北条義時は鎌倉幕府の二代目執権として、源頼朝亡き後、鎌倉幕府の実権を握った人物です。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は北条義時が主役の作品となっており、小栗旬さんが義時役を務めていました。当時のTwitter(現在のX)では25話連続で世界トレンド1位に入るほどの話題だったため、大河ドラマをきっかけに北条義時を知ったという人もいるのではないでしょうか。
今回の記事では北条義時の死因について解説を行います。『鎌倉殿の13人』では毒を盛られたことにより体調を崩し亡くなりますが、史実上での死因は何だったのか、史料をもとに紹介します。
北条義時の死因
北条義時は1224年の6月に亡くなりました。享年62歳と、当時としては比較的長命でした。死因として最も有力なのは「病死」説です。
以前から患っていた病が重症化したとされています。北条義時の死は突然だったため、人々の心を動揺させました。当時は死因について様々な憶測が立ったため、実は史料によって北条義時の死因に関する記述は異なっているんです。
この項目では、それぞれの史料に残されている死因について解説を行います。
病死説(『吾妻鏡』より)
最も有力な説として挙げられているのは、北条氏が編纂した歴史書『吾妻鏡』に記載されている病死説です。
同史料から、北条義時は以前から「脚気」という病を患っていたことがわかります。脚気とはビタミン不足により心不全や末梢神経障害を起こす病気です。持病に加え、「霍乱」(かくらん)という病も併発してしまったことで北条義時は亡くなってしまいました。
霍乱とは主に夏に激しい下痢や嘔吐を起こしてしまう病で、現代だと急性腸炎に近い症状だと考えられます。一見死に至らしめるような大病ではないように感じられますが、北条義時が亡くなる3ヶ月前に、北条義時の妻・伊賀方の兄弟が同じ病気によって亡くなっています。実際当時は死亡者数も多かったそうで、深刻な病気でした。
また、日ごろ心も病んでいたことがこの史料には記載されています。亡くなる間際、鎌倉周辺は不審火や大地震、猛暑などの天災に見舞われます。こうした背景もあり、北条義時の精神状態はより悪化してしまったのでしょう。当時62歳で持病を患っていた北条義時にとって、この状況が過酷なものであったことは、現代を生きる私たちでも容易に想像できます。
妻による毒殺説(『明月記』より)
北条義時は突然亡くなってしまったため、その死因について、当時はさまざまな噂が立っていました。そのうちのひとつが『明月記』に記された妻・伊賀方による毒殺説です。
『明月記』とは、当時の公家である「藤原定家」(ふじわらのていか)により書かれた日記です。この日記には、京都で幕府への謀反を企んでいたところを捕縛された者が「ただ早く頭を斬れ、そうでなければ、義時の妻が義時に吞ませた薬のように、私にも呑ませて早く殺せ」と口走ったため、人々はその言葉にひどく驚いたということが書き残されていました。
この記述の真偽は定かではありませんが、北条義時の死後、伊賀氏は謀反の疑いで伊豆に配流されほどなく亡くなったという記録も残っているため、完全な否定はできない一説です。
小侍による刺殺説(『保暦間記』より)
南北朝時代に書かれた歴史書『保暦間記』には、なんと北条義時は殺されたとの記載がされています。この史料には北条義時は側近の小侍に突然刺殺されたと残されていました。
しかし、刺殺をほのめかす史料がほかにない点や、先行研究の結果からも、あくまで当時の人々の間での噂に過ぎないでしょう。こういった噂が広まってしまうほど当時の人々は北条義時の死に驚いていたことがわかります。
北条義時「急死」の背景
北条義時が亡くなった1224年6月はとくに暑い日が続いていました。
天候に加え、駿河の富士新宮、駿河国惣社の不審火による焼失や、大量の魚が沖に打ち上げられるといった異常事態、6月1日には大地震が発生するなど、民衆全体が不安に陥る出来事が集中しました。また、大量に打ち上げられた魚は煮詰めて油を採るために人々に買い占められたそうで、周辺では異臭が立ち込めるという劣悪な環境だったそうです。
こうした天変地異や人災は北条義時の心を悩ませたのか、病で倒れた後すぐに重症化してしまい亡くなってしまいます。
北条義時の死後
北条義時の死はあまりに突然だったため、幕府内を大きく揺るがせました。特に問題となったのは後継者決めです。本来であれば北条義時の妻であった伊賀方が中心となり今後の方針を決めるはずでしたが、その思惑は北条政子によって阻止されてしまいます。
ここでは、北条義時の死後に起こった出来事や、どのように後継者が決まっていったのか、時系列に沿って紹介します。
北条義時の妻「伊賀一族」による反乱のうわさ
北条義時の死後伊賀方にある噂が立ちます。それは、伊賀方の兄である「伊賀光宗」(いがみつむね)が三浦義村と結託し、源頼朝の甥である「一条実雅」(いちじょうさねまさ)を将軍にし、伊賀方の息子である「北条政村」(ほうじょうまさむら)を執権に擁立しようとする陰謀があるというものでした。
この陰謀が発覚し、北条政子は直接伊賀光宗のもとに出向き「和平」を求めたとされています。その後多くの御家人が泰時の味方をしたため、伊賀一族は流罪、一条実雅は京都に送還するという処罰が下されました。疑わしき者を迷わず排除する北条政子の強かさがうかがえます。
しかし、この陰謀説の真偽はわかっていません。泰時はこの陰謀について事前調査をした上で否定しています。後室の判断を無視した政子の対応は当時の武家社会では良しとされず、北条氏による統制は一時的に不安定なものとなりました。
北条義時が遺した領地は跡継ぎ・北条泰時、時房によって分配される
伊賀一族の反乱が画策されていた同時期、北条政子は息子であり京都の警護にあたっていた北条泰時、時房に鎌倉に戻るよう伝えます。二人は北条政子によって「軍営の後見」に命じられ、それぞれ武家の管理を行うことになりました。
伊賀一族の処分を終えると、北条義時の遺領(遺した領地)は分配相続が行われました。北条泰時は鎌倉に着くとすぐに配分案を作成し、密かに北条政子に確認を取っていたそうです。
これを見た政子は「泰時の分が大変少ないのはなぜか」と尋ね、泰時は「自分は執権職を継いだ身であり、所領などは望むつもりはない。ただ舎弟などに分与したいと思っている」と答えたといいます。泰時の人柄が垣間見えるエピソードです。
北条義時は「武内宿禰」の生まれ変わり?死後に語られた伝説
北条義時は死後神格化されており、説話集『古今著聞集』の中には「北条義時は武内宿禰(たけのうちのすくね)の後身である」という説話が残されています。武内宿禰とは、古来長きに渡り天皇に大臣として仕えた国のヒーローであり、長命で330年生きた伝説の人物です。
この説話ではある人が見た夢が描かれています。
鶴岡八幡宮に参拝した夜にある人が夢を見ます。夢の中で御殿が開かれると神が「武内」と呼びかけます。すると白髪の老人が現れ、「世の中が乱れようとしている。(北条)時政の子となり世を治めよ」と神から命を受け、老人は「はい」と答えました。目が覚めたある人は、北条義時こそ武内宿禰の生まれ変わりで、尋常ならざる人であったと知った、というお話です。
時代の権力者の正当性を示すために語られる神話ですが、この話が語られたのは北条義時が亡くなって30年も後でした。死後も社会に影響を与えていたことがわかります。
波乱に満ちた北条義時の生涯
北条氏は元々強い権力を持った武士団ではありませんでした。
伊豆で東国の領地を管理する武士として人生を終える可能性もあった義時ですが、「源頼朝」との出会いにより波乱に満ちた人生となりました。
1180年に源頼朝は平氏討伐を掲げ東国で挙兵すると、北条義時は父・時政と兄・宗時とともに従軍します。戦中兄を亡くすこととなりますが、治承・寿永の乱での活躍を大きく評価され、源頼朝の寝所を警固する十一人に選ばれたり、頼朝が上洛する際のわずか7人の従者のひとりに加わるなど徐々に頭角を現します。
源頼朝の死後には次代将軍を支えるために「13人の合議制」が発足。選ばれていた有力御家人達や父・時政との対立なども経て、2代目執権に就任し、地位を確固たるものにしました。
義時は他の御家人たちの意見も柔軟に取り入れていたようで、穏やかな性格だったことが言い伝えられています。