豊臣秀吉は戦国時代、初めて「天下統一」を果たした武将です。織田信長の家臣として頭角を現し、「本能寺の変」で無念の中で倒された主君の仇を討ち、とうとう天下人になりました。

秀吉は武士や大名の出ではなく、農民から一代で天下人となった異例の人物です。元々城に暮らしていたわけでもなく、城とは縁遠い出自でした。

秀吉は人たらしといわれた愛嬌たっぷりな性格と、研ぎ澄まされた洞察力により、厳しい戦国の世を生き抜いた武将です。

今回は豊臣秀吉が信長亡き後、織田家の実権を握り勢力を拡大していった時代から、天下統一を果たすまでに関わった国々を紹介します。

豊臣秀吉が生まれた国

戦国三英傑といえば織田信長・徳川家康、そして「豊臣秀吉」です。織田信長は地方領主の息子として生まれ、徳川家康は国人土豪(その土地の豪族のこと)の息子として生まれています。しかし秀吉は農民の子でした。

秀吉は「尾張国」愛知郡中村郷で農民(足軽)をしていた「木下弥右衛門」と「仲」の間に生まれました。生まれた年は1537年あたりではないか?といわれており、はっきりしていません。どこで生まれたのか厳密な場所はわかっていませんが、現在の「名古屋市中村区」の中村公園が有力とされています。

秀吉の父は木下と名乗っていますが、木下は妻の実家に関わりのある「姓」で、元々は名字を持っていなかったのではないかといわれています。

豊臣秀吉の生涯で関わった重要な国

豊臣秀吉は天下統一を果たした武将ですから、当然のことながら様々な国に関わっています。自分が生まれた尾張国のほか、信長の家臣となり、信長亡き後に天下統一を果たすまで、秀吉の運命に関わる重要な国と関わりました。どのような国と関わったのか見ていきましょう。

豊臣秀吉が一夜城を築いた「美濃国」

豊臣秀吉の一夜城といえば「墨俣城」です。墨俣は美濃国と尾張国の境辺りのことで、墨俣城もその辺りにあったのではないかといわれています。

織田信長が美濃国の「斎藤龍興」を攻略する際、「佐久間信盛」に敵地であるエリアに城を造るように命じました。しかしもう少しで完成というところで斎藤軍が押し寄せ完成には至らなかったのです。次に柴田勝家が6,000人を動員し築城にあたり、やはり8割がた完成というところで襲撃されてしまいます。そこで秀吉(当時は木下藤吉郎)が城作りを請け負いました。500人の兵があれば7日で砦を築くと約束し、見事完成させました。

秀吉は近くを流れる川の上流から築城エリアに向けて利用する材木を流し、4~5日くらいで城を完成させたのです。まだ完成していないだろう、完成しても壊しに行けばいいと思っていた斎藤軍を見事油断させ、信長の命を果たしました。ここから秀吉は出世街道を走りだすことになります。

「金ヶ崎の退き口」で主君を守った「越前国」

1570年、織田信長は朝倉義景と戦っていました。金ヶ崎城は「越前国」敦賀郡にある城で、信長は同盟関係にあった妹婿「浅井長政」の裏切りにあい、もはやこれまでか・・と思われる危機に瀕しました。

信長は急ぎ撤退を開始します。途中で朽木元綱と出くわし、本来誰ば打ち取られていたかもしれない相手でしたが、同行していた松永久秀が必死に説得し、朽木元綱が快諾、信長をもてなし安全に京へ向かいました。

それを聞いた秀吉(当時は木下秀吉)は、明智光秀・池田勝正らと「殿」を務めたのです。退却する際の殿ですから、最後尾で敵軍からの追撃を一手に受けることになります。しかし秀吉らは見事やり遂げ、信長は越前国から無事に帰還できたのです。

豊臣秀吉が最初に領地とした国「近江国」

浅井長政の裏切りにより、信長が金ヶ崎城で戦っていた時、秀吉(当時は木下藤吉郎)は小谷城を攻めていました。小谷城には秀吉の憧れの人「お市の方」がおり、お市の方と3人の娘を助け出したことでも知られています。

浅井長政が滅亡し、浅井家が領地としていた「近江国」の領地はほぼ秀吉に与えられ、近江国で初めて「一国の主」「城持大名」になりました。

秀吉は長浜(当時は今浜)を、交通の要として重要視しており、長浜城を築城したとされています。残念ながらどのような城だったのか、文献がほぼ残されていませんが、城が完成したことで地名を「今浜」から「長浜」に変え、後に北陸攻めや中国攻めの出発地点となりました。

「天下統一」のきっかけとなった国「山城国京都」

秀吉が「天下統一」を果たすきっかけとなった出来事といえば「本能寺の変」でした。明智光秀が謀反を起こし、本能寺にいた織田信長を取り囲み、信長は自害しました。秀吉はこの時、備中国賀陽郡の備中高松城を攻めていましたが、信長の死を知ると毛利輝元とすぐに講和を締結し、全力で山城国京都の山崎まで返しました。これが有名な「中国大返し」です。

秀吉は2万の全軍を引き連れ、200㎞もの道のりをわずか10日で移動したといわれています。秀吉は光秀が毛利に向けてはなった密使を捕縛したことにより、かなり早い段階で訃報を知ったようです。毛利輝元に対し信長の死を知らせることなく講和し、「主君の仇討」という大義名分をつけ「山崎の戦」に挑んだのです。

明智軍は秀吉が来るのはまだ先と思っていたため、秀吉の中国大返しからの奇襲に総崩れとなります。兵の脱走などもあり退却した光秀は小栗栖の藪の中で、落ち武者狩り(自刃したという説もある)にあい命を落としました。ここから、秀吉による天下統一の道がいよいよ動き始めたのです。

清須会議が行われた清須城のある「尾張国」

信長の死後、信長の後継者を選出するための会議が行われました。それが「清須会議」です。この後継者選出会議が行われたのが、「尾張国」の清須城でした。出席者は柴田勝家・丹羽長秀・秀吉(当時は羽柴秀吉)・池田恒興・滝川一益のはずでしたが、滝川は神流川の戦いで北条氏に惨敗し、伊勢方面に逃げている最中で清須会議には出席していません。

織田信長の筆頭家老であった柴田勝家と二番家老の丹羽長秀は、織田信雄は次男ですが、本能寺の変の際、秀吉に先を越され自軍を撤退させました。織田信孝は「山崎の戦い」でも活躍したため、後継者は自分だと息巻いています。織田秀信は当時まだ3歳でしたが、本能寺の変で亡くなった織田信忠の嫡男で、信長の孫なので後継者争いに巻き込まれました。

清須会議ではやはり仇討ちを果たした秀吉の意見が強く信長の後継者は「織田秀信」に決定します。まだ3歳という幼子が家督を継ぐということで、代官・守役として堀秀政が選出されました。

北条氏を落として手に入れた「相模国」

四国・九州を征伐し西国をほぼ手中にした秀吉は、関東・東北の平定に動きます。すでに関白となっていた秀吉は、1585年に「関東・奥両国惣無事令」を発令しました。これは関東と奥領国の大名同士の戦いを止める政策です。これ以降、大名同士が領土の取り合いなどを起こした場合、関白として征伐するというものでした。

翌年になると後陽成天皇を聚楽第に招き、全国の大名も列席するように命じます。しかしこの時、相模国領地としていた「北条氏政・氏直」親子は列席しませんでした。これにより小田原征伐の口実ができた秀吉は「関東・奥両国惣無事令違反」を掲げ、小田原征伐に動いたのです。

難攻不落の城と呼ばれた「小田原城」を22万もの兵が取り囲んだことで、北条親子は籠城以外手立てがなかったでしょう。秀吉はお得意の一夜城「石垣山一夜城」を作り兵糧攻めにします。最終的に北条氏直が開城し降伏、北条氏は滅亡しました。

豊臣家最後の地となった「摂津国」

豊臣秀吉が天下統一を目指し、安土城を超える壮大な城「大阪城」を作り始めたのは1583年でした。当時の摂津国東成郡に築城された城は、城作りの名人といわれた「黒田官兵衛」が手がけた城です。

5層6階、屋根に金の鯱を施した絢爛豪華な天守など、大阪城は「三国無双の城」と呼ばれていました。しかしこの城は、秀吉亡き後、豊臣方と徳川方で争われた「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」で焼失しました。

徳川家康は1614年冬にかけて大阪城を取り囲み、大阪冬の陣が勃発します。冬の陣では暮れ前に和睦が成立しましたが一時的なもので、翌年の夏に大阪夏の陣が始まります。

大坂夏の陣では、最終的に大阪城内部で豊臣秀吉の三男「豊臣秀頼」と秀頼の母・秀吉の側室であった「淀殿(茶々)」が自害しました。摂津国は「豊臣家最後の地」となったのです。

豊臣秀吉の朝鮮半島侵攻

天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が次に目を付けたのは「朝鮮半島」でした。当時は「明(みん)」(現在の中華人民共和国)という国の柵封国(中国王朝を宗主国とする従属国のこと)だった「朝鮮」に対し、日本への服属を求めました朝鮮がこれを拒否したため、秀吉は朝鮮出兵を決断します。しかしなぜ、海の向こうまで出兵しようと考えたのか、朝鮮半島攻めに至った理由を考えてみましょう。

豊臣秀吉が朝鮮半島攻めにでた理由

秀吉が朝鮮出兵の命を下したのはなぜなのか、いくつかの説があります。まずは織田信長の影響を受けたという理由です。宣教師「ルイス・フロイス」は信長について先進的な考えを持ち、天下統一後には明に一大艦隊を組み攻める構想を持っていたと伝えています。信長はこれを成し遂げることはできませんでしたが、信長を慕っていた秀吉が同じ構想を持っていても不思議ではありません。

ただ領土を広げるために海の向こうに目を向けたという説もあります。天下統一を果たし取りに行く領土が国内にないのですから、海外へ侵攻し「東アジア統一」を考えていてもおかしくないでしょう。

もう1つ、スペインの日本植民地化計画を阻止するため、先に明を制し日本への侵出を食い止めようとしていたのではないかという説もあります。イエズス会の宣教師らの中には、布教活動を通じ様々な情報を集めるスパイのような立場の者もいました。秀吉はもともとキリスト教に寛容でしたが、九州平定後、ポルトガル人が日本人を捕虜として輸出しているという噂を聞いてからバテレン追放令を出しています。秀吉が列強国がアジアに進出する前に、唐入りしようと考えていた可能性も高いです。

豊臣秀吉の朝鮮出兵は失敗?

秀吉が何を理由に朝鮮出兵を考えていたのかわかりませんが、秀吉の臣下たちは朝鮮出兵に反対でした。秀吉は小西行長から「朝鮮はすでに臣従している」と聞いていたので、家臣らが朝鮮にいけばすぐに服従するだろうと思っていたのです。しかしこれは小西の嘘で、実際には朝鮮は抵抗を見せました。

ただ秀吉の軍は軍事力が高かったため、半月程度で平壌を落とし朝鮮の王子も捕縛します。ここで秀吉も朝鮮に行こうとしましたが、船が難破でもしたら大変だと考えた徳川家康に止められ秀吉の出兵はかないませんでした。最終的に和睦しようという話になりますが、明からの和睦の条件が「明の支配下になること」が条件だったため、秀吉は14万もの兵を送ります。

しかし臣下の中には徳川家康や加藤清正といった「秀吉に服従したわけではない」武将もいたため、この出兵はうまくいかなかったのです。朝鮮出兵の最中に秀吉は病に倒れ、秀吉亡き後に兵を引き上げることとなりました。秀吉にとっても、出兵した兵にとっても「いいところのない無駄な戦」だったといっていいでしょう。