徳川家光は江戸幕府3代目将軍を担った人物です。私は生まれながらの将軍である」と宣言し、幕府の権力をより強めるために尽力しました。幕府機構の確立、参勤交代による全国大名の統制、鎖国政策をはじめとする外交など、江戸幕府の基礎をつくりあげます。

その一方、おとなしい性格の持ち主だった徳川家光は、幼いころから病弱で晩年も長い闘病生活を過ごしたといわれています。

この記事では徳川家光の死因について解説を行います。徳川家光の晩年の出来事や闘病生活をはじめ、亡くなった後のエピソードまで広く紹介します。

徳川家光の死因は「脳卒中」


徳川家光の死因は「脳卒中」であったとされています。

1651年4月、闘病中だった徳川家光は突然倒れてしまい病状が悪化。48歳で帰らぬ人となりました。

脳卒中で亡くなったことを直接示す史料はありませんが、亡くなる数年前から徳川家光は歩行障害を患っており、頭痛を訴えることも多かったことから、脳卒中により亡くなってしまったのではないかと推察されています。

亡くなる直前は近しい家臣も面会できず、家臣の中では誰も死に目に立ち会うことはなかったようです。ただ一人、4代将軍家綱を支えた大名「保科正之」(ほしなまさゆき)のみ徳川家光が亡くなる直前に面会をしています。その際に直接「家綱のことを頼むぞ」と遺言を託されたようです。

徳川家光は辞世の句として以下の2首を残しています。

鏡にはしらぬ翁のかけ見へてもとの姿はいつち行らん
なけかしなよろこひも又くもらくもつゐにハさむる夢の世中

「鏡には〜……行らん」の句は、かつて若々しく見えた自分の姿が、晩年の闘病でやつれ弱っているところを鏡で確認し、落胆する様子を端的に詠んだものでしょう。
「なけかしな〜……夢の世中」では、喜怒哀楽や夢のようだった人生が醒めてしまう(=終わる)悲しみを詠んだ歌ではないかと考えられます。

徳川家光の晩年

幼い頃から病弱だった徳川家光は、晩年も長きに渡り病に苦しみました。幾度となく大病を患いながらも病を完治させ政務に取り組んでおり、その様は晩年でも変わっていません。徳川家光がいかに幕政を重視していたかがわかります。

この項目では徳川家光が亡くなる数年前の様子について解説します。

寛永の大飢饉の発生

寛永の大飢饉は、徳川家光が亡くなる約10年前に起こった江戸時代最初の飢饉です。慢性的な飢饉が続いていましたが、顕著になったのはおよそ1642年頃からだとされています。寛永の大飢饉に対する対策は十分と言えるものではなく、対応が遅れたことも飢饉が深刻化する原因となりました。

当時徳川家光は長く患っていた病が回復したばかりでしたが、寛永の大飢饉後には若い頃からの持病が再発し、頭痛や高熱、眼病などを理由に大名との面会は中止しています。島原の乱の鎮圧や武家諸法度の再建、鎖国政策など同時期に立て続けに起こっていたため、疲弊していたのかもしれません。家臣への手紙に「近年は病人になってしまい、政治も十分に行えていない」と書いていることからも、この頃から慢性的に病に悩まされていたことがわかります。

亡くなるまで病を患っていた徳川家光

徳川家光は将軍職に就いたあとも幾度となく病気を患っていましたが、少しでも回復すれば政務に復帰していました。亡くなる直前まで儀礼などは欠かさず出席していた様子が当時の史料にも残っています。

表に立てないほど病状が悪化したのは、徳川家光が亡くなる1年ほど前からでした。その頃から今まで欠かさず参加していた行事などは、息子・徳川家綱が代わりに対応するようになります。
体調が一時的に克服するもまた悪化してしまうという状態を繰り返し、亡くなる年にはほとんどの儀礼、行事を家綱が代わって勤めました。

徳川家光の病が重症化していることが京都に伝わると、朝廷では回復祈願のための臨時神楽が行われたり、御三家をはじめとする諸大名が「御機嫌」窺いに連日徳川家光のもとを訪れています。大名の訪問は亡くなる1週間前ごろまで行われていました。

徳川家光の死後

病弱だった徳川家光は、長い闘病期間を経て息を引き取ります。徳川家光が亡くなるとその情報はすぐに公表されました。徳川家光の死は家臣や側室のみならず、宮中にまで大きな影響を与えています。

ここでは徳川家光の死後の周囲の対応や、徳川家光が埋葬された場所について紹介します。

家臣の殉死

徳川家光が亡くなった20日の夜、家光の信寵が篤かった堀田正盛(ほったまさもり)をはじめ、老中であった阿部重次(あべしげつぐ)、徳川家光の側近であった内田正信(うちだまさのぶ)らが殉死をしています。21日には旗本の奥山安重、23日には三枝守恵(さえぐさもりしげ)が後を追いました。

殉死は主君への忠誠の証として、主君の死を追うことです。戦国時代までは主君が戦死、切腹した際のみ殉死していますが、江戸時代に入ると病気などによる自然死が増え、徳川家光のような亡くなり方でも家臣は殉死しています。殉死は強制されることもありましたが、殉死を美徳と捉える風潮があったため自主的に自害する人もいました。

殉死により優秀な家臣を失ってしまうことを危惧した第4代将軍徳川家綱は、殉死の禁止を口頭で伝達しています。

徳川家光の墓は日光輪王寺にある

徳川家光の墓は、日光輪王寺内にある「大猷院廟」(たいゆういんびょう)です。日光東照宮のある方角を向いて建てられています。徳川家光は、亡くなった際は日光東照宮にある慈眼堂の近くに廟所を建て、そこに葬ってほしいと生前から望んでいたといいます。

徳川家光が日光東照宮への埋葬を望んだのは、祖父・徳川家康深く尊敬していたためです。
家康が徳川家光を可愛がっていたエピソードは多数残っています。

家康は、父母から憎まれていた徳川家光の境遇を嘆き、家光を自分の養子にし三代将軍を継がせるという意向を出しています。また、幼い徳川家光が大病を患った際、家康の調薬により治ったというエピソードも。境遇を鑑みると、親以上に良くしてくれていた家康を深く信仰するのは当然の結果かもしれません。

当時質素な造りだった日光東照宮を現在のような華美な姿に改築したのも徳川家光です。
家臣から「そこまで敬愛するのであれば、家康公の廟所近くに(家光の廟所を)建てたらよいのでは」という意見が出ると、徳川家光は家康の徳の高さをあげ、自分がそばで廟所を営むのはおこがましいと答えています。

徳川家光が実施した政策

国内だけでなく外国への対応にも追われていた徳川家光。260年続いた江戸幕府の基盤を固めたのは徳川家光だと言われています。

最後の項目では、徳川家光が生前実施した諸政策を簡単に紹介します。

参勤交代の強化

徳川家光は、江戸幕府の支配を全国に広めるため、大名の支配を徹底しました。そのひとつとして取り組まれたのが、江戸と各大名の持つ領地を1年交代で過ごす「参勤交代」の制度化です。参勤交代は大名の謀反を防ぐ目的がありました。

鎖国政策

徳川家光が鎖国を徹底した理由は主に2つあります。
1つは、日本が他国の植民地になってしまうのを防ぐため。2つ目はキリスト教を徹底して排除するためです。キリスト教の禁止は江戸時代以前から行われていましたが、貿易を足掛かりにキリスト教が入ってきてしまうため鎖国政策を決断しました。

キリシタンの弾圧

キリスト教は神の前では平等という考えを持っているため、主従関係を重視し身分制度を敷いている日本の封建制度とは合っていませんでした。
島原の乱」の発生をきっかけに、以前以上に取り締まりを徹底。ポルトガル人の追放や来航禁止なども進めました。