「承久の乱」は、幕府と朝廷の関係が大きく変わるきっかけになった鎌倉時代の争乱です。
NHKドラマ『鎌倉殿の13人』では承久の乱は終盤に描かれておりSNSで話題にもなりました。ドラマでは三浦氏の陰謀や北条政子の演説はドラマティックに描かれていましたが、実際の「承久の乱」はどうだったのでしょうか。
この記事では承久の乱がどうして起こってしまったのか、そして承久の乱後鎌倉幕府はどのように変化していったのか解説します。
最後の項目では承久の乱に関わった主要人物の簡単な紹介も載せていますので、是非最後まで読んでみてください。
承久の乱とは?
承久の乱は1221年に起こった貴族政権を率いる後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立抗争のことです。後鳥羽上皇が鎌倉幕府の2代執権・北条義時を討伐する宣旨を出したことで争乱に発展しました。
当時の鎌倉幕府と朝廷はほぼ対等な関係でした。鎌倉幕府は守護・地頭と呼ばれる警護人を全国の荘園に配置していましたが、朝廷のある西国では守護・地頭の設置を拒否することも頻繁にあったようです。完全に全国支配ができているとは言いがたい状況でした。
朝廷を支配下に置こうとしている鎌倉幕府の対応に不満を感じた後鳥羽上皇は、北条義時追討の宣旨を御家人に出します。後鳥羽上皇は多くの御家人が自分に協力すると思っていましたが、実際はうまくいかず、鎌倉幕府の大軍に敗北しました。
承久の乱が起きた理由
実は幕府ができたばかりの1200年ごろは、後鳥羽上皇は鎌倉幕府に対し協力的でした。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府や北条義時を目の敵にするようになったきっかけは何だったのでしょうか。
関係性が変わったのは、牧氏事件で北条時政が失脚した時です。後鳥羽上皇は北条時政とは友好関係を築いており、北条時政の娘婿であった平賀朝雅を特に気に入っていました。しかし、牧氏事件の後幕府の実権を握った北条政子・義時からの命令で朝雅は討たれてしまいます。裏切られたと感じた後鳥羽上皇は、独自の武力を編成することを企てるようになりました。
さらに幕府との対立を深める事件が発生します。
幕府は3代将軍・源実朝が亡くなると、新しい将軍として皇族出身者を立てようと計画します。義時は後鳥羽上皇に皇子である雅成親王か頼仁親王を迎えたいと申し出ました。これに対し後鳥羽上皇は、愛人だった亀菊の所領にいる地頭の撤廃と、上皇に西面武士として仕えていた御家人・仁科盛遠への処分の撤回を条件として提示します。しかし義時はこれらの要求を拒否しました。
後鳥羽上皇の乳母、藤原兼子は義時の態度に激怒します。地頭の撤廃など頑なに拒否をするのは朝廷を軽んじている証拠であると主張したのです。彼女の主張が強かったため、後鳥羽上皇は義時追討を行ったとする説もあります。
承久の乱は幕府側が勝利!なぜ勝てたのか
承久の乱は幕府側の勝利により収められました。ここでは幕府の勝因と、後鳥羽上皇の敗因を解説します。
幕府軍はなんと19万騎もの大軍で朝廷を制圧しました。北条政子の演説に感化された御家人が味方についたとされています。
幕府側の制圧が早かったことも勝因の一つです。西国の御家人はほとんどが朝廷側についていましたが、幕府の制圧が早かったため、出陣が間に合わなかった武士も大勢いました。
一方の後鳥羽上皇の敗因は戦況の見立てが甘かった点にあります。後鳥羽上皇が出した追討の内容はあくまで「北条義時を討つ」ことが目的であり、幕府へ反逆する意志はありません。後鳥羽上皇は北条氏に不満を持っている御家人達の戦力をあてにしていました。しかし実際集まった戦力は西国武士らを含めても2万騎ほどだったようです。
承久の乱が与えた影響
承久の乱が収束すると、後鳥羽上皇は隠岐に配流され、その地で崩御しました。承久の乱は歴史上初めて朝廷に対抗した勢力が勝利した戦いでした。
戦後の幕府の対応や朝廷との関係性はどう変化したのか、それぞれ解説します。
六波羅探題の設置
承久の乱が終結した後、幕府はこれ以上西国の御家人が朝廷側について反乱を起こさないよう監視する役目が必要になりました。そのために設置されたのが「六波羅探題」です。
承久の乱後の六波羅探題には京都の制圧に向かった北条泰時と北条時房が就任され、西国の御家人の監視、再編成と、朝廷の監視を行いました。院が動員権を持っていた在京御家人の管理も六波羅探題に委ねられたため、この時点で国の軍事力は全て幕府が掌握したといえます。
六波羅探題は重要な役目を担っていたため、「執権」、「連署」に次ぐほどの高い役職でした。北条氏一族でも将来有望な人が選ばれることが多く、役目を終え鎌倉に戻る際には執権や連署にまで昇進する人が多くいたそうです。
幕府と朝廷の関係
承久の乱後も朝廷は存続していますが、一気に力を失ってしまい、幕府に支配される形になりました。
首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島へ、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流され、土御門上皇は罪に問われませんでしたが自ら望み土佐国へ配流されています。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王、頼仁親王もそれぞれ配流されました。
親幕派として拘束されていた西園寺公経は幕府によって内大臣に任じられます。これにより、幕府の意向を受けて朝廷を主導する体制が整備されたのです。
天皇継承者の決定権や公卿の人事権は幕府によって掌握され、朝廷は幕府に対し伺いを立てるようになりました。
また、今まで朝廷の所領だった西国の荘園約3000箇所以上は幕府に没収され、幕府側で功績を挙げた御家人達に分配されました。荘園の中には地頭が設置されていない場所も多かったため、新たに地頭を設置し、西国まで幕府の支配を広げることに成功しています。
承久の乱をきっかけとした幕府による朝廷支配は、その後鎌倉幕府が滅亡するまでの約100年間続きました。
承久の乱に関するエピソード
承久の乱にまつわるエピソードは多数ありますが、その中で特に有名な北条政子、義時の逸話についてここでご紹介します。
北条政子の演説
北条政子を代表する逸話である御家人に向けた演説は、承久の乱で行われたものです。
『吾妻鏡』に書かれていた演説内容を簡単に抜粋します。
頼朝様が関東に武士政権を創ってから、あなた方は幸福な生活をおくれるようになりました。すべて頼朝様のお陰で、その恩は山よりも高く海よりも深い。しかし、今その恩を忘れて天皇や上皇をだまし、私達を滅ぼそうとしている者がいます。名を惜しむ者は敵を討ち取り、三代将軍の眠るこの鎌倉の地を守りなさい。
この演説で北条政子は源頼朝への忠誠を御家人に訴えました。源頼朝を尊敬していた御家人達はこの演説に感動し、幕府のため立ち上がったとされています。
後鳥羽上皇の目的は義時の排除でしたが、政子の演説ではその部分は触れず、幕府に敵対するものであるような印象付けを行いました。
北条義時の返書
北条義時は後鳥羽上皇の使者・押松丸(おしまつまる)に北条義時追討の宣旨に対する返書を託しています。
『北条九代記』という史料に残された内容によると、
私はこれまで上皇に忠誠を尽くしてきたのに、罪人とされてしまったのは誠に遺憾です。そのため、私の長男を始めとする190,000人の軍勢をそちらにお送り致します。
それでもお考えを改めて頂けない場合は、私の子らとともに200,000人の軍勢を率いて、私自身が上皇のもとへ参上致します。
と書かれていたようです。
この内容から、朝廷に対しても毅然とした態度で戦いに臨む北条義時の強い意志が窺えます。鎌倉幕府の権力を確固たるものにするため尽力していた、義時の覚悟がうかがえるエピソードです。
承久の乱に関わった重要人物
この項目では承久の乱に関わっていた主要人物たちについて簡単に紹介します。
後鳥羽上皇
後鳥羽上皇は日本の第82代天皇です。上皇として院政を執り行い、軍事力の増強などに努めました。文武両道の帝として知られ、『新古今和歌集』の撰集などの功績を残しているほか、武芸にも通じ狩猟を好む一面もありました。
北条義時
北条義時は初代執権北条時政の息子であり、2代執権として鎌倉幕府の実権を握った人物です。和田合戦の鎮圧、3代将軍の実朝の暗殺や承久の乱といった重大事件の対応を主導し、幕府での権力を確立していきました。
北条政子
北条政子は源頼朝の正室として、頼朝死後も絶大な権力を持っていました。3代将軍・実朝が亡くなった後は、実質の将軍として幕政を主導しています。承久の乱では御家人達に演説を行い、東国の御家人の多くを味方につけました。
北条泰時
北条泰時は義時の息子で、承久の乱の際は政子の命で真っ先に京都に下り制圧するなど大きな活躍を見せました。承久の乱後は時房とともに六波羅探題に就任。義時の死後は3代執権として執権政治の基盤を整備しました。
藤原秀康
藤原秀康は反幕府軍として後鳥羽上皇側についていた武士です。北面武士、西面武士として院に仕えました。有力御家人の三浦胤義(みうら たねよし)を説得して味方に引き入れました。