平安時代に都で華やかな貴族文化が花開いていた頃、地方では「在庁官人(ざいちょうかんにん)」と呼ばれる人々が台頭していました。律令政治の行き詰まりを機に地方の有力者層から国司に登用された彼らは、地域社会で強力な影響力を行使した上に、武士になる者もいました。
在庁官人たちについて理解すると、貴族の時代から武士の時代に移り変わる時代の一端を見られます。在庁官人について詳しく見ていきましょう。
在庁官人とは?わかりやすく解説
華やかな貴族の生活ぶりや文化に注目されがちな平安時代、地方では在庁官人(ざいちょうかんにん)と呼ばれる官僚が活躍していました。京都で任命された国司で実際に赴任しない人物がいる中、地方行政を担った存在です。
在庁官人について理解すると、平安時代から鎌倉時代にかけての地方政治について色々と知ることもできます。在庁官人がどのような人々だったのかを見ていきましょう。
平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した地方官僚
在庁官人とは、平安時代から鎌倉時代にかけて地方行政の主要な担い手になった官僚です。日本の66ヶ国のそれぞれにあった国衙(各国の役所)で、地元の行政を実際に取り仕切っていました。
在庁官人は地元の有力者から選抜・任命されていて、通常であれば京都からやって来た国司を補佐する存在です。しかし平安時代も中期を過ぎると、国司の中には任命されたにもかかわらず直接やって来ない人物も多くいました。このため各国では在庁官人が国司に代わって腕を振るいつつ、行政事務を進めていたのが実情です。
なお彼らは単に行政に携わるだけではなく、平安時代当時は形骸化していた律令体制で軍事力を提供する担い手でした。やがて在庁官人は京都の朝廷が放置した現地を守るべく、武士にもなっていきます。
在庁官人と遥任国司・目代・受領との違い
在庁官人と一緒に見聞きする用語に、「遥任(ようにん)国司」や「目代」、「受領(ずりょう)」が有名です。
まず「遥任国司」とは、朝廷から任命されたにもかかわらず、担当国の遠さなどを理由に現地に行かない国司を指します。そして遥任国司が自分の代理として現地に派遣したのが「目代」です。目代が派遣された場合、在庁官人は目代の指揮下で政務を行いました。
一方で「受領」は朝廷から任命された後、実際に現地に向かった国司を指します。受領国司が実際に派遣されていた場合、在庁官人は受領国司の下で政務を行うのが一般的でした。
ただし受領国司の中にも、自身の出世を目的に任地で重税を取り立て、果てには民から横暴ぶりを訴えられた人物もいます。
在庁官人はいつ登場しどう台頭した?
在庁官人は平安時代の地方政治の担い手であるとともに、地方の有力者を出自としていました。彼らがどのような背景を持って登場して来たのかは、平安時代の歴史を知る上で重要なテーマです。
在庁官人が登場してきた背景には、当時の律令体制の行き詰まりも深く関わっていました。在庁官人の登場から台頭までの流れを一通り見ていきましょう。
律令政治の行き詰まりの中で地方有力者が任命される
在庁官人が登場してきた平安時代中期は、律令体制の緩みや行き詰まりが顕著になった時代でもありました。もともと律令制度は、朝廷が全国の土地を管理したり人々に分け与えたりする代わりに、人々が収穫の一部を税として納めるのが特徴でした。
しかし朝廷が人々に課税や労役で大きな負担を課したため、耐えられなくなって逃げ出すなどする人が続出します。耕す人がいなくなった土地が増え、朝廷に入って来る税が減ったり、戸籍による管理が難しくなったりしました。加えて各国では地元の有力者層が台頭し、朝廷に代わって土地の管理や徴税を担うようになります。
一方朝廷も奈良時代の終わりから平安時代にかけて律令制の立て直しを行いました。地方の徴税や軍事の権限を国司に大幅移譲することも行われ、国司は地方支配のために有力者層を官吏に任命することを考えます。国司が利用しだした有力者層こそが在庁官人です。
任国に来ない国司に代わって地方政治を取り仕切る
在庁官人が登場した平安時代、国司の中には朝廷から任命されたにもかかわらず、自ら任地に赴かない人物もいました。都から任地が遠すぎたことや、朝廷内で国司が直接出向かない遥任(ようにん)を認めるケースが増えていたためです。平安時代中期には任地に国司が出向かず、代理人である目代が派遣されたり、現地の在庁官人が実質上の国司として振舞ったりするケースも多く見られました。
在庁官人が担当していた業務は多岐にわたります。大きく分けると徴税関係と軍事関係とに分かれ、徴税関係では国内の土地からの課税はもちろんのこと、土地に関する記録の作成にも携わりました。軍事関係でも国内でもめ事が起きた際、現地司令官として国内の将兵を率いて治安維持や紛争の鎮定にも当たっています。
次第に開発領主や武士の性格も担うように
在庁官人は地方行政官として活躍する一方、公有地を実質自分のものにしたり、民衆に命じて土地を切り開かせたりするようになりました。特に土地を開発した場合、国司から領主として認可されるケースさえあったほどです。
ただ当時の開発領主は、国司が交代した途端に領主の認可を取り消される場合もありました。そこで開発領主たちの中には上級貴族や大寺院に土地を寄進する代わりに、国司の支配から脱却しようとする者もいました。開発領主を兼ねた在庁官人も場合に応じて寄進したり、今まで通り国司に従属したりします。
また国司と対立した場合、時に武力が必要となったため、在庁官人は自ら武装して土地や領主としての権利を守る必要に迫られました。特に関東では在庁官人が武装して独自性を示す傾向が強く、彼らの末裔は武士や御家人として鎌倉幕府に参画していきます。
鎌倉幕府成立後の在庁官人
在庁官人は主に平安時代に地方政府の役人として活躍した存在です。鎌倉時代以降に武家が台頭してくる中で、在庁官人はどうなったのかも合わせて見ておくと、地方政治の変化を終えます。
鎌倉幕府成立以降の在庁官人の動向についても見ていきましょう。
鎌倉幕府成立後もしばらくは地方政治で活躍
平安時代末期に源頼朝を頂点に鎌倉幕府が成立すると、幕府が各国に守護や地頭を置く権利を認められたため、朝廷や荘園領主の地方への影響力が下がり始めます。ただ鎌倉幕府が成立した後も、在庁官人はしばらくは地方政治で力量を発揮していました。
1221年の承久の乱より以前であれば、守護・地頭の影響力は東国を中心に広がっていたため、国によっては在庁官人が地方政治で影響を持つ状況が続きます。
守護・地頭の台頭や定着で力を失う
武家政権成立後も当初は影響力を行使し続けた在庁官人も、時が経つにつれて幕府が設置した守護・地頭の浸透を前に影が薄くなっていきました。特に承久の乱や元寇を経て幕府の力が強化されると、東国だけでなく西国にも守護・地頭の定着が進んでいきます。
特に地頭は任地で徴税や争いの調停を行う権限を持っていたため、地域社会に深く根付いていきました。地頭の定着で今まで地方政治で力を持っていた国司や在庁官人の影響力は相対的に下がっていきます。
室町時代には守護に従う国人に変化
さらに室町時代になると、守護の力が強大化して地頭をも家臣にする体制になっていきました。すでに影響力を失っていた在庁官人も、地頭とともに国人勢力として守護に従う存在になります。ただ中には守護に従わない独立勢力型の国人となる在庁官人もいました。
ほかにもかつての在庁官人が守護になったケースもあります。代表的な例が、周防(すおう)の在庁官人から室町時代に西国最強の守護大名にまで上り詰めた大内家です。室町時代には周防・長門など6ヶ国を支配下に収めるほどの大国になっています。