守護や地頭といえば、歴史の教科書で鎌倉時代に触れる際によく出てくる存在です。ただし具体的にどのような役職だったのかや、設置後どうなったのかがわからない方もいるかと思います。
守護や地頭は武士の時代に地方政治を掌握したため、武家社会を理解する上では欠かせません。本記事では守護や地頭について、設置の経緯や室町時代以降の動向などとともに徹底解説します。
守護・地頭とは?それぞれの意味や役割を解説
「守護」や「地頭」というワードは、歴史の教科書で鎌倉幕府について触れる際によく耳にします。しかし具体的にどのような存在だったのかがわからない方も多いです。
守護や地頭が何なのかや、お互いの違いについて知っていると、鎌倉時代をはじめとする武士の時代を理解する上で役に立ちます。守護や地頭の意味や役割についてわかりやすく解説しますので、ぜひご覧ください。
守護とは各国の軍事・警察を担当
まず守護とは、鎌倉幕府の将軍から任命された、各国の軍事・警察を担当する役職です。1国につき1人分のポストがあり、当時の日本国内には66ヶ国あったため、合計66ヶ国分の守護のポストが用意されていました。
守護は担当する国での治安維持や軍事関係が主要な任務です。特に治安関係では鎌倉や京都で警備につく御家人を集める「大番催促」や、謀反人の逮捕・殺人犯の逮捕の3つを担当しました。これらの3つは「大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)」と呼ばれます。
各国の守護は、以下に解説する地頭の上司でもありました。担当した国では地頭にも指示を出したり指揮したりしています。
地頭とは徴税を担当
続いて地頭とは、各国で徴税を担当する役職です。各国に1人ずつ設置された守護と異なり、国の中でも荘園や公領(朝廷が決めた国有地)などに細かく配置されたため、守護以上に多くの人間が就任していました。
領民から年貢を集めるほか、守護以上に細かい地域での治安維持や領民の裁判も地頭の権限です。仕組み上では守護の指揮下で幕府の地方行政の担い手となっていましたが、領民からすると直接の領主であったと言えます。
なお幕府から地頭に任命されたのを機に、担当する地域に根付いて支配者になるケースも多いです。一方で地頭の中には横暴なやり方で領民を支配したため、「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉も生まれました。
守護・地頭・国司の違い
守護と地頭の違いとして、まず守護は各国に1人任命されるとともに、担当国での軍事や治安維持を担う人物を指します。地頭は担当国内の地域別に徴税業務を行うほか、領民に対する裁判や地域内の治安維持に従事しました。
また立場上は守護の方が地頭より上です。国単位の支配を守護が行うため、地頭は守護の指揮下に入って任務を行います。ただし守護も地頭も主人はあくまでも鎌倉にいる将軍や執権です。
一方地方支配を担う存在には国司もいました。ただ守護や地頭と異なり、朝廷が任命していたという点が大きな特徴です。加えて鎌倉時代以降の国司は、地頭が積極的に地域支配を推し進めたこともあり、次第に影響力を失っていきました。
守護と地頭はいつ誰が設置した?定着する流れも紹介
守護や地頭といえば、源頼朝が鎌倉幕府を開いたのと同じ時期に設置したことで有名です。しかし守護や地頭が、具体的にどのような経緯で設置されたのかまでよくわからない方も多いかと思います。
守護や地頭が設置された経緯や流れは、直接武士が地方政治をも支配するプロセスと同じです。守護や地頭が設置されるようになったきっかけや流れを詳しく見ていきます。
源頼朝の要請で設置された守護と地頭
守護や地頭を設置したのは、鎌倉幕府の初代将軍として有名な源頼朝です。頼朝は1180年に平家打倒のために挙兵すると、鎌倉に入った上で自らの地盤である関東の支配を強めます。関東統治をスムーズに進めるために設けられたのが、惣追捕使(そうついぶし:後の守護)と地頭でした。
惣追捕使は守護の前身として設けられたものの、設置当時は諸国で兵糧を確保したり兵を動員したりする、軍事的な色彩が強かったのが特徴です。やがて頼朝ら源氏が1185年に壇ノ浦にて平家を滅ぼすと、惣追捕使は一旦廃止されます。
しかし平家に代わって武家の最大勢力となった頼朝に対し、後白河法皇は義経を利用して排除をもくろみました。頼朝は法皇に圧力をかけて義経討伐を命じさせるとともに、義経の捜索や捕縛を名目に全国に惣追捕使や地頭を置くことを認めさせました。なお惣追捕使の名称は1191年に「守護」に代わっています。
承久の乱を経て鎌倉幕府の地方支配の担い手に
頼朝が守護・地頭を全国に設置できるようになったことで、鎌倉幕府は全国に影響力を示せるようになりました。ただ当初、源氏の影響力が東国よりも弱かった西日本では、元からいた荘園領主の影響力が強いままで推移します。鎌倉幕府が成立し、北条家による執権政治が確立するまでの40年程度はこの状態が続きました。
守護・地頭の影響力が増したきっかけが、1221年の承久の乱です。後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと立ち上がったものの、逆に上皇ら朝廷側が破れます。幕府は上皇らを流罪などで処罰した上、乱の鎮定に功のあった御家人を各地の守護や地頭に任命しました。
西日本でも荘園領主の力が衰え、守護や地頭の影響力が増します。こうして守護と地頭は鎌倉幕府の地方支配の担い手となっていきました。
室町幕府以降の守護や地頭
守護や地頭は鎌倉時代だけでなく、室町時代以降も残り続けています。ただ鎌倉時代に設置された頃に比べると、かなり形が変わっていました。
室町時代以降の守護や地頭について見ていくと、武士の時代の社会を理解する上で大変役に立ちます。室町幕府以降の守護や地頭についても見ていきましょう。
守護が大名になるほど強大化
守護や地頭の制度は室町幕府にも受け継がれます。しかし室町幕府は守護の任免権はあったものの、地方政治への影響力はあまり大きくありませんでした。しかも室町時代の守護は、鎌倉時代以上に担当国の支配権限が強化されます。そして守護はもともと幕府が任命していた地頭を家臣にしていきました。
地方に強力な支配力や影響力を及ぼすようになった守護は、やがて「大名」として担当国を自らの領国としていきます。彼らは「守護大名」とも呼ばれ、鎌倉時代の頃以上に地方を実効支配する存在となりました。ちなみに守護の家臣となった地頭たちは、各地域を土着・支配する国人として残り続けます。
力の強い守護大名は幕府政治を動かすほどに
室町時代には全国各地に守護大名がいて、中でも強い勢力を持ったものは幕府の政治に関与していきました。代表的なものとして、幕府の管領を務めた細川家・斯波家・畠山家や、一時は11ヶ国を支配した山名家や西日本の大内家などが挙げられます。
幕府内でも将軍の力が強くなかったため、幕府の運営も有力な守護大名たちが担っていました。なお幕政に関わる守護大名たちは普段京都にいたため、領国の支配は代理である守護代に任せています。
15世紀に入って将軍の力が衰退すると、有力大名たちは派閥を作って争うようになりました。やがて将軍家や管領家である斯波・畠山両家の後継者争いも絡んだ結果、応仁・文明の乱に発展していきます。
戦国時代に明暗が分かれた守護大名
応仁・文明の乱以降、世の中は本格的な戦国の世になっていきました。乱では当初主要な守護大名が東軍・西軍に分かれて京都の街中で争います。一方主人のいない領国では、家臣であるはずの守護代や国人(かつての地頭)や領民が国を乗っ取る、下剋上の傾向も見られました。
全国の戦乱がますます拡大すると、守護大名に取って代わった国人などが戦国大名として君臨します。例えば上杉謙信を輩出する越後長尾家もかつては越後守護代で、戦乱に乗じて守護以上の力を持った存在でした。
一方で守護自体が力を付けて戦国大名になった例も多くあります。駿河の今川家や甲斐の武田家、豊後の大友家などが代表的です。かつて守護大名として君臨した家も、戦国時代の中で滅ぶかうまく生き残るかで明暗が分かれました。
江戸時代以降も生き残った守護や地頭の末裔も
戦国時代には多くの大名が滅亡した一方、うまく生き残ったかつての守護もいます。代表的な例として、九州の島津家や東北の伊達家、近江源氏佐々木家の末裔である京極家などが有名です。また守護代でも上杉家(かつての越後守護代長尾家)が、地頭だった家でも中国の毛利家が生き残っています。
特に島津家や毛利家は、薩摩藩や長州藩を治めた家として有名です。幕末には倒幕の中心的存在となった上に、彼らの家臣たちも明治政府の中枢で多く活躍しています。なお守護や地頭の末裔として生き残った大名家の中には、明治時代に華族となった家も多いです。