鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した新田義貞は、鎌倉幕府を倒したことで有名な人物です。鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇に仕えるとともに、天皇に反逆した足利尊氏とも争っています。

新田義貞の死因は、戦いの多い激動の生涯にふさわしく戦場での死亡でした。彼がどのような最期を迎えたのかを知れば、義貞の人となりに触れられます。新田義貞の死因について徹底的に見ていきましょう。

新田義貞の死因は北朝軍との戦いでの戦死!

新田義貞は鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した武将です。鎌倉幕府を滅亡させるとともに、南北朝の動乱では一貫して後醍醐天皇率いる南朝方の重要人物として、足利尊氏らが擁立する北朝と戦い続けました。

一方で義貞の死因も、北朝との戦いの中で討ち死にを遂げたというものです。彼がいかにして壮絶な最期を遂げたのかについて、経緯を見ていきましょう。

楠木正成と並ぶ南朝の重鎮・新田義貞

新田義貞は上野(現在の群馬県)出身の武将で、足利尊氏とともに源氏の血を引く人物でした。鎌倉時代末期、後醍醐天皇は執権北条氏への不満が高まったのを機に倒幕運動を起こし、義貞も兵を率いて鎌倉を攻略します。

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政を始めたものの、まもなく足利尊氏が天皇に対して反旗を翻しました。義貞は天皇の命で楠木正成や北畠顕家らとともに尊氏と争うようになり、箱根・竹の下戦いや湊川の戦いなどで転戦します。

北陸で足利尊氏に抵抗

義貞は各地で尊氏と戦ったものの、湊川の戦いで敗北を喫した上に、主君である後醍醐天皇は義貞に内緒で尊氏と和平交渉を進めていました。そこで義貞は天皇に願い出て、2人の皇子である恒良親王・尊良親王を奉じて北陸に下りたい旨を伝えます。

天皇から了承を得た義貞は、1336年10月に2人の皇子や弟の脇屋義助らとともに越前に向かいました。途中猛吹雪に遭ったものの、何とか敦賀に入った義貞は金ヶ崎城を新たな拠点とします。

足利軍も1337年1月に大軍で金ヶ崎城を包囲したため、金ヶ崎城を舞台に籠城戦が始まりました。当初は義貞が優勢だったものの、包囲戦の中で兵糧が少なくなっていきます。結局3月に義貞は城を脱出し、北東の杣山(そまやま)城に逃れました。

越前藤島城攻めの最中に受けた流れ矢が死因に

義貞が杣山城に移った後、8月に北畠顕家が破竹の勢いで東北から近畿に進軍してきます。義貞も顕家の動きに呼応し、一時は越前国府(現在の越前市)を攻め落としました。しかし期待していた顕家の軍は美濃から伊勢方面に向かったため、結局2人の連携は実現せずに終わります。

なおも越前で戦い続けた義貞は、1338年閏7月に足利方の藤島城(現在の福井市)を攻撃中の味方を援護するため、わずか50騎で出撃しました。しかし途中の灯明寺畷で足利軍と遭遇、敵軍の矢で落馬します。義貞は体勢を立て直そうと立ち上がったものの、眉間に流れ矢を受けました。最期を悟った義貞はその場で首を切って自害します。

楠木正成や北畠顕家とともに南朝の有力武将だった義貞は、死後南朝から評価されて正二位・大納言を贈与されました。さらに明治時代の1882年には、南朝に尽くした忠臣や英雄として再評価され、正一位も贈られています。

新田義貞の死亡地・お墓・祀られている神社

新田義貞は南北朝時代を代表する武将の1人であるため、彼の事績をたどれる場所は国内各地にあります。同時に義貞が死亡した場所や現在御祭神として祀られている神社もあるため、彼の生きざまに少しでも触れるにはおすすめの場所です。

義貞の死亡地やゆかりのある寺社仏閣には以下の場所が挙げられます。

死亡した場所は福井県福井市新田塚町

まず新田義貞が死亡した灯明寺畷は、現在の福井県福井市新田塚町と考えられます。現地には「灯明寺畷新田義貞戦没伝説地」と呼ばれる史跡もあり、江戸時代の1656年に地元の農民である嘉兵衛が新田義貞のものとされる兜を発見したことが由来です。

兜が発見されて4年後の1660年、福井藩4代藩主松平光通が新田義貞の死亡地を示す石碑を建てたことから、一帯は「新田塚」と呼ばれるようになりました。なお明治時代には付近に義貞を祀るお堂が建てられ、後に藤島神社となっています。

現在新田塚周辺は住宅地ですが、義貞が亡くなった地を示す石碑は今もなお建っている状態です。合わせて石碑の横には小さなお堂も建てられています。

お墓は福井県坂井市の称念寺

続いて新田義貞のお墓があるのは、福井県坂井市丸岡町の称念寺です。生前の義貞は称念寺の住職と深い親交関係を築いていました。

義貞が灯明寺畷で死亡した際、称念寺の住職は彼の遺体を引き取り、境内にお墓を建てて葬ります。以来称念寺は義貞の菩提寺となり、現在でも境内北側にある義貞の墓所は称念寺最大の見どころです。

ちなみに称念寺は戦国武将明智光秀にゆかりのある寺院として知られています。光秀が織田信長に仕える前の浪人時代に、門前で生活しつつ寺子屋を開いていたためです。光秀は10年にわたって称念寺の門前に住み続けたとされ、後に近江坂本城主になった際も称念寺の僧を城下に招待しました。

新田義貞が祀られている神社

新田義貞が祀られている神社として、福井県福井市の藤島神社が知られています。当初は彼が死亡した灯明寺畷付近にあり、明治時代に彼の南朝に対する忠誠心をたたえ、祀るために建てられたお堂が起源です。

藤島神社は1959年に、同じ福井市内の足羽山の中腹に移され現在に至っています。ちなみに藤島神社は義貞以外にも、彼の弟・脇屋義助や義貞の子である義顕(よしあき)・義興・義宗も祀られている場所です。

なお藤島神社は、新田義貞が御祭神であるため、南朝にゆかりのある皇族や武将を祀った建武中興十五社の1つにも数えられています。ほかには奈良県吉野町の吉野神宮や、神戸市の湊川神社なども有名です。

新田義貞死後の彼の遺品はどこへ?

新田義貞の遺品として、江戸時代に発見された兜のほかに刀もあります。兜は江戸時代に地元の百姓が見つけた後、福井藩主松平光通に献上されました。献上された兜は藩の軍法師範である井原番右衛門が鑑定を行い、義貞の兜と認定されます。

認定後は福井藩松平家が保管していましたが、明治維新後に藤島神社に奉納されました。1950年には国の重要文化財にも指定されています。

また義貞の遺品として、鬼丸国綱も有名です。鬼丸国綱は源氏に伝えられた刀で、「天下五剣」の1つにも選ばれています。義貞の死後は彼を討った越前守護斯波高経が入手し、さらに彼の子孫で出羽に勢力を広げた最上氏に伝えられました。

新田義貞の死後に子孫はどうなった?

新田義貞は1338年に38歳で戦死を遂げましたが、彼の弟・脇屋義助や義貞の子たちは北朝(足利軍)相手に戦い続けます。

脇屋義助は兄の死後、残った新田軍を糾合して越前から撤退しました。1342年には後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇の命で四国に転戦しますが、伊予で病を得て世を去りました。

義貞の長男・義顕も北陸の金ヶ崎城で父とともに戦いましたが、父が城を脱出した後に20歳の若さで自害しています。次男の義興は父や兄が北陸で奮戦していた頃、畿内に向かう北畠顕家に従軍していました。顕家が戦死した後は関東各地で奮戦したものの、1358年に足利尊氏の四男で初代鎌倉公方の基氏(もとうじ)にだまし討ちされます。

義貞の三男・義宗は父や他の兄たちの死後も北朝に抵抗し、1368年に越後で挙兵しました。しかし上野で北朝軍に敗れて戦死します。義宗の息子のうち長男の貞方は、1392年に南北朝合一が成った後も南朝の残党として活動しました。しかし活動が露見したため、息子の貞邦(さだくに)とともに処刑されます。

新田義貞は何をした人?

新田義貞は南北朝時代に活躍した武将です。鎌倉時代末期に鎌倉幕府を倒すために立ち上がった後醍醐天皇に呼応して挙兵、1333年5月には鎌倉を陥落させます。

鎌倉陥落後は建武の新政で後醍醐天皇を支えますが、間もなく足利尊氏と対立しました。やがて天皇に反旗を翻した尊氏を討伐することになったものの、各地で敗れ続けます。

尊氏が北朝の天皇を擁して政権を握った後は北陸で北朝軍と戦い続けました。しかし1338年に越前の灯明寺畷で敵と交戦中に矢を受け、そのまま自害しまいます。