建武の新政は、朝廷が武家政権から主導権を奪おうとし、一度は奪還に成功したことで始まった政治です。
本記事では、建武の新政を中心に、建武の新政が生じた背景やどのようにして建武の新政が終わったのかなどを解説します。
建武の新政はたった2年しか続かず、次第に武家政権への回帰が進んでいきます。なぜそのようなことになったのか、気になっている方も多いのではないでしょうか。
大河ドラマではなかなか描かれることが少ない建武の新政について、わかりやすく紹介していきます。
建武の新政とは?
建武の新政は、1334年に後醍醐天皇が親政を開始したことで始まった新たな政治体制を指します。親政とは天皇自らが治めていく政治を意味しており、後醍醐天皇が200年以上の時を経て復活させた形です。
天皇にすべての権限を集め、朝廷はもちろん、武家まですべて統率するような政治を行い、平安時代に見られた「古き良き日本の政治」に戻す狙いがありました。
新しい税・通貨の発行計画などさまざまな政策が進められようとするも、色々とうまくいきません。
そうこうするうちに、建武の新政に協力していた反鎌倉幕府の武士たちから愛想を尽かされてしまいます。後醍醐天皇が慌てて事態の収拾に挑むも時すでに遅し、わずか2年ほどで建武の新政は終わってしまいました。
建武の新政の背景
建武の新政が行われた背景には主に2つの要因があります。
- 武家政権への不満
- 天皇による親政を理想にしたかった
鎌倉幕府は150年ほど続いた日本初の武家政権で、今まで政治を担ってきた朝廷の人々からすれば全く面白くありません。特に承久の乱で朝廷は鎌倉幕府と対決しますが、大敗を喫し、当時の後鳥羽上皇は隠岐へ島流しと相成りました。
鎌倉幕府は朝廷を監視する部署「六波羅探題」を設置するなど、朝廷の立場はますます悪くなっていきました。
この状況に異を唱えたのが後醍醐天皇です。後醍醐天皇は、「天皇自らが政治を取り仕切る親政」を理想に掲げており、平安時代の醍醐天皇などが行った政治が理想形でした。
元寇以降、鎌倉幕府に対峙する武士たちは増えており、これらの武士を活用して「天皇自らが政治を取り仕切る親政」を復活させようと後醍醐天皇は目論んだのです。
建武の新政が始まるまでの経緯
建武の新政が始まるまでにはいくつかの経緯が存在します。
- 鎌倉幕府の滅亡
- 後醍醐天皇による建武の新政が始まる
- 公家たちは長年の政治離れで機能せず
建武の新政が始まるまでにどのような経緯が存在したのかを解説します。
鎌倉幕府の滅亡
鎌倉幕府は元寇以降、混乱状況にあったほか、徳政令発布の影響で格差が深刻化し、治安・秩序が非常に悪い状態になっていました。
その中で長年鎌倉幕府を支えてきた北条家にも綻びが見られ始め、統率が極めて取りにくい状況に陥っていたのです。
1318年に後醍醐天皇が即位すると、虎視眈々と倒幕を狙っており、元弘の乱で失敗して一度は隠岐島に流されるも、その姿に反幕府の武士が立ち上がります。
1333年に挙兵すると、幕府側の人間だった足利尊氏が後醍醐天皇側につき、新田義貞の活躍によって鎌倉幕府は滅亡しました。
後醍醐天皇による建武の新政が始まる
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政を開始します。後醍醐天皇は今までの摂政や関白などを否定し、上皇などが実権を握る院政を廃止し、天皇がトップの政治を行おうとしました。
また足利尊氏や新田義貞などに重要なポジションを与えたほか、陸奥や鎌倉に将軍府を行い、地方分権を図っていきます。
記録所・恩賞方・雑訴決断所などが設置されたほか、紙幣・貨幣の発行計画などが持ち上がり、鎌倉幕府とは違う政治を見せようとしました。
試み自体はそこまで悪いものではありませんでしたが、理想と現実のギャップがあまりにもあったために、結果として世間からの不満がすぐに出始める事態となったのです。
公家たちは長年の政治離れで機能せず
建武の新政が早々に終わった背景には、長らく続いた武家政権によって、公家たちが政治のやり方を忘れており、機能しなかったことが考えられます。
一度に複数の行政機関を配置し、その政務を公家たちが行うのは無理がありました。しかも、後醍醐天皇に抜擢された武士も政務への対応が決してうまかったとは言えず、混乱しやすい状況になってしまったのです。
加えて、公家に対するえこひいきが強く、武士などに負担を負わせるようなケースも目に付きます。本来、公家と武士は対等の関係だったはずが、いつの間にか公家ばかりが恩恵を得られる状況と化していました。
ガラッと変えたまではよかったものの、変えてからのやり方で下手を打ったことにより、建武の新政は早々に終わることになるのです。
建武の新政の崩壊
わずか2年ほどで終わった建武の新政ですが、崩壊にはいくつかのプロセスがありました。
- 足利尊氏が武士を率いて反乱を起こす
- 足利尊氏が朝廷軍を破り建武の新政は崩壊
- 50年以上に及ぶ南北朝時代へ
建武の新政が崩壊へと進んでいったプロセスについて、1つずつ解説します。
足利尊氏が武士を率いて反乱を起こす
公家ばかりをえこひいきし、武士への冷遇が目立ち始めたことで、武士たちは強い不満を抱くようになります。この時、武士の不満を一手にキャッチしたのが、鎌倉幕府滅亡のキーマンだったはずの足利尊氏です。
足利尊氏は途中まで後醍醐天皇のために動いていましたが、従二位になったことで自らの権限で恩賞を配り始めるなど、後醍醐天皇の周囲は不穏な空気に包まれていきます。
一進一退の攻防が続く中、しばらくして後醍醐天皇は足利尊氏追討に動き、建武の乱が勃発します。次第に政権側が劣勢となり、湊川の戦いにつながっていきました。
湊川の戦いでは、足利尊氏側が陸と海から参戦して政権側の軍と対峙し、政権側の軍を分断します。政権側は効果的な戦いができなくなり、最終的に政権側の中心人物だった楠木正成が自害しました。
足利尊氏が朝廷軍を破り建武の新政は崩壊
湊川の戦いの結果、政権側は惨敗し、後醍醐天皇は逃げるように都から離れ、比叡山に雲隠れする形となり、代わって足利尊氏が都を制圧します。
後醍醐天皇は比叡山から足利尊氏にプレッシャーを与えて、抵抗を図りました。しかし、足利尊氏は比叡山が孤立するように仕向け、後醍醐天皇の狙いは外れてしまいます。
その間にも足利尊氏は着実に足元を固め、支持拡大に尽力していき、後醍醐天皇と対峙していた光厳上皇を後ろ盾にし、数か月後に室町幕府が誕生しました。室町幕府の誕生をもって、建武の新政は終わったのです。
50年以上に及ぶ南北朝時代へ
一方、後醍醐天皇もまだ諦めていませんでした。天皇が代々受け継ぐ三種の神器を利用し、相手に渡したのは偽物であり、本物は自分で所有していると主張し始めました。
これにより、都である京、大和にある吉野の2か所に朝廷が誕生する状況になります。それが南北朝時代の始まりです。朝廷が分裂することは過去の歴史においてもあまりない出来事でした。南北朝時代はおよそ50年ほど続きました。
建武の新政が与えた影響
さまざまな混乱を生んだ建武の新政ですが、その後にさまざまな影響を与えています。
最後に建武の新政が与えた影響について解説します。
朝廷の影響力は鎌倉時代よりも弱まる
南朝と北朝、2つの朝廷が誕生して南北朝時代を迎え、天皇が2人いる事態となりました。足利尊氏も南北朝を交互に訪問するなど、真の権力者はどちらなのかという混乱が出始めたのです。
特に南朝は頼りにしていた新田義貞などを合戦で失い、勢力が減退していきました。そして、1339年になると後醍醐天皇が崩御し、1347年には南朝からの挙兵を利用して北朝が南朝へ攻め入り、北朝が一気に優位に立ちます。
その後も北朝・南朝は主導権争いを繰り広げますが、室町幕府の3代目将軍足利義満の尽力によって南北朝時代は終わりました。
しかし、2つの朝廷が誕生し、争いを重ねたことにより、朝廷そのものの影響力が落ちてしまいます。絶対的な権威が弱まってしまい、結果的には長らく続く武家政権のアシストになってしまったのです。
南北朝時代によって古い政治が破壊された
南北朝時代によって、南朝は後醍醐天皇が臨んでいた「天皇自らが政治を取り仕切る親政」がかなわず、北朝は室町幕府からさまざまな権限を奪われていきました。結果として、確固たる武家政権誕生につながっていきます。
一方、これまで血縁がモノを言う時代だった社会が、惣村が重視されるようになり、血縁より地縁が重要な時代となっていきました。
南北朝時代の混乱は、公家と武家の関係性において優劣がはっきりとついただけでなく、民衆レベルでも大きな地殻変動につながっています。
貨幣経済の一般化や文化の発達など、今までになかった動きがみられるようになりました。南北朝時代があったことで、わびさびを始めとする日本固有の文化が育ち、現在に至るまで受け継がれていくことになります。
建武の新政はある意味では、現在まで通じる日本文化の最初の一歩になったと言えるでしょう。