、牧の方は時政と共に伊豆に隠居させられました。
しかし、その数年後京に姿を現し贅沢な暮らしをしていると、藤原定家が「明月記」に書いています。
このように、時政をひっかきまわして人生を狂わしていますので、やはり牧の方は悪妻であると言えるでしょう。
北条時政|年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
1138年 | 北条時方の子として伊豆で生まれる |
1160年 | 源頼朝に監視役に就く |
1177年 | 頼朝と娘の政子が結婚 |
1180年 | 頼朝挙兵、その後ろ盾として助ける。石橋山の戦い、富士川の戦い |
1185年 | 京都守護に就任、朝廷との交渉役を務める。 |
1199年 | 13人の合議制が始まり、メンバーの一人となる |
1203年 | 比企能員を謀殺。実朝を将軍に擁立し、自身は初代執権となる。 |
1205年 | 畠山重忠の乱、牧氏事件で幕府内の影響力が無くなり失脚、伊豆に追放される。 |
1215年 | 隠遁先の伊豆で死去 |