江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」は徳川家康の跡を継ぎ、戦のない平和な国づくりに貢献した人物です。室町時代から続いた乱世の世を平定した父「家康」と共に、また家康亡き後にも、その教えを破ることなく「徳川」時代を確固たるものとしました。

戦国の世に生まれた秀忠ですが、実は戦を得意としておらず、戦による失敗談が残る武将としても知られています。しかし政治の面に関しては非凡な才能を発揮し、武家諸法度・禁中並公家諸法度などにより、大名をしっかりと取り締まりました。

秀忠は、家康や家光よりも印象が薄いかもしれませんが、秀忠の政治的貢献は目を見張るものがあります。今回はそんな「徳川秀忠」について、年表からその生涯をたどっていきましょう。

徳川秀忠の生涯年表

政治的な能力に秀でていた秀忠ですが、戦についてはいくつか失敗をしています。秀忠がこの世に誕生してから、52歳で亡くなるまで、どのような生涯を生きたのか、年表を見てみましょう。

西暦 年齢 出来事
1579年 0歳 秀忠誕生
徳川家康と西郷局の間に三男として誕生
兄(長男)「信康」切腹
1584年 5歳 兄(次男)秀康が豊臣秀吉の養子となる
(秀忠は徳川家の実質的跡継ぎに)
1590年 11歳 豊臣家の人質として上洛
幼名「長松」から「秀忠」へ改名
秀吉の元で元服
1595年 16歳 秀吉の養女「お江」と結婚
(浅井長政の三女)
1597年 18歳 長女 千姫誕生
(後に豊臣秀頼の正室となる)
1600年 21歳 関ヶ原の戦いに参戦
上田城攻めに苦戦
本戦に遅れ家康から叱咤される
1603年 24歳 右近衛大将任命
(徳川家将軍世襲が決まる)
1604年 25歳 次男 家光誕生
(後の江戸幕府3代将軍)
1605年 26歳 家康引退
江戸幕府2代将軍となる
1607年 28歳 五女 和子(まさこ)誕生
(後の109代天皇「明正天皇」の生母)
1614年 35歳 大阪冬の陣参戦
江戸から伏見へ強行で移動
兵が疲労し戦力にならず
1615年 36歳 大坂夏の陣参戦
家康と共に「武家諸法度」
「禁中並公家諸法度」を制定
1620年 41歳 五女 和子が108代天皇「後水尾天皇」へ入内
天皇家と婚姻関係となる
1623年 44歳 秀忠引退 家光に将軍職を譲る
実権は握ったまま江戸城西の丸で隠居
1626年 47歳 後水尾天皇の二条城へ行幸
家光と上洛し拝謁
1630年 51歳 孫 女一宮が「明正天皇」へ
天皇家の外戚となる
1632年 52歳 病により死亡
増上寺に埋葬

なぜ?三男である徳川秀忠が家康の後継者になったのか

秀忠は徳川家康の「三男」です。戦国時代は通常、家督は長男が継ぎます。秀忠も誕生した時には「家督を継承する」子どもではありませんでした。しかしまさしく秀忠がこの世に生を受けたこの年、秀忠にとって運命を変える出来事が起きてしまいます。

家康の長男「信康」の母は正室「築山殿」ですが、織田信長がこの2人に対し通謀の疑いをかけたことで処刑されてしまいます。本当に通謀があったのかどうか定かではありませんが、長男が亡くなったことで家督継承者は次男の秀康になりました。

しかしその後、次男の秀康が豊臣秀吉の養子となってしまい、最終的に秀忠が家督継承者となったのです。(秀康はのちに豊臣から結城晴朝の養子「結城秀康」となり大名として活躍しました。)

徳川「秀忠」の名は豊臣秀吉から与えられた

秀忠という名前は豊臣秀吉から与えられました。秀忠は1590年に人質として豊臣秀吉の住居であった「聚楽第」に上洛します。そこで秀吉と面会した際、秀吉から「秀」という文字をもらい、幼名の「長松」から秀忠に改名し元服も済ませました。

また秀忠は秀吉から勧められ、織田信雄の娘であり秀吉の養女であった「小姫」と婚約しています。人質という立場で上洛した秀忠ですが、秀吉は秀忠を可愛がり厚遇を受けていたのです。

小姫との婚約は、小姫の実父「織田信雄」と秀吉が不仲になったことで婚姻とはなりませんでした。

その後、「1595年」に再度秀吉から勧められ、秀吉の養女と結婚しました。それが「お江」です。浅井長政とお市の方の三女であり、後に秀吉の側室となる茶々が姉にあたります。

徳川秀忠の失敗「関ヶ原の戦い」「大坂冬の陣」

秀忠は政治的にみると非常に能力が高く、信頼もある人物です。しかし「戦」となるとなかなかうまくいかなかったようで、生涯の中で2度、将来が危ぶまれるような失態を犯しています。

  • 関ケ原の戦い

天下分け目の決戦と呼ばれる関ヶ原の戦いで、秀忠は痛恨のミスを犯しました。家康が東海道を進軍する本陣とは別に、中山道を進軍するように命じられた秀忠は、途中、真田軍と対峙し上田城を攻めます。しかしこれがことのほか苦戦し落とすことができなかった上、関ケ原の戦いに遅刻してしまったのです。到着したときにはすでに、決着がついていたといいます。

  • 大阪冬の陣

関ヶ原の戦いではいいところを見せることなく「遅刻」という大失態で、家康から叱咤された秀忠は、今度こそと張り切ります。静岡の掛川から夕方には愛知県豊橋市へ、70キロもの道のりを6万の兵を率いて強行走破しました。家康はあまり急ぐと兵も馬も疲れるからゆっくり来いと書状を送ったのですが、それでも急ぎ向かった秀忠軍は疲れ果て、戦場で使い物にならず、また家康に叱咤されたと伝えられています。

征夷大将軍任命直後は家康との二人三脚

江戸幕府になり、秀忠が家康から将軍職を継いだ時期は、依然として政情が不安定でした。こうした状況を踏まえて家康は大御所という立場で秀忠を支え、秀忠と2人で幕府を運営しました。

当時駿府城に居城を移していた家康ですが、しょっちゅう江戸城に上洛していたといいます。秀忠を心配して・・ということもありますが、豊臣方、そして朝廷に対して警戒を解いていなかったのでしょう。

家康が豊臣対策に目を光らせていたため、秀忠は譜代大名や親藩との政治に力を注いでいました。こうした状態は秀忠が征夷大将軍を任命した直後から、大阪冬の陣・夏の陣が終了するまで続いたのです。

家康亡き後に見せたリーダーシップ

戦に明け暮れた世の中を平定し、江戸幕府を成立させた徳川家康がこの世を去りました。秀忠にとって大きな力を持っていた家康の死は大きな出来事だったでしょう。しかし戦なき世の中は、秀忠にとって能力を発揮しやすい世界だったと思います。

江戸幕府のトップとして、その知力を活かし政策をどんどん遂行し、この政策や方針はのちの幕府にとって「礎」となりました。秀忠の名で家康が出した武家諸法度を徹底して行い、江戸城や大阪城の整備も実行し、世の中に将軍の力を見せつけました。

また秀忠は家康がいなくてもリーダーとして奮闘していくために、自分の周囲を側近で固め、歯向かう大名は改易・転封させ、自分の地位を固めたといわれています。

徳川秀忠はどんな人?

江戸幕府第2代将軍「徳川秀忠」は、家康の教えを守り、江戸幕府を盤石なものにしようと力を尽くしました。戦のない世界をより安定させるために生涯をかけて取り組んだ秀忠は、どんな人だったのでしょう。家族や逸話などを見てみると、その実直な素顔が見て取れます。

徳川秀忠の誕生

1579年、遠江国浜松城で徳川家康と西郷局の間に、三男として生まれました。この年、長兄であり正室築山殿の子として生まれた信康が切腹するという大きな出来事が起こっています。

また次男の信康も豊臣秀吉の養子となっていますので、三男でありながら家督を継ぐ身となりました。5歳で実質的な跡取りとなり、11歳で豊臣家の人質となるなど、厳しい幼年期に見えます。しかし豊臣家の人質になった時には秀吉に可愛がられ、「秀忠」という名も秀吉から一文字もらっていますので、他の人質よりも優遇された生活だったと思われます。

誕生からしばらくして家督を継ぐことに決まった秀忠は、家康に尽くし、将軍となるため心身ともに精進していたようです。

徳川秀忠の妻と子

戦国武将たちの多くが、正室のほかに側室をもらっています。秀吉などはかなりの人数の側室がいました。秀忠は生涯正式な側室をもらいませんでしたが、子供をもうけた女性が2人います。子供をもうけた女性が2人いるとはいえ、子を多数残すことが大事とされていた戦国時代で、側室を持たなかったというのは非常に稀なことといえるでしょう。

秀忠の正室は豊臣秀吉の養女、浅井長政とお市の方の三女であり、秀吉の側室「茶々」の妹である「お江」です。このお江との間には、男子2人、女子5人の子を授かっています。そのうちの1人が3代将軍となった「家光」です。

秀忠が妻ではない女性との間に設けた子は長丸という男子で、1歳になる前に亡くなっています。(相手の女性は家女と記録されているため、かなり身分が低い女性だったと推察されます)もう1人は、大奥の下級女中「お静」との子で、幸松といいます。幸松については幼くして亡くなった長丸のようなことにならないようにと、息子と認めることなく「保科家」で養育されました。のちに保科正之と名乗り、家光から取り立てられ、会津藩で松平家を起こし第4代将軍徳川家綱を補佐する素晴らしい大老になったそうです。

徳川秀忠の誠実さが伝わる逸話

秀忠はとても実直な性格だったと伝えられています。家康は秀忠の真面目で誠実、また律儀で謙虚であるといった性格を見て、家督を継がせることを決意したのではないでしょうか。

秀忠の誠実さを物語る逸話が残されています。

  • 親しい者が亡くなると涙し落ち込んでいた
  • たとえお供のものと約束した時間であっても必ず守った
  • 秀忠が世を去るとき家康のように神号を受けるか尋ねると父のような大業を成していないから必要ないと答えた

将軍という立場にありながら、奢らず相手の立場に立ち、謙虚に物事を考えていたとわかります。誰にでも分け隔てなく接していたといわれる秀忠は、本当に実直で誠実な人だったのでしょう。

徳川秀忠が残した功績

徳川家康という偉大な天下人の跡を継ぎ、江戸幕府を背負った徳川秀忠は、家康の教えをよく守り次世代に伝えました。徳川秀忠の功績といえば、家康が成した天下泰平の世を守り、次世代にしっかりと繋げたことです。

秀忠は家康から引き継いだ江戸幕府の地盤を固め、さらに朝廷との絆を深めるなどの功績を残しました。

徳川秀忠は家康と共に江戸幕府の地盤を固めた

徳川秀忠は家康が手を付けた江戸幕府の地盤を、しっかりと丁寧に固めました。将軍職を家康から受け継いだ当初、家康と二人三脚で「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」を制定します。

この2つの制度は江戸幕府の重要な法令となりました。この2つの制度を家康と秀忠で作り上げ、家康亡き後、秀忠がより実効性の高いものとしたのです。家康がしようとしていたことを一番に理解し、またそれを実用する知力を持っていた秀忠だからこそなしえたことです。

秀忠はさらに「徳川御三家」を作り、年齢の離れた弟たちを、尾張・紀伊・水戸という3地に配置しました。御三家ができたことで徳川の江戸幕府はより強固な絆を持った幕府となったのです。

徳川秀忠は朝廷との絆を深めた

さらに秀忠は幕府の地位をより確固たるものとするために、朝廷との結びつきに目を向けます。朝廷との結びつきをより強くするため秀忠が行ったのは、秀忠の娘を天皇に入内させるということでした。

家康の遺言に沿い、五女の「和子」を後水尾天皇に入内させたかったのですが、後水尾天皇が女官に子を産ませたことを知り、秀忠が入内にストップをかけました。朝廷側に主導権を持たせないために、和子を入内させずゆさぶりをかけたのです。

その後、子を産んだ女官とその子は、宮中から追い出されました。そして改めて和子が入内したのです。ただ朝廷に入内させるのではなく、状況とタイミングを見極め徳川が優勢となるように朝廷との絆を確固たるものとすることに成功しました。