織田信長の家臣で、豊臣秀吉の盟友として有名な前田利家。
また、加賀百万石を築いた加賀前田家の祖として、広く知られています。

しかし、前田利家がどのような人生を送り、加賀前田家を築いていったかは詳しく知っている方は少ないでしょう

信長の小姓・家臣時代から、本能寺の変後の柴田勝家と豊臣秀吉の争いに巻き込まれた時代、そして豊臣政権を支える立場となった時代を追っていきます。

また前田利家のエピソードでは、傾奇者「槍の又左」、前田慶次との関係、正室まつとの結婚、森可成と利家の話を解説します。

では、前田利家の生涯について見ていきましょう。

前田利家|生涯年表

西暦 年齢 出来事
1537年 1歳 尾張国・荒子村に、荒子城主・前田利春(まえだとしはる)の四男として生まれる。幼名・犬千代。
1551年 15歳 織田信長に小姓として仕える。
1552年 16歳 萱津の戦いで初陣。
1558年 22歳 従妹で、12歳の「まつ」と結婚。
1559年 23歳 同朋衆の拾阿弥を斬殺。織田信長の不興を買い出奔。
1560年 24歳 桶狭間の戦いに、織田勢として無断で参加。
1561年 25歳 森部の戦いにも無断参戦。帰参を許可される。
1569年 33歳 再び織田家の家臣として仕える。織田信長の命で家督を継いで前田家の当主となる。荒子城主として前田家の領地一帯を治める。
1570年 34歳 金ヶ崎の戦い。姉川の戦いでは、浅井配下の浅井助七郎を討ち取る。
1575年 39歳 越前の一向一揆を平定。佐々成政、不破光治と共に「府中三人衆」のひとりとして越前国を治める。
1575年 39歳 柴田勝家の与力となり、北陸地方の領土を拡大。
1581年 45歳 織田信長より能登国23万石を賜り大名となる。七尾城から小丸山城に居城を移す。
1582年 46歳 本能寺の変。「清洲会議」において柴田勝家と、豊臣秀吉が対立を深める。柴田勝家側に付く。
1583年 47歳 賤ヶ岳の戦い。柴田勝家側として参戦、しかし豊臣秀吉側の誘いに乗り合戦中に自軍を撤退する。柴田は敗走、その後北ノ庄城にて自刃。その後、加賀2郡の領地を加増。本拠地を小丸山城から尾山城に移す。
1584年 48歳 豊臣秀吉軍と、徳川家康・織田信雄連合軍が対立し、小牧・長久手の戦いが勃発する。佐々成政が能登・加賀の前田領に侵攻。「末森城の戦い」で成政を撃退。
1585年 49歳 上杉景勝の協力を得て、佐々成政の領地に進出。豊臣秀吉が100
1598年 62歳 前田利長に家督を譲る。
1599年 63歳 3月、大坂の自邸にて病没。

前田利家|人生の危機

信長のお気に入りを斬り、出仕停止

利家は、15歳から織田信長に小姓として仕えていました。
この頃の利家はいわゆる「傾奇者」で短気で喧嘩ばかりしていました。
まつとの結婚後すぐの事です。
信長の寵愛する「拾阿弥」という同朋衆がいました。拾阿弥はまつからもらった「笄(こうがい)髪飾りの一種」を盗み、さらに利家に侮辱的な態度を幾度もしました。
勘弁ならぬ利家は、信長の面前で拾阿弥を斬り殺しました。

そのため、成敗されるところでしたが、柴田勝家や森可成のとりなしがあり、出仕停止となりました。

この時まつは身重であり、浪人暮らしで生活は苦しかったようです。

賤ケ岳の戦いで、勝家につくか秀吉につくか?

本能寺の変後、明智光秀を倒し勢いに乗る豊臣秀吉と、信長家臣団第一の家老柴田勝家が賤ケ岳で争います。

拾阿弥を斬った時にとりなしてくれ、何かと恩のある勝家と幼少のころより仲の良い秀吉の間で利家は苦悩します。

賤ケ岳の戦いでは柴田軍に属しますが、合戦が始まると戦線離脱します。これにより秀吉が勝利しました。

利家は、北ノ庄に落ち延びる柴田勝家に湯漬けを差し出し、勝家は利家に対しこれまでねぎらいの言葉を掛けたそうです。

利家は秀吉に降伏し、北ノ庄城攻めでは先鋒を任されました。

この後、利家は所領安堵の上加賀国を加増され、加賀百万石の歴史が始まりました。

末森城の戦い|かつての盟友佐々成政との直接対決

佐々成政は利家とかつての同僚、どちらも母衣衆のトップでお互いライバルです。
この二人が末森城で激突したのが、末森城の戦いです。

賤ケ岳の戦いの後、豊臣秀吉は徳川家康と戦います。この戦いを小牧・長久手の戦いといいます。

北陸の地では、家康に呼応した佐々成政が15,000の兵で、利家の所領である能登国・加賀国を攻めました。

この時、利家が動かせる兵が2,500で圧倒的に不利です。

包囲された末森城の救助になかなか行かない利家に対し、まつは利家を叱咤します

激怒した利家はその後息子の利長と合流、地元農民の案内で成政の陣の手薄なところを背後から突き、成政を撤退させました。

その後、秀吉の援軍も到着し、成政は秀吉に降伏しました。

前田利家|「槍の又左」のエピソード

「傾奇者」エピソード

利家は幼名犬千代と言い、短気でけんかっ早い性格でした。

また、派手な格好を好む「傾奇者」でした。今でいう「ヤンキー」に当てはまります。

身長が182㎝と大きく、「槍の又左衛門」と言われる程の槍の名手でした。

そして、その持っている槍は通常の2倍の長さで朱色の槍でかなり目立っていました。

このように目立つことを好む性格で、当時「うつけもの」と言われた信長とも相性が良かったのでしょう。

才女「まつ」との結婚

利家とまつが結婚したのは、利家22歳、まつ12歳の時です。

篠原一計の娘であり、学問や武芸に通じている女性でした。

また、豊臣秀吉の正室ねねと大変親しい間柄でした。

利家とまつが結婚してすぐに、利家は「拾阿弥」を斬って、出仕停止という家庭の危機に直面します。

しかし、二人は力を合わせて、時には利家を叱咤激励し困難を乗り越えます。

こうして円満な家庭を築き、11人の子だくさんとなりました

娘のうち、五女の豪姫は子供のいなかった豊臣秀吉の養女となり、そして宇喜多秀家の嫁ぎました。

豊臣政権で、豊臣秀頼が誕生した際、利家は傅役に任ぜられ、まつは乳母となります。
この事で利家はもちろん、まつの地位も上がりました。

秀吉が死去し、まもなく利家も死去します。
その後、徳川家康は利家の子利長に謀反の嫌疑をかけてきました。

まつは、いきり立つ利長をなだめて、その嫌疑を晴らすため自ら人質として家康のいる江戸に向かうのです。

このように、まつは時として優柔不断な夫を叱り飛ばし、子とお家の為に自ら人質として身を投げ出す豪胆な女性でした。

前田慶次との関係

花の慶次」の影響で、慶次の方が年下のように描かれていますが、実際には慶次が年上になります。

利家の生まれは1539年に対し、前田慶次(利益)は1533年です。

前田慶次は、利家の兄利久の養子でした。

本来なら、前田家の家督は利久が継ぐのですが、織田信長から利家が家督を継ぐように命令されます。

この時、慶次は居城である荒子城を利久と共に去っていきました。

しかし利家が能登の大名になった時に、利久・慶次を呼び寄せ親子に7千石を与えています。

末森城の戦いでは救援に向かい、その後越中国阿尾城の城代となり佐々成政の軍勢と戦いました。

しかし、利久が死去して間もなく、妻子を残して加賀国を去りました。

理由は定かではありませんが、一説では利家と不仲であったと言われています。
後世に伝えられる「水風呂馳走事件」は、創作と言われています。

ちなみに、慶次の子前田正虎は、加賀藩に残り前田家に仕えていました。

大好きな先輩、森可成とのエピソード

利家は柴田勝家を親父と呼び慕っています。しかし、一般的に知られていないのですが、もう一人慕っている大先輩がいました。

それが、「森可成」です。

森可成といっても、ピンとこない方も多いでしょうが、森蘭丸のお父さんと言えば分かるかと思います。

織田信長の家臣の中でも古株で、もし宇佐山城の戦いで戦死しなければ、明智光秀・豊臣秀吉を抑えて第一の家臣だったと言われています。

槍の名手であり「攻めの三左」と言われていました。
利家との仲は非常に良く、戦の心得などを教えてもらったことを、後の利家は語っています。

利家が拾阿弥を斬った際、信長を説き伏せて切腹から出仕停止に収めたことや、その後ちょくちょく利家を訪ねて慰めた逸話があります。

利家夜話」という書物には、森可成の話が多く収録されているあたり、本当に好きだったんだと実感させられますね。

みんなに慕われる利家

豊臣政権下では、秀吉の連絡役という役割もあり、徳川家康よりも人望が高かったようです

例を挙げれば、上杉景勝には上洛の際に城に迎えており、伊達政宗は小田原征伐の際は秀吉面会の前に会って話を聞いています。
高山右近はキリシタン禁止令で大名から浪人生活となった時に、客将として迎えられました。

秀吉の盟友ということもあり、秀吉子飼いの武将である福山正則、加藤清正、細川忠興、浅野幸長、石田三成、、蒲生氏郷、宇喜多秀家、浅野長政、毛利秀頼にも慕われていました。

面倒見が良く、経済的に困窮している大名にはお金を貸して、遺言では借金の催促はするなと残しています。

若い頃はけんかっ早い性格でしたが、歳をとると温和な性格になる典型的な例ですね。

老いても利家、家康との最後の面会

秀吉が死去した時は、利家も病に侵されていました。

秀吉の遺言を次々と無視して各大名との婚姻をする家康と、他の四大名・五奉行と不穏な関係となります。この時は一旦誓詞を交わし和解となります。

ほどなくして、利家は病床に着き家康が見舞いに来ました。
この時、利家の布団の中には抜き身の刀が隠されており、あわよくば差し違える覚悟で面会しました。

老いても利家、若き日の傾奇者の心意気は臨終の際にも、決して消えてはいなかったようです。

前田利家の人生に深く関わった人物

織田信長

前田利家の人生に大きく影響を与えた人物では、信長の右に出る者はいないでしょう。

幼い頃より小姓として仕え、信長の戦術を間近で見て戦い方を学びました。
利家の戦い方は、「戦は敵の領地で行うものだ。」と後に語ったと言われており、この戦い方はまさに信長の戦い方です。

信長は、利家を前田家の家督を継がせたり、赤母衣衆のトップに抜擢したり、大変可愛がっていました。

豊臣秀吉

利家と秀吉は、若い時から「犬」「猿」と呼び合うほど、仲が良かったと言われています。

秀吉の足軽時代から家が隣同士で、早くから家族ぐるみの付き合いでした。
子のいなかった秀吉夫婦に五女豪姫を託すなど信頼関係も強いものでした。

関係がより強くなったのは、賤ケ岳の戦い後からです。

秀吉に意見を言える数少ない人物の一人で、秀吉にとりなしてもらいたい時は、利家を通じて行うことが多くありました。

とは言え、小田原征伐の際にはちょっとした喧嘩をしたようで、利家のやり方が手ぬるいと叱咤したと伝わっています。

晩年、秀吉は秀頼を託す旨を臨終の際に利家に言っていますが、残念ながら利家もその後すぐ死去してしまいました。

柴田勝家

柴田勝家は、利家の若い頃から面倒を見ており、利家からは「親父殿」と呼ばれていました。

森可成と柴田勝家、利家の三人でのエピソードも多く語られています。

利家は勝家に対し、笄(こうがい)斬りの際に信長に取り成して成敗を免れた恩がありました。
また、浪人時代にはよく顔を見せ、利家を励ましていまします。

利家は、信長に許され家臣に戻ると、北陸方面部隊の大将の勝家の与力になりました。

賤ケ岳の戦いでは、戦線離脱した利家に府中城まで会いに行きますが、勝家は利家を一言も避難せず、むしろこれまで付き従ってくれたことのねぎらいの言葉を掛けます。

その言葉に利家は号泣しました。

さらに勝家は「俺のことは忘れて、秀吉に降伏せよ。」と言ってくれました。

利家にとって勝家は、敬愛する大先輩であり育ての親でもあったのです。