鎌倉幕府の歴史は、大きく3つの時期に分けられます。

第1段階は将軍(鎌倉殿)独裁政治で、源頼朝が権力を握り、武家政権を確立しました。頼朝の強力なリーダーシップの下で、武士たちは団結し、新しい政治体制を築いています。

第2段階は執権政治の時期で、北条氏が実質的な権力を掌握し、執権を中心とした統治が行われました。初代執権の北条時政、5代目の北条時頼など、執権たちは幕府の運営と政策に大きな影響を与えます。

そして、第3段階が「得宗専制政治」の時期です。

得宗専制政治は、鎌倉幕府の権力構造の頂点に北条氏が君臨し、中央集権的な体制が確立された時代として特徴があります。

この時期の北条氏の専制政治は、幕府の安定と繁栄を与えたとともに、鎌倉時代の終焉を迎えるまでの重要な役割を果たしました。

今回は、得宗専制政治がどのようにして成立し、どのような特徴を持っていたのかについて詳しく解説していきます。

得宗専制政治について

得宗専制政治とは、鎌倉幕府の第3段階にあたる時期で、得宗(鎌倉幕府の北条の家系)が実権を握り、専制的な統治を行った体制を指します。

得宗とは、北条氏の家督を継ぐ者を指し、特に権力を集中させた当主の称号です。この時期には、特に8代目執権の北条時宗が代表的な人物として挙げられます。

得宗専制政治は、幕府の安定と繁栄を支えつつ、最終的には鎌倉幕府の滅亡とともに終焉を迎えました。

この政治体制は、鎌倉時代後期における重要な特徴の1つです。

得宗専制政治が始まったきっかけとは

得宗専制政治が始まったきっかけは、鎌倉幕府の権力構造の変化にあります。特に3代執権北条泰時の時代に、執権政治の基盤が確立され、北条氏の支配が強固となりました。

泰時の後、北条氏の本家筋である得宗が次第に他の北条氏一族や有力御家人からの独立性を強め、専制的な権力を握るようになったのです。

北条時宗が8代目執権となった際には、元寇という外敵の脅威に対して強力な指導力を発揮し、得宗の権威がさらに高まりました。

こうした一連の出来事が、得宗専制政治の始まりを促したといえるでしょう。

得宗が北条氏内の他の一族や幕府内の権力を統合し、実質的な独裁的支配を確立することにより、幕府の中央集権化が進んだのです。

鎌倉幕府の滅亡とともに得宗専制政治は終わりを迎える

鎌倉幕府の滅亡とともに得宗専制政治は終わりを迎えました。この政治体制の崩壊は、元寇後の経済的負担と幕府内の権力闘争が主な要因です。

14世紀初頭、北条高時が得宗の時代に至り、幕府の統治力は弱体化しました。内外の問題に対処しきれず、幕府内で御家人たちの不満が高まったのです。

その不満を背景に、1333年に後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を目指して挙兵し、足利尊氏や新田義貞などの武将がこれに呼応しました。

鎌倉幕府はこの反乱に対して有効な対応ができず、最終的には鎌倉が陥落し、幕府は滅亡してしまいます。この時、得宗専制政治も終わりを迎え、約150年間続いた鎌倉幕府の支配は終わりを迎えました。

得宗専制と執権政治の違いとは

得宗専制政治と執権政治の違いは、権力の集中度と統治体制にあります。

執権政治は、鎌倉幕府初期から中期にかけて行われ、初代執権北条時政や2代執権北条義時、5代執権北条時頼などが幕府の政治を主導しました。この時期には、北条氏が他の有力御家人と協力しながら政治を運営し、幕府内の合議制を重視していたのです。

一方、得宗専制政治は、北条氏の本家筋である得宗が権力を独占し、他の一族や御家人から独立した強力な支配体制を築きました。

特に、得宗北条時宗の時代には、元寇に対する対応を通じて得宗の権威が飛躍的に強化されたのです。得宗専制政治は、執権政治に比べて権力が中央集権化し、得宗が実質的に独裁的な統治を行う点で異なります。

この権力集中が、最終的には鎌倉幕府の弱体化と滅亡に繋がったといえるでしょう。

得宗専制政治に関する年表一覧

西暦 出来事
1221年 ・承久の乱で北条義時が後鳥羽上皇を破り、北条氏の権力を確立
・後鳥羽上皇は鎌倉幕府打倒を目指し挙兵するも、敗北して隠岐に流される
・北条氏の執権政治が始まる
1246年 ・北条時頼が5代執権となり、執権政治の基盤を強化
・時頼は幕府の権力を強化し、御成敗式目を制定して法治政治の基盤を築く
1264年 ・北条長時が6代執権となる
・長時は内政を安定させ、鎌倉幕府の統治機構を整備した
1268年 ・北条時宗が8代執権に就任し、得宗専制政治の基盤を固める
・時宗は元の侵攻に備え、防備を強化
1274年 ・文永の役(元寇第1次侵攻)で北条時宗が防衛を指揮
・元軍は対馬・壱岐・博多に上陸するが、暴風雨により撤退
1281年 ・弘安の役(元寇第2次侵攻)で再び北条時宗が防衛を指揮
・元軍は再度日本に侵攻するが、再び暴風雨(神風)により大敗
1293年 ・霜月騒動で北条貞時が内管領平頼綱を排除し、得宗専制政治を強化
・貞時は内紛を収束させ、北条氏の権力を一層強固にする
1333年 ・鎌倉幕府が滅亡し、得宗専制政治が終わりを迎える
・後醍醐天皇の討幕運動が成功し、新政権(建武の新政)が成立する

得宗専制政治に関する有名な出来事

鎌倉幕府後期における北条氏の得宗専制政治は、日本史において重要な時期であり、幕府内の権力闘争や経済政策が大きな影響を及ぼしました。

この時期には、政治的混乱や内紛が頻発し、それに対処するための様々な政策が実施されています。

その中でも特に重要な出来事として、霜月騒動、平禅門の乱、永仁の徳政令について紹介します。

霜月騒動

霜月騒動は、1285年11月に発生した鎌倉幕府内の内紛です。

得宗北条氏の専制政治の中で、得宗家当主である北条時宗の死後、その弟である北条貞時が新たな得宗家当主となり、内管領であった平頼綱が実権を握りました。

平頼綱は北条貞時の信任を得て強力な権力を持ちましたが、その権力集中に対し、北条氏一門や他の有力武士たちの反発を招いてしまいます。

対立の激化により、平頼綱とその対抗勢力である安達泰盛との間で武力衝突が発生しました。

1285年11月、鎌倉市内での戦いで安達泰盛は敗北し、自害に追い込まれてしまいます。平頼綱は一時的に勢力を拡大しましたが、翌年には得宗家内部での対立により失脚しました。

この事件は、鎌倉幕府内の権力構造の変動を象徴しており、得宗専制の進展を示す重要な出来事です。

平禅門の乱

平禅門の乱は、1293年に発生した鎌倉幕府内の大規模な反乱です。この乱は、霜月騒動で権力を握った内管領・平頼綱に対する反発から生じました。

平頼綱の専制的な政治運営に不満を持つ北条氏一門や他の有力武士たちが結集し、平頼綱の討伐を目指したのです。

反乱の中心人物は北条氏一門の北条時村で、彼は平頼綱の専制に対抗するために反乱を起こしました。

鎌倉市内での激しい戦闘の末、平頼綱は敗北し、一族もろとも滅ぼされます。この結果、北条貞時の統治はより安定し、得宗家の権力はさらに強化されました。

平禅門の乱は、鎌倉幕府内の権力争いと得宗専制の進展を象徴する出来事であり、幕府内部の対立がいかに激しかったかを示しています。

永仁の徳政令

永仁の徳政令は、1297年に鎌倉幕府が発布した法令で、得宗家当主である北条貞時が実施した経済政策の一環です。

この徳政令は、元寇後の経済混乱や社会不安を背景に、債務を帳消しにすることで困窮した御家人を救済し、幕府の支配体制を安定させることを目的としていました。

具体的には、御家人が借りた借金や質入れした土地の返済を免除し、土地を取り戻せるようにするものです。

この措置は一時的には御家人の負担を軽減し、社会の安定に寄与しましたが、同時に金融業者や商人に対する大きな打撃となり、経済活動全体に悪影響を及ぼしてしまいました。

永仁の徳政令は、得宗専制の下での経済政策の典型例であり、北条貞時が御家人の支持を得るために行った重要な施策です。

しかし、長期的には経済の混乱を招き、幕府の財政基盤を弱体化させる結果となりました。この法令は、鎌倉幕府の終わりに至るまでの過程において重要な位置を占めています。

得宗専制政治に関連する人物一覧

人物名 関連した出来事
北条時宗 ・得宗専制政治の初期段階を確立した鎌倉幕府第8代執権
・元寇(1274年の文永の役と1281年の弘安の役)時の幕府のリーダー
・元寇の防衛で日本を守り、鎌倉幕府の権威を高めた
北条貞時 ・北条時宗の弟で、得宗家当主として霜月騒動(1285年)や永仁の徳政令(1297年)を発布し、得宗専制政治を強化
・鎌倉幕府第9代執権であり、幕府内での得宗の権力を固めた
平頼綱 ・北条貞時の内管領(得宗家の家臣)として権力を握り、霜月騒動で有力御家人の安達泰盛を滅ぼした
・平禅門の乱(1293年)で北条貞時によって討たれた
安達泰盛 ・鎌倉幕府の有力御家人で、霜月騒動において平頼綱と対立し、敗北して自害
・泰盛は幕府内の反得宗勢力を代表していた
北条時村 北条氏一門で、平頼綱の専制に反発し、平禅門の乱を起こして平頼綱を滅ぼす
北条氏政 ・北条貞時の近臣で、永仁の徳政令の発布に関与し、得宗専制政治を支えた
・幕府の政策実行に重要な役割を果たした
北条高時 ・北条貞時の子で、鎌倉幕府第14代執権
・高時の治世は得宗専制政治の最終段階であり、内紛や外圧の中で鎌倉幕府が終わりに至るまでを見届けた
・高時の時代には、元弘の変(1331年)や建武の新政(1333年)があり、鎌倉幕府の滅亡を迎えた