全国初の武家政権を築いた源頼朝は、自身の勢力や政権内の行政を担う機関として公文所(後の政所)も設置しました。公文所は幕府の内政を司っていた上に、初代別当に大江広元が就任したことでも有名です。
同時に公文所や政所の仕組みは後の武家政権にも受け継がれたため、公文所の内容は武士の時代を知る上で役に立ちます。公文所についてわかりやすく解説しますので、ぜひ最後までご覧ください。
鎌倉幕府の主要機関・公文所をわかりやすく解説
源頼朝が12世紀末に開いた鎌倉幕府には、いくつかの機関が設けられていました。中でも公文所は頼朝の勢力が東国に限定されていた頃からの機関で、後に「政所(まんどころ)」となっています。
公文所が果たしていた役割や他の幕府内機関との違いを知ると、頼朝や鎌倉幕府の政治について理解する際に便利です。公文所についてわかりやすくご紹介します。
1184年に源頼朝が設置した財政・内政を担当する役所
公文所は1184年に源頼朝が、自勢力内の行政事務を行うために設けた専門機関です。公文所自体は頼朝の発案ではなく、平安時代から全国各地の国衙(各国の役所)、荘園などで公文書の発行や徴税業務などを行った部署でした。
頼朝が1180年に挙兵し、鎌倉に本拠を定めた当初は、配下の中でも都で朝廷の官吏として活躍したキャリアを持つ人物が行政事務を行っています。しかし時が経つにつれて処理すべき業務が増えてきたため、大江広元を別当(長官)に任じたほか、5人の寄人(よりうど:職員のこと)も補佐役につきました。
頼朝が設置した公文所も、御家人の所領に関する公文書の発行や財政管理、徴税業務などと担当業務は多岐にわたります。なお、公文所専用の建物も、処理すべき業務が増えてきたことから1184年に設けられました。
1191年に「政所」と改称
1184年に設置されて以降数年にわたって機能してきた公文所は、1191年に「政所」と改称されています。政所は本来、親王や従三位以上の上級公家が、家で所有している財産を管理するために設置する機関のことです。
そして頼朝も前年に従二位に昇進したことで上級公家の仲間入りを果たしています。政所は上級公家のみが設置できる慣習があったため、頼朝も公文所を「政所」とした流れです。
公文所から改組された政所は、引き続き鎌倉幕府の内政や財政を担当する専門機関として機能し続けます。ただ発給した公文書を管理するための部署として「公文所」の名前は残り続けました。加えて公文所が持っていた機能も、少しずつ政所内の各部署に振り分けられています。
政所や問注所との違いは?
公文所について見ていると、政所や問注所との違いがどこにあるのかも気になる点です。政所についてはすでに説明したように、頼朝の従二位昇進に合わせて「公文所」から名前が変わっています。同時に基本的な機能も公文所から政所に移っていきました。
また問注所(もんちゅうじょ)は、鎌倉幕府の中でも裁判や訴訟事務を担当する部署です。もともと頼朝が挙兵した当初は、公文所に当たる機関で行政事務とともに処理されていました。1184年に公文所が正式設置されるのに合わせて、裁判や訴訟を扱う問注所も設置されています。
なお問注所の初代執事(長官)には、大江広元と並ぶ鎌倉幕府初期の官僚である三善康信(みよしやすのぶ)が就任しました。
公文所の初代長官(別当)には大江広元が就任
頼朝が設置した公文所(政所)は、幕府内の行政・財政を司った機関だけあり、歴代の長官(別当)にも優秀な人材を配置する必要がありました。頼朝が初代長官に任命したのが、鎌倉時代初期に活躍した大江広元です。
広元は頼朝の死後にも13人の合議制の一角として重きをなし、幕府政治の安定にも力を尽くしました。大江広元の来歴や幕府での活躍ぶりについて、詳しく見ていきましょう。
頼朝が招いた朝廷の官吏
大江広元は1148年に、代々学者の家系である大江家に生まれました。当初は朝廷で上奏文の作成などを担当した「外記(げき)」として携わります。
1180年に源平合戦が始まると、兄の中原親能が頼朝と親しかったことから、頼朝に仕え始めました。朝廷内での実務経験を頼朝に買われた広元は、公文所の別当のほか朝廷との交渉役として辣腕を振るいます。頼朝の覇業を支えた働きぶりを通じて、頼朝の近臣でも重鎮とみなされていきました。
頼朝死後は鎌倉幕府の重鎮に
鎌倉幕府成立後も広元は頼朝の重鎮として活躍します。主君の頼朝が1199年に53歳で世を去ると、若くして2代将軍となった頼家を補佐するべく、有力御家人など13人が合議する体制(十三人の合議制)が成立しました。広元も13人のうちの1人として、将軍の頼家を支えつつ、やがて台頭してきた北条家に協力します。
北条家への協力ぶりもあり、執権政治が確立した後も広元は幕府の重鎮として信頼されました。4人の将軍と3人の執権に協力した広元は、1225年に亡くなっています。
政所改組後の公文所
公文所は「政所」への改組後も、引き続き鎌倉幕府内の重要な機関として機能し続けました。しかし具体的にどのような変遷をたどったのかは、意外とよく知られていません。
大江広元以降の政所がどうなったのかや、室町幕府ではどのように扱われたのかを知ると、より後の時代の公文所について面白く理解できます。
別当は執権・連署を務めた北条一族が兼任
広元以後の政所の別当は、執権や連署を務めた北条一族が兼任しました。別当の地位は北条時政が頼朝の死後の熾烈な御家人争いを制しつつ、3代将軍実朝の後見人となる中で就任します。
次の執権である義時以降も、政所別当は北条家で執権や連署に就任した人間が兼務するとともに、政所は執権直属の機関となりました。問注所や侍所も将軍権力の衰退に伴い、同じく執権直属の機関と化しています。
一方政所別当に次ぐ政所執事については、初代に二階堂行光が就任しました。以降は2代目の伊賀光宗を除き二階堂家が執事職を受け継いでいます。
北条家も家中に独自の公文所を設置
北条家は執権政治で政所別当の地位を独占する一方、家中にも財産の管理などを担当する公文所を設置しました。そして家中の公文所の責任者には、北条得宗家(北条家嫡流)の直臣(御内人)の取りまとめ役である内管領が就任します。
代表的な人物として、北条時宗と貞時の2代に仕えて権勢を振るった平頼綱が有名です。なお内管領は家中の公文所の責任者のほかにも、侍所の次官も兼任していました。
鎌倉幕府も終わりが近付くと頼綱のような内管領が幅を利かせるようになったため、執権でさえも名目上の存在と化します。
室町時代にも設けられた政所
公文所から始まった政所は、鎌倉幕府滅亡後に成立した室町幕府にも設けられました。室町幕府の政所は鎌倉幕府のものと異なり、幕府の財政や領地訴訟を担当します。
組織内の人事についても、最高職がかつて政所の次官とされた執事であることや、次官として執事代が置かれた点も大きな違いです。政所執事は当初二階堂家や京極家などが務めていましたが、3代将軍義満の時代以降は基本的に伊勢家が代々世襲しています。
なお、室町幕府の時代が終わりつつあった1560年代には、伊勢家の人間ではなく摂津晴門が政所執事を務めました。