徳川秀忠は、徳川家康の三男として誕生し、江戸幕府の第2代将軍として活躍した武将です。

戦場で目立った功績を立てられなかった秀忠ですが、政務能力が高かった人物として知られています。

徳川政権を強固にするための数々の政策は、現代の日本を形成する一助になりました。

また、国策としてキリシタン禁止令を発布したことは、のちの世における、外国の植民地政策を防いだとも捉えることができるでしょう。

つまり、秀忠は兄弟たちより武勇で劣っていた分、物事を見極める点に秀でた人物であったと言えます。

この記事では、父・家康とともに日本の統治に尽力した徳川秀忠が、どのような政策を行ってきたのか紹介します。

徳川秀忠による国づくり|江戸時代を安定させるための政策

徳川秀忠は、一国一城令や武家諸法度、天下普請などを定めたことで知られています。

それは、現代で言うインフラ整備であり、徳川幕府を長続きさせるものでもありました。

ここでは、徳川秀忠の国づくりにおける重要な政策を3つ紹介します。

一国一城令の制定

一国一城令とは、元和元年(1615年)に制定された法令のことです。

日本全国にいる大名の本城以外を取り壊すものとし、発令後はおよそ400もの城が破棄されました。

この法令の狙いは、各大名の力をそぎ落とし、徳川幕府への反乱を防ぐことが目的です。

とくに、徳川軍によって滅んだ豊臣家の影響が根強い関西の大名には徹底して行われ、残存していた抵抗勢力の芽を摘んでいきました。

また、奥羽でも大館・横手を除いたすべての城が破壊されています。

実は、同じような法令を豊臣秀吉も制定しており、時の政権が国を統治する際に必要な政策となっていました。

ただ、秀忠は先の法令よりも強固に行ったと言われています。

武家諸法度の制定

武家諸法度は、元和元年(1615年)に制定された法令です。

政治や訓戒、治安や礼儀作法などを盛り込んだ武家諸法度は、これまで従属関係にあった幕府と諸大名との関係を改めるものになりました。

私的な繋がりよりも公的な関係性を優先するようになったため、公平さを重要視した政治体制の確立に一役買うことになります。

また、この法令の制定後に全国の大名には、各領土の支配権を与えられました。

ただ、武家書法度に違反した場合は、領地没収による改易や領地を減らされる減封などの処分も課されるようになりました。

武家諸法度に違反した人物として、無断で城の修繕を行った福島正則や、「お家騒動」で知られる最上義俊らが挙げられます。

天下普請

天下普請とは、徳川政権下で行われた全国的なインフラ整備のことです。

土木工事を指す「普請」と、大々的に実施された規模から「天下普請」と呼ばれるようになりました。

関ケ原の戦い以降、徳川家康が江戸幕府を開闢したのちにスタートした天下普請は、おもに3つの時期に分けることができます。

慶長期、元和期、寛永期とおよそ50年に渡って行われた事業の中で、秀忠の活躍は目を見張るものがありました。

秀忠は、父・家康の後を継いだのち、江戸界隈だけなく、秀吉の影響が強い大坂城の再建も行いました。

これは、武家諸法度を制定した流れと同じく、長期的で強固な徳川政権を誇示せんがため、と言われています。

先を見据えた秀忠の天下普請は、その後の徳川を支えるものになったのです。

キリシタン弾圧により国内の宗教的な統一を図る

キリスト教は、天文8年(1549年)に薩摩半島に来航したフランシスコ・ザビエルによってもたらされました。

徳川家康の時代は黙認されていたものの、2代目秀忠になると激しい弾圧が始まります。

徳川秀忠によるキリシタン禁止の布告

徳川幕府は、慶長17年(1612年)にキリスト教による禁教令を発令しました。

また、翌年になると秀忠の代で2回目のキリシタン禁令、元和2年(1616年)には、ヨーロッパの来航を平戸港と長崎港のみに制限する二港制限令が布告されます。

元和3年(1617年)になると、長崎の住民や宣教師、またその関係者などに対して処刑が行われました。

さらに、元和5年(1619年)には京都で大弾圧が発生し、計63名もの一般信者が投獄され、処刑されたとされています。

ここまで苛烈な弾圧を行った背景には、徳川政権を長く強く維持する目的があります。

その思想や信者の多さが時の政権に影響を及ぼすと危惧したとされ、宗教的な統一を図ったと言われています。

徳川秀忠は国を統一する戦いにも参加

江戸幕府における政策に目がいきがちな秀忠ですが、日本史に残る合戦にも参戦しています。

しかし、目立った功績がなかったため、あまり世に知られていないのでしょう。

ここでは、徳川秀忠が参戦した2つの戦を紹介します。

遅刻という大失態を犯した関ケ原の戦い

慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成による関ケ原の戦いが勃発します。

このとき、秀忠は家康らの本陣とは別で、中山道から進軍するように命令されていました。

しかし、秀忠は進軍途中に上田城に陣を構える真田軍と対峙してしまいます。

真田軍に開城を命じた秀忠でしたが、謀略に長けた昌幸によって決裂するのでした。

上田城を攻略できずにいた秀忠の元に、父・家康から「9月9日までに美濃赤坂まで来るように」とのお達しが届きます。

長野県から岐阜県まで、どう頑張っても10日を必要としてしまい、その結果世紀の合戦に遅れてしまうのでした。

なお、この一件で家康からの信用は失墜してしまい、家督相続で頭を悩ませたと言われています。

今度は遅刻しなかった大坂の陣

徳川家康は、豊臣家の処遇について熟考した結果、政権に悪影響を及ぼすとして滅亡させることを決意しました。

豊臣秀頼が寄進した鐘の銘文を理由に宣戦布告、大坂冬の陣が切って落とされます。

もちろん、秀忠も参戦しますが関ケ原の戦いでの汚名を挽回すべく、駆け足気味で行軍します。

それは、半日で約70kmの道のりを6万にもおよぶ自軍を率いて走破する、という前例のない行軍速度でした。

これを見かねた家康は「もっとゆっくり来なさい」と窘める書状を送ったとされています。

慶長20年(1615年)、季節が巡り、大坂夏の陣で徳川軍の勝利に終わりました。

秀忠はというと、遅刻はしなかったものの、これといった活躍は見られなかったと言われています。

徳川秀忠の人物評とは?

徳川秀忠は、武勇や知略に対する評価が低いとされています。

兄弟である信康や秀康、忠吉らは勇敢で戦上手と評価されており、秀忠は勇猛な武将とは言えません。

しかし、家康は戦乱の世が終わり、2代将軍として秀忠を指名したのはまさにその部分でした。

家康は徳川家の守成を第1に考えており、温厚で律儀な性格の秀忠が適任と判断したのです。

できたばかりの江戸幕府の地盤固めという、難しい時期を乗り越えた秀忠は優れた人物と言えるでしょう。

為政者としての評価

秀忠は優れた為政者である、との評価が多く見受けられます。

上記で触れた通り、秀忠はできたばかりの江戸幕府の基盤を強固にしました。

具体的には、公家書法度や武家諸法度の発布、一国一城令の制定、天下普請の実施などが挙げられます。

家康存命時は二人三脚で行った政策もありますが、大半は自身で決断し、徳川家の基盤を築き上げました。

また、政務に意欲的に取り組んでいたとされ、内外からの評価は概ね高かったと言われています。