斎藤道三は、美濃国(現在の岐阜県南部)を制覇した武士として有名です。
他人を巧みに欺く技術や、主君の謀殺や乗っ取りなどの能力に長けていたことから、「美濃のマムシ」として人々から恐れられました。
マムシは親の腹を食い破って生まれるという迷信があるため、それに例えたとされています。
そういった異名を持つ斎藤道三ですが、皮肉にも息子、斎藤義龍に討たれて死亡してしまいました。
斎藤道三はは一体どんな人物だったのか、彼を打ち取った息子との関係はどのようなものだったのでしょうか。
斎藤道三が息子に討たれるまでの経緯に加えて、斎藤道三と深い関わりを持っていた織田信長との関係について詳しく解説していきます。
斎藤道三の死因
結論から言うと、斎藤道三の死因は息子の斎藤義龍に長良川の戦いにより討たれたためです。
斎藤道三と斎藤義龍は、家督争いをする頃、次第に関係が悪化していきました。
1554年(天文23年)、斎藤道三は家督を長男である斎藤義龍に譲り隠居生活に入りますが、実権を渡したくなかったようです。
加えて斎藤道三は、側室との間に生まれた斎藤義龍より、正妻との間に生まれた「四郎」や「喜平次」を寵愛し、斎藤義龍には実権を握らせずに排除しようと考え始めたのです。
斎藤道三からの冷酷な扱いを受けた斎藤義龍は、次第に父の斎藤道三を恨み始め、動き出すことに決めました。
斎藤道三が息子に討たれた長良川の戦い
斎藤義龍は、このままでは自分の命が危ないと判断し、斎藤道三を討ち取ることに決めました。
斎藤義竜はまず、自分が病気だと偽り四郎と喜平次をおびき寄せ、酒を振舞って油断させます。油断しきった二人は、斎藤義竜の家臣により殺害されてしまいました。
この事件は斎藤義龍の使者によって斎藤道三にも伝えられました。身の危険を感じた斎藤道三は、居城を去るとともに城下を焼き払って長良川の先まで逃れます。
このような経緯を経て、1556年(弘治2年)、息子の斎藤義龍と父の斎藤道三による「長良川の戦い」が起こります。斎藤義龍側は1万7,500の兵を集めますが、斎藤道三側が集められた兵はわずか2,700でした。
斎藤道三は同盟を組んでいる相手でもあり、娘婿の織田信長にも支援を求めますが、それでも兵の数は斎藤義龍の兵には到底敵いません。
人数面での圧倒的不利な状態に陥った斎藤道三側は、長良川を渡り本陣へなだれ込む斎藤義龍側になんの太刀打ちもできませんでした。
斎藤道三の本陣を攻めた斎藤義龍側の長井道勝は、まず斎藤道三を生け捕りにしようとします。
しかし、乱世における功績を求めた別の家臣によって首を取られました。
斎藤道三を討った息子、斎藤義龍との関係
斎藤道三と斎藤義竜は何故ここまで関係が悪化していたのでしょうか。
斎藤義竜は、ある疑惑をかけられていました。
斎藤義龍の母「深芳野」は、道三の側室でしたが、元々美濃国の別の国主「土岐頼芸」の側室でした。
斎藤道三はその国主の妻であった「深芳野」を貰い下げますが、その直後に懐妊したとされており、前夫の子で斎藤道三との子ではないのではという疑惑があったのです。
「四郎」や「喜平次」は確実に斎藤道三の子であって、そちらに家督を継がせたいという思いが強まっていったとされます。
やがて非道な扱いをされ続けた斎藤義龍は「本当の父親は土岐頼芸であり、敵であるのは斎藤道三なのではないか」と考えるようになりました。
加えて、斎藤道三の独断的な政治に不満を抱いていた有力者は多く、斎藤義龍を立てることで斎藤道三の独裁政治が終わるのではないかと期待していた人物も多かったようです。
周囲からの悪評も含めて斎藤道三の思い通りにはいかず、斎藤義龍側の勝利に終わりました。
斎藤道三の死が与えた影響
斎藤道三が亡くなった後、織田信長が大きく関わってきます。
織田信長は斎藤道三の娘婿にあたりますが、二人は良好な関係を築いていたようです。
証拠として斎藤道三は織田信長宛に遺言書「美濃国譲り状」を遺しました。その内容はどういったものだったのでしょうか。
斎藤道三が織田信長に残した「美濃国譲り状」
「美濃国譲り状」は、斎藤道三が織田信長へと宛てたとされる遺言状ですが、現存はしていません。
現存しているのは斎藤道三の11歳になる末子である「勘九郎」への遺言状で、その内容から間接的に知ることができます。
斎藤道三は遺言状を織田信長宛に送ったあと、すぐに勘九郎へと遺言状を送っており、その遺言状から分かる「美濃国譲り状」の内容の一部は以下になります。
「わざと申し送り候意趣は、美濃国の地、終に織田上総介の存分に任すべきの条、譲状」
現代語に訳すると、「この書状をあえて送ったのは、自分の死後に美濃の国を織田信長に任せる譲り状であるからだ。同じ内容の書状を既に信長へと送ってある」となります。
この遺言状は1556年(弘治2年)の4/19日、斎藤道三が長良川の戦いで敗れる一日前に書かれたものでした。
斎藤道三と織田信長の関係
斎藤道三は生前の1548年(天文17年)、娘の「帰蝶」を織田信秀の嫡子に嫁がせました。帰蝶を嫁がせることにより、好戦的な織田家との和解が成立したとされています。斎藤家は織田家と争いを続ける余裕はなく、美濃を平定することが第一優先でした。
一方織田家も駿河の今川義元との戦いが激化しており、その状況下で美濃の斎藤家と争い続けることは得策ではないと判断します。
斎藤家と織田家はお互いの利害が一致したため、婚姻同盟が成立しました。
斎藤道三の死により織田信長の外交が破綻
斎藤道三が亡くなってすぐ、織田家を討ち取ろうと時期を伺っていた岩倉織田家が挙兵します。
岩倉織田家は斎藤義龍と手を組んでおり、織田信長が居城としていた清州城に、織田信長が留守の隙を見計らって城下に放火しました。
信長の兄である織田信広も斎藤義龍と手を組み、織田信長に対して謀叛を起こします。その状況に応じて、織田家筆頭家老・林秀貞と織田家の名将軍・柴田勝家が、信長の弟である勘十郎信勝の元で挙兵しました。
同盟国である美濃の斎藤道三の存在により息をひそめていた信長に反対する者達が、斎藤道三死後に一気に動き出すことになり、織田信長の外交は完膚なきまでに破綻してしまいます。
斎藤道三の出自
「美濃のマムシ」と呼ばれ恐れられていた斎藤道三ですが、どういった出自なのでしょうか。斎藤道三は元々僧侶、その後油商人になり、戦とは縁遠い人物でした。
斎藤道三が武士となるまでの一連の流れを説明していきます。
11歳の時に京都の「妙覚寺」(現在の京都府京都市上京区)へ入り、「法蓮房」の名をもらったのち、僧侶となります。
その後20歳の時に還俗(出家した者が俗人へと戻ること)し、油問屋の「奈良屋又兵衛」の娘と結婚し、油商人として働くようになりました。
油職人として商売繁栄させるための口上は「漏斗を使わず、なんと油をこの一文銭の穴に通します。こぼれたらお代は一切頂きません」でした。
それを見た武士が「その情熱を武芸へと生かせば素晴らしい武士になれるものを」と言われたことで斎藤道三は一発奮起し、武士を目指すことになります。
斎藤道三の有名なエピソード
斎藤道三は何度も名前を変えている?
「斎藤道三」としての名前が現在でも知られていますが、斎藤道三は何度も名前を変えていたようです。
「道三」を名乗るようになったのは、隠居するために寺に入ってからのことでした。
道三は法号(信徒に送られる門徒である証となる名前)であって、最終的には「斎藤利政」という名に落ち着いたとされています。
武将となってからも数回名前を変えており、長井長弘から長井家臣の家名をもらい「西村正利」と改名して武士としての肩書を手に入れました。
しかし、斎藤道三は長井長弘を証拠のない嫌疑をかけて殺害し、長井姓をもらって「長井規秀」と名乗り始めました。
そして美濃国の有力者である守護代・斎藤利良が亡くなると、斎藤姓をもらって斎藤利政と名前を変えます。
斎藤道三は下剋上の過程で、様々な姓を名乗ることで地位を高めていったようです。
斎藤道三はひとりではなかった?
一代で美濃を制覇した斎藤道三は下剋上の象徴と言われていますが、実は一人の手柄ではなかったという説があります。
一説では、斎藤道三の父である「長井新左衛門尉」による功績も含まれているのではないかとされているのです。
これが明らかになったのは、近江国(現在の滋賀県)の守護大名が家臣に宛てた「六角承禎条書」という文書の内容を根拠としています。
寺から出家して油売りとなり、長井長弘の家臣であったところまでは、父の長井新左衛門尉の史実であったという説があるのです。
この説によると、長井長弘の死亡以降、斎藤道三の活躍が始まったということになります。
美濃の支配が二代で行われた説が有力であるとするならば、斎藤道三は元々武士として生まれていたことになるのです。
斎藤道三が遺した名言
斎藤道三はいつも最良の好機を窺い、攻めるべき機会を絶対に逃さずに成り上がってきました。
時代の流れを的確に読む才能に長けていたのかもしれません。
そんな斎藤道三が遺している名言を二つ紹介していきます。
- 「山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべきこと、案の内にて候」
斎藤三蔵は「うつけ」と呼ばれた織田信長に一度会ってみたいと感じ、美濃と尾張の国境にあった「聖徳寺」で顔を合わせます。
斎藤道三が覗き見した普段の織田信長は、着物を着崩し、無造作な髪をしていてまさに「うつけ」でした。
しかし、正式に合う場面での織田信長の正装は見事であり、あえてうつけを演じている頭の切れる人物だと見抜きます。
その際に生まれたのがこの名言です。
- 「捨ててだに この世のほかは なきものを いづくか終(つい)の 住み家なりけん」
これは斎藤道三の辞世の句になります。
美濃国を手に入れた斎藤道三ですが、息子に討たれるという悲しい最期を迎えました。波乱万丈な人生を送った斎藤道三がどういった想いで書いたものなのかわかりませんが、「終の住み家」が見つからなかったという意味にも取れます。
美濃を支配し、権力者となっても、斎藤道三は幸せではなかったのではないかという疑問を感じさせるような一句です。