足利尊氏は、室町幕府初代将軍として新たな時代を築いた偉人のひとりです。学校で日本史の勉強をした人で、名前を知らない人はほとんどいないのではないでしょうか。足利尊氏が主役の大河ドラマや足利尊氏をモデルとしたキャラクターが登場する漫画などもあり、今なお人気のある人物です。
一方で、後醍醐天皇を裏切った足利尊氏は「日本三大悪人」とも称されていました。
この記事では足利尊氏の「死因」についてまとめています。足利尊氏の華々しい活躍について知っている人は多いですが、彼がどのように亡くなったのかはあまり語られません。足利尊氏の生涯、晩年についても触れながら、足利尊氏の死について解説します。
足利尊氏の死因
足利尊氏の死因は病死と伝えられています。「癰(よう)」という腫れ物が原因で病にかかってしまいました。
1358年、足利尊氏は京都にある自身の邸宅にて息を引き取ります。享年54歳。医師や僧侶による祈祷で手を尽くしましたが、好転することはありませんでした。当時の状況を残している『愚管記』(ぐかんき)という資料内では、亡くなる一週間前に足利尊氏の腫れ物が確認されています。同資料では「蚊に刺された跡が悪化した」という記載もあり、史料のみで読み解くと蚊に刺されにより亡くなったことになります。
しかし、「癰(よう)」によって命を落とすケースは稀だそうです。足利尊氏は直前まで第一線で戦陣に出ていたほどの人なので、蚊に刺されただけで亡くなったとは考え難いでしょう。そのため、腫れ物が原因で免疫が下がってしまったことで、以前から患っていた持病が悪化してしまったと考える研究もあります。
また、戦いの最中に負った背中の傷を原因とする敗血症により亡くなったという一説も挙げられています。背中の傷から細菌感染が進んでしまい、腫瘍ができ、死に至らしめたという考えです。
南北朝の統一を目指し奔走した足利尊氏でしたが、その願いは叶わずこの世を去りました。
足利尊氏の生涯
足利尊氏は、室町幕府を成立させた歴史的な偉業を成し遂げた人物として知られています。しかし、幕府の立ち上げは決して順風満帆ではなく、幾度もの苦難を乗り越えて築かれたものでした。
この記事では、足利尊氏の生涯や彼が行った重要な出来事を時系列に沿って紹介し、彼がなぜ「日本三大悪人」として数えられることがあるのかも解説します。特に注目すべきは、彼の晩年に焦点を当て、足利尊氏の死因について詳しく掘り下げます。
足利尊氏は、かつて仕えていた鎌倉幕府への反逆や、後醍醐天皇との対立による「裏切り」が強調されることが多い人物です。しかし、なぜ彼は裏切るという決断を下さなければならなかったのか、その背景をも解説します。そして、彼の波乱に満ちた生涯の終わりに、彼の死因がどのように彼の最期に影響を与えたのかを見ていきましょう。
足利尊氏の誕生
足利尊氏は、1305年に鎌倉幕府御家人である足利貞氏の次男として誕生しました。足利家は、当時の権力者であった北条氏に次ぐ高い地位を持つ名門でした。尊氏が元服した際には、執権であった北条高時から「高」の字を賜り、それ以降は足利高氏と名乗るようになります。
1331年、父である足利貞氏が亡くなると、尊氏は兄の早世により家督を継ぎ、足利家当主となりました。この時、尊氏は27歳でした。
鎌倉幕府への反逆
足利尊氏が足利家の当主となったその年、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すために挙兵しました。尊氏は幕府軍の大将としてこの戦いに参戦し、反乱を鎮圧。これにより、彼の幕府内での評価は急速に高まります。
しかし、後に隠岐島へ流された後醍醐天皇が脱出して再び挙兵すると、尊氏は再び幕府側として鎮圧に向かいます。ところが、時勢を見極めた尊氏はこの時点で幕府への忠誠心を失い、反幕府側に寝返る決断をしました。尊氏の反乱によって倒幕の勢いが増し、彼は諸将とともに六波羅探題を攻め滅ぼします。その後、新田義貞らによる反乱も重なり、鎌倉幕府はわずか2週間で滅亡することとなりました。
後醍醐天皇との対立を深めた「中先代の乱」
鎌倉幕府崩壊後に後醍醐天皇によって行われた「建武の新政」は、足利尊氏が思い描いていた理想とは異なった天皇主導の政治でした。足利尊氏をはじめとした武士たちは後醍醐天皇に対し不満を募らせるようになります。
その頃、北条氏残党による「中先代の乱」が勃発。足利尊氏は朝廷の許可を得ないまま鎌倉へ向かい、足利直義と合流して乱を鎮めます。後醍醐天皇は、自身の許可を得ないまま動いた足利尊氏に対し不信感を持つようになりました。
室町幕府の成立
足利家による武家政権を恐れた後醍醐天皇は、新田義貞に足利尊氏討伐の命令を下します。これを受けて足利尊氏は朝敵となることを決意。1336年に討伐軍との戦いを繰り広げました。
京都を制圧した足利尊氏は後醍醐天皇に対し、「光明天皇」(こうみょうてんのう)へ在位を譲ることを条件に和睦を申し出て、後醍醐天皇はこれを受け入れました。
そして、1338年(暦応元年)に足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が成立したのです。
一方、後醍醐天皇は現在の奈良県吉野に独自の政権を展開し、「南朝」を開きました。これ以降、「南朝」と光明天皇側の「北朝」が争う南北朝時代が始まります。
足利尊氏の晩年
足利尊氏は亡くなる直前まで、南北朝統一のため戦いに奔走しました。奈良県吉野で南朝が開かれた2年後に後醍醐天皇が亡くなると、一時的に京都周辺は北朝の傘下になり、政情は安定します。しかし北朝内で足利尊氏の弟・直義派との対立が起き「観応の擾乱」が勃発したことで、再び南朝と北朝の対立は全国的に深まる結果となります。
弟・足利直義との対立「観応の擾乱」
北朝内で主に権力を握っていたのは、足利尊氏と執事の高師直(こうのもろなお)でした。しかし表立った政務は弟・直義が担っていたため、高師直は直義に不満を覚えます。その後高師直はクーデターを起こし、直義は第一線を退かされることとなりました。政務は足利尊氏の嫡男・義詮(よしあきら)が担当することになります。
この結果に対し直義の養子であった直冬(ただふゆ)は反発。九州で兵を挙げました。全国的に戦況が広がる中、足利尊氏は直義と和平を結び、直義の優勢で一旦は終息します。
しかし、その後も兄弟間の亀裂は埋まることなく、足利尊氏は直義を討伐するため京都で作戦を仕掛けます。また、敵対していた南朝と手を組んで直義を追い込み、現在の静岡県で足利直義軍を撃破しました。1352年、足利直義は幽閉され間も無く急死してしまいます。直義の死をもって観応の擾乱は幕を閉じました。
足利尊氏の最期
足利尊氏が京を不在にしている間に南朝との和睦は壊れ、足利尊氏は襲撃を受けます。その後南朝と北朝の武力衝突は続き、一時的に足利尊氏が将軍職を解任される事態も発生しますが、義詮の活躍もあり一時的に京都の奪還に成功しています。
しかしその後も南北朝が統一されることはなく、九州では後醍醐天皇の息子であった懐良親王(かねよししんのう)を中心に勢力をあげていました。尊氏は自ら討伐を行なうために九州遠征を企てますが、この後体調を悪くし亡くなってしまいます。
足利尊氏の死後
南北朝の統一を果たせないまま亡くなった足利尊氏ですが、その後足利尊氏の遺志は下の世代の人々に受け継がれることになります。
南北朝統一の課題は足利義詮・足利義満が引き継ぐ
足利尊氏の死後、政府を担ったのは嫡男・義詮でした。南朝との争いが落ち着いておらず、幕府内は不安定な状態でしたが、義詮は西国の有力御家人を幕府側の味方につけるなど、地方の基盤を安定させていきました。
義詮が亡くなる直前、南北朝統一目前まで差し掛かっていましたが、南朝からの文書には「足利義詮の降参」という文字が入っていたため、義詮は拒否しています。
義詮の死後に政権を担ったのは、足利尊氏の孫・義満でした。義満はわずか11歳で将軍職に就き、細川頼之の力を借りて政権を支えました。その後義満は南朝への和平交渉に努め、南北朝の統一を果たします。
足利尊氏はどんな人?「メンヘラ」と言われている理由
インターネットで足利尊氏を検索をすると関連ワードとして「メンヘラ」と出てきます。実際の性格はどうだったのか紹介します。
まず、足利尊氏と親交が深かった禅僧「夢窓疎石」(むそうそせき)は以下のように語っています。
第一に、心が強く、戦の際にも恐れる気持ちがない。
第二に、慈悲深く、人を憎まず寛容。
第三に、心が広く、物を惜しむことがない。
一方で行動に矛盾があり、マイナス思考の持ち主だった一面も。
足利尊氏は後醍醐天皇に対し不満を抱えていましたが、実際後醍醐天皇との武力衝突が発生すると寺に引きこもり争いを回避しようとします。
また、観応の擾乱の最中、弟・直義と和平を結ぶ際、足利尊氏の邸宅に赴いた直義の家臣とは「降参した身で対面することは恐れ多いことであるため」顔を合わせなかったそうです。足利尊氏の発言は自身を卑下しているものだとわかります。
これが足利尊氏がメンヘラと揶揄される理由でしょう。