徳川秀忠は徳川家康の三男であり、江戸幕府第二代の将軍です。父である家康から将軍職を引継ぎ、また家康が行ってきた「天下普請」についても受け継ぎました。
天下普請とは築城はもちろん、河川の改修といった大規模な工事を、全国各地の大名に割り振ったことをいいます。建設資材に人手も負担させた天下普請は別の意味も持っていました。
家康が存命のうちに秀忠が将軍職を引継ぎ、また天下普請を受け継ぎ継続することで、豊臣秀吉亡き後の新政権は「徳川」であり、徳川以外にいないのだと周囲に強く示したのです。
秀忠は家康から天下普請を引き継ぐと、家康の遺命を守り抜き、幕府組織の整備にいそしみました。初代将軍の家康、また三代将軍の家光と比較すると地味なイメージがありますが、秀忠は将軍権力を強化し次世代に引き継ぐという大役を果たした将軍です。ではそんな秀忠が関係した「城」についてみていきましょう。
徳川秀忠が関わった城
江戸幕府第二代将軍「徳川秀忠」は、徳川家康が作り上げた治世を強化し、より盤石なものとして第三代将軍徳川家光に引き継ぎました。そんな秀忠は人生の中でいくつかの城と深く関わっています。
特に大阪夏の陣によって廃墟のようになってしまった大阪城を素晴らしい城に築城し直したことは、徳川の世になったことを世間に知らしめることとなりました。
徳川秀忠はどんな城とどのように関わったのか紹介します。
徳川秀忠が亡くなるまで居城とした「江戸城」
江戸城は東西に約5.5㎞、南北に約4㎞という非常に大きな城です。元々は太田道灌により築城された城ですが、徳川家康が大幅な改修を行いました。秀忠は1593年に家康から江戸城の守護を命じられます。
秀忠は榊原康政や大久保忠隣(おおくぼただちか)らに補佐を受けながら、江戸城をより強固な城にするよう邁進します。家康は秀忠に将軍職を継がせると、自分は駿府城に住まいを移しましたが、秀忠の拠点は死ぬまで江戸城でした。
江戸城はその後、明暦の大火により焼失し、その後本丸や二の丸が再建されましたが、天守は再建されていません。現在は天皇陛下がお住まいになっている皇居となっています。
徳川秀忠が築城を命じた「明石城」
豊臣家が滅亡しても西国の脅威に備える必要があるとして、姫路城を主軸に防衛の要となる複数の城が造られました。その1つが「明石城」です。1618年に当時の譜代大名だった小笠原忠真が、秀忠に命じ築造されました。
西の防衛は姫路城を中心に、明石城と尼崎城と3段構えです。そのうち明石城は淡路島にあった洲本城と連携を取ることもできます。また陸路以外、明石海峡等を利用し水陸両用で利用できる城として、防衛の大きなポイントとなっていました。
築城を命じられた秀忠は、こうした要となる重要な場所を理解し、求められていた「要」となる城を見事築城したのです。明石城の築城を見れば、秀忠はしっかりと軍略を練ることができる人物だったとわかります。
初代の上に築城した徳川家の「大阪城」
大阪城といえば「豊臣秀吉」の城というイメージがあります。しかし秀吉亡き後、大阪城は大坂夏の陣で落城しています。その後、廃墟のような状態になっていた大阪城を造り直したのが秀忠です。
焼き払われた初代の大阪城は、1620年に徳川幕府によって埋められました。その上に築城されたのが徳川の大阪城です。10年という長い歳月をかけ、大きく美しい城が完成したのです。
秀吉が築城した大阪城を土の中に埋め、その上に徳川の大阪城が鎮座することで、豊臣時代が完全に終わり、徳川の時代になったことを知らしめました。秀吉の初代大阪城はそのまま埋められていますので、現在の天守の下あたりに初代大阪城の石垣が埋まっています。
伏見城の資材を転用して築城した「淀城」
元々あった伏見城の廃城が決まり、別の地に城を造るよう、秀忠が松平定綱に命じ築城させたのが「淀城」です。淀城は伏見城の資材を転用する形で造られています。
淀城は、木津川・宇治川・桂川という3つの川が合流している淀川の要衝として築城されました。現在も本丸の石垣や内堀を見ることができますが、これが徳川の淀城です。
淀城の天守については、元々「大和郡山城」(豊臣秀長の城)の天守で、後に家康が京都の「二条城の天守」に移築しました。さらに徳川家光が二条城の改修をするときに淀城の天守として移築したといわれています。最終的に天守は756年の落雷によって焼失したそうです。
豊臣家再興を恐れた徳川秀忠と大阪城
豊臣秀吉が亡くなり、大坂夏の陣で秀頼と淀殿も死亡、それにより豊臣の時代は終わりました。自分の父親である徳川家康が初代将軍となり、怖いものはなくなったと思えるのですが、徳川秀忠にとってはそうではなかったようです。
秀忠は家康のような高い「カリスマ性」を持っているわけでもなく、軍事的な才能はないといわれていました。そのため豊臣家が滅亡してもなお、秀忠は豊臣家に恐怖心を持っていたのです。
そんな秀忠にとって「大阪城」は豊臣家のシンボルであり、どうしても「破壊」しなければならない城でした。
最初の大阪城
豊臣秀吉の大阪城は大阪の中でも唯一の高台でした。淀川、売大和川が海につながる河口付近にあり、海上交通の要でもあった場所です。古墳時代から栄えたこの一帯には、本願寺八世の蓮如が大阪御坊を建立し、それが本願寺総本山・大阪本願寺(石山本願寺)となりました。本願寺は一向一揆の元締めともなっています。
こうしたこともあり、秀吉の主君であった織田信長は1571年から実に10年もの間、石山合戦を繰り広げ、最終的には和議を成立させ大阪を手中にしました。本能寺の変で倒れることがなければ、信長は自分の政権拠点として大阪をあげていたといわれています。
秀吉にとっても主君が固執した大阪を狙っており、信長亡き後、翌年には柴田勝家を下し本願寺跡地に入り、すぐに大阪城築城に着手しました。
1585年には本末が完成、1588年に二の丸、1594年から城下町を構築し、1598年に秀吉が亡くなってから最後の大工事があり、最初の大阪城がとうとう完成したのです。
豊臣の痕跡を執念で消し去った徳川の大阪城
大坂夏の陣で豊臣秀頼と淀殿が自害し豊臣家が滅亡すると、徳川家康は大阪城に外孫の「松平忠明」を入城させ、城と城下町の復興にあたらせました。しかし実際には忠昭の屋敷は城外にあり、本格的な改修とはなりませんでした。
大がかりな復興に着手したのは、秀忠が大阪の直轄領となり、再建の施主となってからです。この大阪城の再建は、ただ作り直せばいいということではなく、「徳川家の圧倒的な力」を見せつけるものであり、また西の大名たちに「徳川に逆らうべきではない」と知らしめることが必要でした。
秀忠は大阪城再建の総奉行に任命した「藤堂高虎」に、石垣・堀の深さを初代大阪城の2倍にするよう指示したと記されています。1620年に始まった工事は、土木工事を天下普請により西国と北陸の外様大名に請け負わせ、建築工事は幕府直轄で行ったと伝えらえれています。
結果的に、二の丸の南側に幅最大75m、約2キロにわたる南外堀が完成、対岸にある屏風折れの石垣と本丸東面の石垣は、根底から30mという高さになりました。まさしく秀忠が構想していた2倍の規模となった「新大阪城」は、豊臣の痕跡を消しつくしました。
大阪城を再建する徳川秀忠
徳川家康は名古屋城や駿府城を築城する際、天下普請により諸大名たちに工事を請け負わせました。これにより大名たちが持っている城作りのノウハウを利用することができ、また経済力が疲弊すれば謀反を考えるものもいなくなります。家康は築城によって諸大名と主従関係を構築したのです。
秀忠はこれに倣い、大阪城再建でしっかりと諸大名たちとの主従関係を築きました。仮に家康が早く亡くなり秀頼を担いだかもしれない豊臣側の大名に、秀忠は10年という長きに渡り築城の義務を負わせたのです。これにより、諸大名たちと秀忠は、堅固な主従関係となっています。
大阪城を再建することで、徳川の権力を強く世間に知らしめると同時に、秀忠は豊臣への恐怖心を消し去りました。
三英傑が狙った大阪城
大阪城は豊臣秀吉、徳川家康、そして織田信長という戦国時代の三英傑が狙った城でした。それほど、立地条件に優れ、様々な意味を持つ城だったのです。
織田信長は当時大阪城の場所にあった「石山本願寺」と10年もの間「石山合戦」を繰り広げ、とうとう和議によりこの地を我が物としました。明智光秀の謀反がなければ、大阪城は信長の城だったでしょう。
本能寺の変で織田信長が世を去り、後継者問題を解決すべく行われた清須会議において、大阪は池田恒興に与えられました。しかしすぐに国替えとなり、1583年、豊臣秀吉により5層の大天守を持つ壮大な大阪城の築城が開始されます。最終的に5層6階、金の鯱を装飾した屋根を持つ大阪城が完成しました。
秀吉亡き後、秀頼の自害により大阪城は焼き払われたのですが、この上に豊臣を消し去るように作られたのが、徳川の大阪城でした。つまり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と三英傑が常に政略の主軸としていたのが、大阪城だったのです。
家康から天下普請を受け継いだ2代目将軍 徳川秀忠
徳川秀忠は徳川家康の三男として生まれました。戦国時代では通常、家督を継ぐとなると長男になるはずです。しかし長男の信康は妻であった徳姫に陥れられ、織田信長の命により自害させられています。また次男の秀康は結城家を継いだため、三男の秀忠が徳川の家督を継ぐことになりました。
秀忠は歴史の中で家康や家光のように派手な活躍は見られません。しかし家康が築いてきた徳川帝国を確固たる大帝国としたのは「秀忠」です。豊臣再興を恐れていた背景があるとしても、家康から「天下普請」をしっかり受け継ぎ、武家諸法度など数々の施策を実施しています。
天下普請により諸大名たちとの主従関係を徹底的に作り上げたことで、秀忠は徳川の世を堅固なものとし、家光に引き渡すことができたのです。現代ではよく2代目は大成しないなんて聞きますが、秀忠は堅実・着実にお家を守った将軍といえるでしょう。