徳川家の2代目将軍徳川秀忠には「江」という妻がいます。徳川秀忠の生涯において全く側室を持たず、正室の「江」1人だけを愛し続けてきたのが特徴的です。

今回は、徳川秀忠の妻である「江」を中心に、「江」のエピソードや後世に与えた影響などを解説していきます。

実は秀忠の妻「江」は、さまざまなエピソードを持つ人物であり、まさに数奇な運命と称してもいいくらいに波乱万丈な人生を過ごしてきた人物でもあります。

2011年の大河ドラマでは主人公にもなった「江」は、徳川秀忠の妻としてどのような影響力を持っていたのか、「江」の人物像などを交えながら詳しく紹介していきます。

徳川秀忠の妻「江」とは?出自と人物像

徳川秀忠の妻「江」の人物像を解説すると、以下の通りに言い表せます。

  • 「江」の母はお市の方
  • 豊臣秀吉に寵愛されるも振り回される
  • 「江」は徳川秀忠が側室を作ることを許さなかった

若い時から波乱万丈な人生を過ごしてきた「江」にとって、その人生は最後の最後まで波乱がつきまとっていました。本項目では、上記3つのポイントを解説します。

「江」の母はお市の方

「江」の母は、織田信長の妹であるお市の方、父は浅井長政で、浅井三姉妹の三女として姉の茶々・初と一緒に幸せな人生を過ごすはずでした。

しかし、「江」が生まれたその年に姉川の戦いや一乗谷の戦いが起こり、父の顔を覚えぬまま、母であるお市の方と一緒に命からがら脱出し、織田信長に保護されます。

その後は母と三姉妹は信長の本拠地である岐阜城で過ごしますが、1582年本能寺の戦いが起こり母の兄である信長がこの世を去ると、清須会議(きよすかいぎ)において家臣の柴田勝家との再婚が決まります。

「江」の幼少期は戦国武将の娘らしく波乱万丈な日々でしたが、結局亡くなるまでの間、混乱の日々が続くことになるのです。

豊臣秀吉に寵愛されるも振り回される

「江」の人生は豊臣秀吉に振り回され続けてきた人生と言っても過言ではありません。両親を失った浅井三姉妹は豊臣秀吉に保護され、養女として迎え入れられることになります。

三姉妹は秀吉の寵愛を受けますが、秀吉の命を受け、「江」がまだ10歳・11歳の時に佐治一成に嫁ぐことになったのです。

佐治一成の母親は、「江」の母であるお市の方の妹にあたり、いとこ同士で結婚をしたことになります。

以降も秀吉から目をかけられるものの、のちに秀吉の側室となる「淀殿」とは対照的に、さまざまな武将の相手をさせられてしまうのでした。

江は徳川秀忠が側室を作ることを許さなかった

織田信長亡き後に天下統一を目指すことになった豊臣秀吉にとって、東にいる徳川家康の存在は厄介な存在であり、さまざまな手法を使って対応しなければなりませんでした。

結果として徳川家康は豊臣秀吉に従うようになったものの、豊臣秀吉は最後の決め手として、「江」を徳川家康の嫡男だった徳川秀忠に嫁がせたのです。

ここまで不遇の人生だった「江」でしたが、関ヶ原の戦いなどを経て徳川政権になると、秀忠の正室として君臨し、7人の子供を産むに至ります。

その間、秀忠の側室を1人も認めさせず、秀忠1人を愛し続けたのが「江」でした。

徳川秀忠が3人目の夫であり、さまざまな離別を繰り返す中で、「絶対に今の立場を手放してなるものか」という執念を感じさせます。

徳川秀忠の妻「江」のエピソード

徳川秀忠の妻である「江」には、代表的なエピソードがあります。

  • 2度の戦いで両親と最期の別れ
  • 豊臣秀吉に3回も政略結婚を画策される
  • 秀忠の浮気相手は「江」に隠れて出産する羽目に

「江」からすれば、どのエピソードも濃厚であり、いかにも戦国時代を生き抜いた女性らしいエピソードと言えます。上記3つのエピソードをまとめました。

2度の戦いで両親と最期の別れ

「江」を含めた浅井三姉妹は、まず1573年に起きた一乗谷城の戦いにおいて父・浅井長政を失います。

その後、お市の方は柴田勝家と結婚し、幸せな家庭を築いたかに見えますが、1583年賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家は秀吉に敗れます。

戦いに敗れ、自分の城に戻った柴田勝家はお市の方と共に自害し、「江」らは2度の戦いを通じて両親を失ってしまったのです。

浅井三姉妹はその後バラバラに嫁ぎますが、1615年の大坂夏の陣で豊臣方に「淀殿」、徳川方に「江」と分かれる形で戦いが始まり、徳川方の完全勝利に終わります。

豊臣家は滅亡し、「淀殿」は息子の豊臣秀頼と共に自害してしまうのでした。

豊臣秀吉に3回も政略結婚を画策される

1583年に母・お市の方、父・柴田勝家を失い、秀吉に保護された「江」はすぐに佐治一成に嫁ぐことになります。

しかし、結婚生活は1年程度で終焉を迎え、半ば強制的に離縁させられてしまうのでした。

その後、秀吉の甥である豊臣秀勝と再婚した「江」は、秀勝との間に子供を授かりますが、1592年の朝鮮出兵に従軍した秀勝は朝鮮の地で病死してしまいます。

徳川秀忠との結婚は3回目で、やはり秀吉による画策で結婚をさせられたのでした。

秀忠の浮気相手は「江」に隠れて出産する羽目に

徳川秀忠には側室が1人もいないとされていますが、浮気相手は過去に何人かおり、浮気相手に自らの子供を産ませたことがあります。

側室を用意する場合には正室の許可が必要だったため、徳川秀忠は「江」に無許可で浮気をしてしまいました。

浮気相手の女中は江戸城を出て、出産することを余儀なくされます。

のちにこの時生まれた子供が「江」の子供である徳川家光をアシストすることになるとは、誰も想像していませんでした。

徳川秀忠の妻「江」が後世に与えた影響

秀忠の妻である「江」は後世にさまざまな影響を与えました。

「江」が後世に与えた光の部分と影の部分、それぞれについて解説します。

多くの子供を産み徳川幕府を支える

「江」は徳川秀忠との間に7人もの子供を産みました。その中には3代目の将軍・徳川家光も含まれています。

徳川家光は、秀忠の浮気相手との子供である保科正之を重用し、異母兄弟ながら実の弟として扱っていました。

長女の千姫は豊臣秀頼と結婚し、大坂夏の陣では祖父の家康に助けられる形で命をつなぎました。

また末っ子の和子は、後水尾天皇の皇后として皇族となり、徳川家と皇族のパイプ役を務めています。

秀忠の浮気相手の子供である保科正之も含め、秀忠との間の子供たちが徳川幕府を支えたことは明らかです。

徳川家光を寵愛せず反感を買う

「江」は、徳川家光だけでなく、徳川忠長を産み、2人の男子に恵まれました。しかし、「江」はなぜか次男である忠長ばかりを寵愛したと言われています。

幼少期の家光が病弱で、決して端正な顔立ちではなかったことが理由の1つとされており、ストレートに愛情を注げなかったという説もあります。

逆に忠長は端正なルックスで活発で家光と真逆だったために、寵愛したとされます。家光は母からの愛を受けられなかったため、さまざまな問題行動を起こしてしまうのでした。

母「江」からの愛情を受けられなかった家光は、乳母である「春日局」からできる限りの愛情を注がれます。

「春日局」は逆転の一手として徳川家康に直談判し、半ば力業で家光を秀忠の世継ぎとして認めさせたのでした。

こうした背景があったため、「江」の晩年は決して高い評価とはならなかったのです。

一方、史料では「江」が家光を粗末に扱ったという記述はなく、本当のところは定かではありません。

また忠長が図に乗るようになり、父・秀忠、兄・家光からも愛想をつかされ、最終的に切腹に追い込まれたことも「江」の評価に暗い影を落とすことにつながったと言えます。