鎌倉幕府は、源頼朝により1185年(文治元年)に成立した武家政権です。明治維新が起こるまで存続し、武家政権の基礎となりました。
鎌倉幕府は、武士団を中心とした軍事政権であり、源氏やその他の武士団を基盤として構成されました。鎌倉幕府では、全国の御家人(武士)と幕府の間に「御恩と奉公」という、武士は幕府のために戦い、幕府は武士に恩賞として土地を与えるという関係を築いていました。
しかし、そんな鎌倉幕府も、経済的な困窮や他国からの侵略行為、内部の者の裏切りなど、様々な原因で幕を閉じます。また、実権を握る人物の不安定さも一つの要因でした。
この記事では、鎌倉幕府が滅亡するまでの流れを解説していきます。
鎌倉幕府滅亡の理由
約150年も続いた鎌倉幕府がどうして滅亡してしまったのか、いくつかの要因があります。
まず鎌倉幕府を成立させた源頼朝が、政権を握ってわずか7年後の1199年(建久10年)に亡くなってしまったことが始まりでした。
源頼朝が亡くなった後は息子である源頼家が政権を握ることになりますが、源頼家はまだ18歳という若さだったため、頼朝の妻である北条政子が代わりに政治を行うようになります。
北条氏との関係が良くなかった源頼家は病に倒れ、次に就任したのは源実朝でした。
しかし源実朝は暗殺され、源頼朝の直系の子孫はいなくなってしまいます。
そのため、源頼朝の遠い親戚である幼い藤原頼経に政権を握らせ、実質北条氏が補佐役として政治を執り行っていました。
しかし、最後は御家人に追い詰められることで北条氏も滅亡し、約150年続いた鎌倉幕府は滅亡しました。
政権争いで不安定だったことに加え、いくつかの事件が発生したことも理由の一つです。
恩賞不足
「封建制度」により幕府と御家人はお互いを支え合う関係になっていましたが、その制度に対して御家人の不満が高まった事件があります。
モンゴル帝国による侵略行為「元寇」が発生した時、日本は勝利をおさめたものの、恩賞を上手く分配できる状況ではありませんでした。
戦の際には、負けた側の土地を奪って御家人に分配すればよかったはずですが、元寇で幕府が得た土地はありません。
そのため、御家人は幕府に協力したにもかかわらず、何も恩賞をもらえなかったために御家人の反感を買ってしまいました。
苦しむ御家人
鎌倉幕府の時代には、御家人が所有する領地は分割で相続されていました。
これは領地を自分の子供がいる分だけ均一に分け与えることです。
しかし、公平ではあるものの領地の分割が多すぎて、一つの領地の価値は低くなるという状況でした。
領地の少なさにおいて生活が苦しくなったことに加え、兵を挙げたにもかかわらず元寇で恩賞がなかった結果、借金に苦しむ御家人も発生してしまいます。
幕府は借金を帳消しにする「永仁の徳政令」を出すものの、効果が薄かったために御家人からの幕府への不信感は高まる一方でした。
鎌倉幕府が滅亡するまで
政権を握った北条氏ですが、独裁政治かつ権力にあぐらをかいた状態で、次第に仕事への不真面目さが目立ってきます。
そのため、北条氏は政治を行うというよりは鎌倉幕府のお飾りのような存在にまで成り下がってしまいました。
堕落しきった鎌倉幕府に見かねて、様々な人物が動きを見せ始めます。
まず動いたのは後醍醐天皇、そして新田義貞と足利尊氏が立ち上がりました。
結果として北条氏は滅亡するのですが、その流れを順を追って説明していきます。
後醍醐天皇の討幕運動
後醍醐天皇は倒幕計画を立てますが「武家政権ではなく、天皇が政治の実権を握る時代にする」という考えでした。
後醍醐天皇に賛同した多くの御家人が協力しますが、この計画は倒幕前に鎌倉幕府に知られてしまいます。
その結果、後醍醐天皇の側近であった公家が処罰されることになりました。
これを「正中の変」と呼びます。
後醍醐天皇はあきらめることなく、再度倒幕計画を企てました。
しかし二度目の計画も事前に鎌倉幕府が知ってしまう事態となり、とうとう後醍醐天皇本人が隠岐島へと流されてしまいます。
これを「正弘の変」と呼びます。
鎌倉幕府に不満を持っていたのは後醍醐天皇だけではなかったため、楠木正成や赤松則村など「悪党」と呼ばれていた武士達が倒幕へと参加していきました。
北条氏の滅亡
後醍醐天皇は協力者を得て隠岐島からの脱出に成功します。
出雲から伯耆へと入り、名和長年の元に迎えられます。
このことにより、今まで上手くいかなかった後醍醐天皇の倒幕計画が、また一歩現実味を帯びる結果となりました。
その動きに賛同したのが、幕府側であった足利尊氏です。
足利尊氏は幕府を裏切る形で後醍醐天皇の倒幕計画へと参加しました。
幕府への反発で意気投合した、足利尊氏や赤松則村などにより京都の六波羅探題が攻め落とされました。
加えて幕府を倒すために挙兵した新田義貞が北条氏の本拠地の鎌倉を攻撃し、為す術もない北条氏は東勝寺で自害します。
これを「東勝寺合戦」といいます。
東勝寺合戦により、鎌倉幕府は完全に滅亡しました。
鎌倉幕府が滅亡したその後
北条氏の自害により、約150年続いた鎌倉幕府の歴史は滅亡します。滅亡後も政治に関することに様々な影響を及ぼしました。
新たな形の政治を目指そうというのが倒幕の最重要目的であり、その目的を目指して様々な人物が動き出します。
倒幕の首謀者であった後醍醐天皇など、倒幕に関わった者たちの動きを中心に見ていきます。
建武の新政
後醍醐天皇は、見事鎌倉幕府倒幕を実現します。
まず後醍醐天皇は、京都へ戻って「建武の新政」を行いました。
建武の新政は、天皇を中心とした政治体制で、武士よりも公家(貴族)を大事にしました。
その政治体制は武士たちから反感を買うことになってしまいます。
1336年(建武3年)、足利尊氏による京都への攻撃により、建武の新政はたった2年で幕を閉じてしまいます。
足利尊氏は公明天皇を即位させ、建武式目を発布するなど、後醍醐天皇とは違った形の政治体制を目指しました。
攻撃から逃げ延びた後醍醐天皇は、奈良の吉野に朝廷を置きます。
足利尊氏による京都の朝廷は「北朝」と呼ばれ、後醍醐天皇による奈良の朝廷は「南朝」と呼ばれました。
この2つの朝廷は約60年ほど対立します。この時代を「南北朝時代」といいます。
その後、この対立関係を収めて朝廷を一つにまとめたのが、3代将軍 足利義満です。
室町幕府へ
室町幕府は足利義満の時代に最も栄えました。
明から国王と認められ、日明間で貿易が始まり、経済活動が活発化します。
刀、槍などを貢物として送る代わりに、絹や青銅でできたお金を得て、大きな利益となりました。
室町幕府は足利家を将軍として15代まで続きます。
室町幕府の成立後は工業、農業も発展し、農民による自治的な組織「惣」ができるなど立場の低い者たちも活発に活動を始めていました。
室町幕府は、戦国時代を迎えたことにより次第に弱体化していきます。
次第に勢力を持ち始めた織田信長が京都に入ったころ、足利義昭を15代将軍に就任させましたが、肩書のみで権力を与えられず、不満に思っていました。
織田信長の存在が邪魔になった足利義明は、各地の武士に織田信長討伐を指示しましたが、勝てた者はいませんでした。
1573(元亀4年)には、義昭が京都から追放されてしまい、室町幕府は滅亡したのでした。