黒田官兵衛は戦国時代を代表する武将の一人です。

織田信長の時代から豊臣秀吉の重臣として活躍。豊臣秀吉の軍師として知られており、秀吉が天下統一できたのは黒田官兵衛がいたからだと言う学者もいます。

黒田官兵衛は『孫子』の兵法を応用していました。『孫子』には「戦わずに勝つのが一番いい勝ち方」であるといった書き方が見られ、黒田官兵衛はまさしくそれを実践していた一人といっていいでしょう。

この記事では黒田官兵衛の死因について解説しています。
黒田官兵衛は、晩年は病気がちとなり、闘病の末亡くなりました。「梅毒」が死因であるという指摘もありますが、実際の死因は何だったのか、史料をもとに考察します。

黒田官兵衛の死因


黒田官兵衛は1604年3月に享年59歳で亡くなりました。

黒田官兵衛の死因は「病死」だったとされていますが、具体的な病名について書かれた史料は現存していません。ですが、亡くなる数か月前に病気療養のために有馬温泉に逗留していたという記録が残っているため、何らかの病気であったことは確かなようです。

黒田官兵衛は熱心なキリシタンでした。そのため、亡くなる際に自身の「神の子羊」の祈祷文とロザリオを持ってくるよう命じ、それらを胸の上に置いたまま亡くなったとされています。

黒田官兵衛の葬儀はキリスト式のものと仏式の二回行われました。

黒田官兵衛の死因は「梅毒」?

黒田官兵衛の死因は「梅毒」だったと唱える一説もあります。
梅毒だった根拠として、膝が不自由になったのは梅毒の一症状だった可能性や、頭巾を愛用していたのは腫れ物を隠すためだったことが指摘されています。また、亡くなる直前に家臣に辛く当たっていたという精神状態の不安定さも挙げられています。

しかし、これらの指摘はあくまで推察の域を出ず、史料には実際の病名は残されていません

黒田官兵衛が家臣に強く当たっていたのは、家臣が自分の死を引きずらないようあえてひどい態度をとっていると息子にこぼしているため、わざとだったと考えられています。

黒田官兵衛の晩年


ここでは黒田官兵衛の晩年について解説します。

黒田官兵衛は1593年の朝鮮出兵の際、予定より早く帰国したことで豊臣秀吉にひどく怒られたため、自身の行いを反省し出家しています。出家後は「黒田如水」と名乗り、隠居生活に突入しました。家督もすでに息子の黒田長政に譲っていましたが、隠居後も黒田官兵衛は長政をサポートしています。

このまま隠居生活が続くかと思われていた矢先、豊臣秀吉が死去。時代が動くと予想した黒田官兵衛は、最後の賭けに出ようと徳川家康方に味方につきました。その後「関ヶ原の合戦」が始まると黒田官兵衛も参戦しています。

関ヶ原の合戦で黒田官兵衛はどのような立ち振る舞いを見せたのか、そして関ヶ原の合戦後の黒田官兵衛の生活について紹介します。

関ケ原の合戦での活躍

黒田官兵衛が亡くなる約3年ほど前、天下を分ける大きな合戦が行われました。誰もが知る「関ケ原の合戦(関ケ原の戦い)」です。

黒田官兵衛はこの合戦で功績をあげ、黒田家の所領を増やそうとしていました。黒田官兵衛は何千人もの家臣を引き連れ自ら戦地に赴き、九州を南下します。次々と落城させますが、なんと関ヶ原の合戦は1日で決着がついてしまいました。九州一帯を従え徳川家康と一戦交えようと考えていた黒田官兵衛は非常に悔しがっていたようです。

その説を裏付けるのは、息子・長政とのやりとり。長政は徳川家康から直接お礼を賜った話を黒田官兵衛にしました。長政は右手で家康と握手を交わしたと言い、その話を聞いた黒田官兵衛は「お前の左手はなにをしていたのか(なぜ左手で家康を殺さなかったのか)」と叱責しています。黒田官兵衛が抱えていた無念や悔しさが伝わりますね。

関ヶ原の合戦後、長政は家康から論功行賞として筑前一国五十二万石が与えられ、福岡藩藩主に抜擢されました。黒田官兵衛は家康から提案された恩賞を断り、政治から離れ完全に隠居することを決めます
黒田官兵衛はすでに栄えていた博多を城下町に取り入れることを考え、福岡城を築城しました。そこで妻幸円と余生を過ごしています。

病にかかる黒田官兵衛

1603年10月ごろまでは福岡城や太宰府天満宮に構えた草庵で暮らしていましたが、黒田官兵衛はこの頃から病気がちになりました。11月に病気療養のため摂津国有馬温泉に逗留し、逗留後は体調も良くなり伏見の藩邸で過ごしています。

その後伏見で養生を続けていましたが、翌年2月ごろ病状が悪化し、翌月3月に息を引き取りました。

黒田官兵衛は1579年ごろ、謀反を起こした荒木村重により、1年ほど監禁されてしまった過去があります。
1年もの間狭い牢獄での監禁生活だったため、膝は不自由になり、頭髪は禿げ、おでこには大きな腫れ物ができてしまったそうです。
朝鮮出兵の際体を壊し予定より早く引き上げ養生していたという記録もあり、これらの傷が晩年の黒田官兵衛に影響を与えていた可能性も十分考えられるでしょう。

黒田官兵衛が残した遺言

黒田官兵衛の遺言に関する史料はいくつか残っていますが、最も信ぴょう性の高い史料は息子長政に宛てられた『黒田如水教諭』であると考えられています。同史料に残された遺言を、現代語に訳して一部ご紹介します。

一、神の罰より主君の罰を恐れ、主君の罰より家臣の罰を恐れよ。臣下百姓に疎まれれば必ず国を失ってしまうため。
一、国を守護することは大事なことであり、普通の人と同じ心得では成すことはできない。私欲で政治を行わず、行儀作法を乱さず、万民の手本になることを心がけよ。
一、大将になる人は威厳が必要である。わざと身につけた威厳は大きな害をもたらすため、ありのままで恐れられる威厳を身につけよ。

これらは長政に向けて帝王学を伝授しているような内容ですが、同時に家臣への心得も説かれています。黒田官兵衛の人生経験を、教訓として後世に残そうとしていたのでしょう。

黒田官兵衛の最期の言葉

黒田官兵衛は亡くなる際、辞世の句として下記の句を残しました。

思ひおく言の葉なくてついに行 道はまよはじなるにまかせて

大まかな訳としては「思いとして残す言葉がないままついにあの世に行ってしまう。しかし、もう道に迷うことはない。あとはなるがままに任せるだけである」といった意味になります。

死に際し福岡から駆け付けた長政に対し、葬儀は質素に行うこと、家臣の殉死は禁止することを伝えました。

常山紀談』には、黒田官兵衛が亡くなる際に長政に伝えた遺言が残っています。その中には「我は無双の博打の上手なり」と遺したと記されていました。しかしこの史料は創作部分も多く、死の間際にそのようなことを言ったとは考えにくいため、現在は史実ではないと考えられています。

黒田官兵衛の墓は「崇福寺」境内にある


現在、黒田官兵衛の墓は福岡県の崇福寺にあります。

黒田官兵衛の死後、遺骸は京都の大徳寺境内に埋葬されました。その後、息子の黒田長政が官兵衛への追悼の意を込め、大徳寺に龍光院を建立。黒田官兵衛の墓は龍光院の奥庭に取り込まれました。

その後長政は福岡県崇福寺に黒田官兵衛の廟所を築きます。この廟所には長政をはじめ歴代藩主が祀られることになりました。

黒田官兵衛のエピソード


この項目では黒田官兵衛にまつわるエピソードを紹介します。
名言や戦での立ち振る舞いなど、語ればきりがないほどの逸話が残っている黒田官兵衛。
しかし、黒田官兵衛について語られる史料は創作も多く、一概にどのような人だったか判断するのは難しいです。

今回は史実をもとに、黒田官兵衛の人柄や、主君・豊臣秀吉の黒田官兵衛に対する評価を紹介します。

黒田官兵衛の人柄

黒田官兵衛の人柄は家臣想いで自分の信念を曲げない人間だったと考えられています。

家臣に関するエピソードは多数残っています。晩年、家臣の忠誠が息子の長政に向くよう、わざときつく当たっていた話は非常に有名です。黒田官兵衛が家督を継ぎ隠居するまで、家臣を手討ちにしたり死罪を命じたりすることはありませんでした。これらのエピソードから、家臣想いだったことが伝わってきます。

また、戦国時代の武将でありながら正室は一人だけでした。子供に恵まれない期間も側室を取ることはしていません。

豊臣秀吉からの評価

豊臣秀吉は優秀な黒田官兵衛を非常に評価していた一方、黒田官兵衛を恐れていたともされています。

黒田官兵衛を評価していたエピソードとして、朝鮮出兵時の秀吉の対応が有名です。秀吉に何も告げず予定より早く帰国した黒田官兵衛に対して、秀吉は激怒したのみでそれ以上の罰を与えませんでした。普通であれば切腹を命じられてもおかしくないほどの失態で、怒られただけで済んだのは黒田官兵衛の今までの功績を鑑みたからでしょう。

一方豊臣秀吉は「次に天下を取るのは誰か」という質問を受けた際、他の家臣が徳川家康や前田利家の名を挙げる中、秀吉は「黒田官兵衛である」と答えていたそうです。秀吉は、「黒田官兵衛が本気を出せば自分が生きている間に官兵衛が天下を取る可能性すら感じていた」と史料に残されています。