戦国時代の武将の中でも、その戦略や信仰心で知られる上杉謙信は、他の武将たちとは一線を画す存在でした。
彼の人生には数々の伝説が残されていますが、その中でも特に注目されるのが「妻を持たず独身を貫いた」という事実です。
上杉謙信が生涯を通じて独身であり続けた理由には、いくつかの興味深い背景や信念が関わっているとされています。
この記事では、上杉謙信がなぜ妻がいないのか、結婚をしなかったのか、その理由について詳しく探っていきます。
上杉謙信は「生涯不犯」の武将として有名
上杉謙信は、日本の戦国時代を代表する武将の一人であり、「生涯不犯」として知られています。この「生涯不犯」とは、生きている間は戒めを守り、男女の交わりをしないことを指すのです。
つまり、一度も男女の交わりがないまま一生を終えた武将として上杉謙信は有名となっています。
上杉謙信は越後国(現在の新潟県)の領主として、領土を守るために「川中島の戦い」といった戦いをくぐり抜けてきました。
そんな上杉謙信は生涯において一度も女性をそばに置かなかったと言われています。これにより、彼は生涯を通じて清廉潔白であったとされているのは有名です。
その統率力と戦略眼で多くの敵を退けた人物でありますが
「上杉謙信が自分の子を残さなかったのはなぜなのか?」
といった疑問も残るところも多いとされています。
しかし、後継ぎはいない訳ではなく、甥である上杉景勝と後北条家からの養子である上杉景虎が上杉謙信の後継ぎとなり、上杉謙信の意志は引き継がれました。
上杉謙信に妻がいなかった理由とは?
上杉謙信が婚姻を交わすことなく、妻を迎え入れることはなかった武将ということが分かったところで、実際に上杉謙信が独身だった理由について、3つのポイントからご紹介します。
史実に基づいてのエピソードから、噂話まで上杉謙信の独身の謎に迫りましょう。
上杉謙信の兄・長尾晴景がキーポイント
上杉謙信の独身に関しては、憶測や噂があるものの、上杉家の藩史「謙信公御年譜」(けんしんこうごねんぷ)にその理由について明記されています。
藩史によると、上杉謙信は19歳のときに自身の兄である長尾晴景から家督を譲り受け、この家督をいずれ大きくなった長尾晴景の息子に譲り渡す約束をしたのです。
その後、兄である長尾晴景は病気にて亡くなり、譲り渡すはずだった息子は亡くなってしまいました。
このままでは、家督を譲り渡すことができないと考えた上杉謙信は、姉の息子である上杉景勝を養子に迎え入れ、家督を譲り渡すことにしたのです。
そのため、上杉謙信が妻を迎え入れてしまうと、家督を自身の息子に譲り渡すことになると思った上杉謙信は妻を迎え入れることを止めた。
つまり、家督を譲り渡す相手がいる以上、自身は妻を持たないほうが良いという合理的な判断をしたといえるのではないでしょうか。
そもそも大名は政略結婚が当たり前の時代だった
戦国時代は一国の主である大名が、妻を持たないというのは考えられない時代でした。
大名は自分が築き上げた国を保つために、自身の子どもたちを跡継ぎに据えて実権を握る必要があったのです。
そのため、上杉謙信が「結婚はしない!」と決めたとしても、家臣たちはそれではマズいと判断すれば、縁談の話は持ちかけてくる流れとなります。
戦国時代は、自分の陣地を広げたり有利な戦いにするために「政略結婚」は当たり前。
戦いでも結果を残し、一国の主である上杉謙信を身内にすればメリットがあると考える武将は多かったはずです。
結果的には、妻をとらず兄との約束を守り通して縁談は断っていたのですが、ここまで聞くと上杉謙信が頑固者のようなイメージを持たれたのではないでしょうか。
上杉謙信は頑固者ではなく、家臣の意見も聞き行動していたことから、話が分からないといった人物ではありません。
約束を守るためにこのような行動をとった上杉謙信は、情に厚い人物だったのかもしれません。
上杉謙信は結婚に興味がなかったわけではない
上杉謙信が結婚をしていたのではないか?という説も唱えられています。
これは、歴史資料として価値の高い「越後過去名簿」のなかに1559年、上杉謙信が30歳となる年に「昌栄善女」という女性が生前供養されている記載があるのです。
ここで、重要なポイントは昌栄善女が「越後府中」の「御新造」だと捕捉されている部分。
御新造とは新妻のことをさしており、越後は上杉謙信の支配下にあったエリアとなるため、この女性が上杉謙信の妻だったのでは?といった疑問が浮かび上がったのです。
しかし、この説には疑問も残る点が多く、上杉謙信の住む春日山城は御新造がいたとされる越後府中から5km以上離れています。
この点を見て、通い婚としては距離がありすぎるのではないか?
といった説もあり、まだはっきりとした謎は解明されていません。
上杉謙信は男色家というのは本当なのか?
上杉謙信が男色家だったという説は、歴史的に議論の対象となっています。
しかし、結婚してないからというだけで、そのように決めつけてしまうのもどうなのか?という方もいるのも事実です。
上杉謙信の生涯や性格を考慮して、男色の可能性を指摘していますが、これが確定的な事実であるとは言い難いのも事実。
ここからは史実や資料に基づいて、この説について詳しくご紹介します。
文献には男色家説を否定できるエピソードがある
上杉謙信の男色家説を否定するエピソードがあり、男色家ではなかったことがいえます。
そのエピソードというのが、他国の武将が美少年のスパイを送り、暗殺を試みましたが、すぐに返させたというものです。
という内容が「謙信家記」に記載されています。
つまり、他国の武士が結婚しない上杉謙信をみて「男色家に違いない!」と作戦におよぶものの失敗した。ということなのです。
ちなみに、この男色家のイメージは江戸時代に作られたもので、当時を知らない人が最近になって唱えた説とされています。
男色家と勘違いされてしまったエピソードとは
男色家であることは否定する方が有力なのですが、男色家なのではないか?という噂になった史実も存在します。
それが当時関白だった近衛前久(このえ・さきひさ)が、知恩寺岌州(ぎゅうしゅういひん)という僧侶に
「上杉謙信は若くてイケメンな男性が好きと聞いた」
という話を聞いたとされています。
これは前日に上杉謙信が若い衆を集めて、宴会を開いており、そこで楽しそうな上杉謙信をみて発言したものです。しかし、この話を聞く限り「ただの飲み会」というような印象もうけます。
この知恩寺岌州の憶測が、徐々に広まり「上杉謙信は男色家だ!」と変化していったのです。ただこの宴会にも上杉謙信は参加していたかも不明であり、あくまで噂にしかすぎなかったのです。
噂だけがひとり歩きした結果、400年以上も「男色家」というイメージが離れないままとなっています。
上杉謙信は女性だったのでは?という噂
結婚していないだけで上杉謙信は女性だったのでは?
という噂が出回ったこともあるのはご存じでしょうか。これは、1968年に八切止夫(やぎり とめお)という小説家が唱えた上杉謙信の説です。
これはスペインのゴンザレスという人が、日本についての調査報告書をスペインの王様フェリペ2世に送ったそうです。
その報告書はトレドの僧院に残されているのですが、その中の「黄金情報」という部分に、「会津の上杉家は、謙信(けんしん)というおばさんが・・・」と書かれています。
この内容を矢切止夫が公にし、上杉謙信女性説を唱えたのです。
それとは別に、上杉謙信の肖像画には他の武将にはない「ヒゲ」が描かれていることから、あえて男性らしさを出すために描かれているのではないか。という考えもあります。
しかし肖像画も、戦国時代ではなく江戸時代に描かれているため、この肖像画説には根拠はありません。
上杉謙信は男性とするのが大半の意見ですが、事実ははっきりとしていないため、上杉謙信を知るうえで「こういう噂もあるのだな!」くらいでとどめておくのが良さそうです。
上杉謙信が惚れた女性「伊勢姫」とは
上杉謙信には若いころに一度だけ、心から好きになった女性がいました。それが上野国(現在の群馬県)の領主の娘である伊勢姫(いせひめ)です。
もともとは上野国の領主が人質として差し出したのが伊勢姫なのですが、上杉謙信は好意を寄せていたものの、上杉家の重臣・柿崎影家(かきざき かげいえ)が
「人質であり、敵国の女性なのですから愛してはなりません!」
と釘を刺されてしまい、結局この恋は実りませんでした。
これ以降は上杉謙信は女性関係はなく、生涯独身を貫いたのです。
上杉謙信が生涯妻を迎え入れることがなかったのは、ずっと伊勢姫を愛していたからではないか、といった上杉謙信の一途な思いもあったのかもしれません。