真田家は、幸村の祖父の時代から武田家の家臣としてさまざまな戦いに参加し、武田家滅亡のあとも上杉家・織田家・豊臣家などに従事しながら戦国時代を生き抜いてきました。

真田幸村は、父昌幸から譲り受けた優れた軍略を持ち、劣勢な状況下でもいくつもの戦いで強さを見せてきましたが、その強さも真田家を支えた家臣の力があってこそです。

今回は、真田家の強さの源となった家臣団について詳しく解説していきます。また、真田幸村の家臣は忍者集団とも呼ばれており、現在でも真田十勇士の存在は語り継がれていますので、その点についても深堀りしていきたいと思います。

真田幸村の強さの裏にどのような家臣たちがいたのか、興味を持っていただけた方はぜひ最後までお読みください。

真田家臣団 | 何度も敵を撃退した強さの源

真田家は、幸村だけではなく祖父や父の代から戦の強さが認められており、数多の武将たちの家臣として活躍しています。その強さの源は、やはり真田家を裏で支え続けた家臣団の存在が大きかったのではないでしょうか。

真田家を支えた家臣団や、透波と呼ばれた忍者集団について詳しく解説していきます。

真田家臣団一覧

幸村の父昌幸が持っていた領土ですが、長野県上田市周辺と群馬県北部の一部と周囲の武将たちに比べると小さいのが特徴です。

その小さな領土を守るためには、真田家を支える家臣の存在はとても大きいものでした。

  • 家臣団名称
  • 一門衆
  • 普代衆
  • 信濃衆
  • 吾妻衆
  • 沼田衆
  • 旧武田家臣

真田家を支えた家臣団は、主に上記の6つの衆から構成されており、それぞれが力を発揮することで数多の戦いで敵を撃破してきたのだと思います。

真田家の家臣は、幸村の祖父の代から真田家に従事していた武将たちと、武田家滅亡後に父昌幸に従事していた武将たちに大別されますが、彼らの力があったからこそ真田家は強さを発揮していました。

また、上記の家臣団には記述がありませんが、正攻法ではなく他の武将とは違う戦い方で劣勢を切り抜けてきた真田家は、忍者の使い手として周囲に伝承されていきました。

透波と呼ばれた忍者集団を従えていた真田家

そもそも真田家が忍者の使い手と呼ばれるようになったのは、父昌幸が家臣として仕えていた武田家にあります。

武田家は、三ツ者と呼ばれる陰密集団を使って敵を撃退していたのが特徴で、透波の力をうまく利用できる真田家を家臣として引き入れたかったという思いが強かったといわれています。

真田家が、古くから歩き巫女と呼ばれる降霊術を使えるグループを配下にしていたという記述もあり、こうした情報ネットワーク集団が派生して透波と呼ばれる集団を形成していたようです。

忍者集団が実際に存在していたのかどうかその真偽は正確には不明ですが、真田十勇士の存在が伝承されていることからも、真田家と忍者集団に関する記述は多く残っていることが分かっています。

特に、出浦盛清と横谷幸重は真田忍軍透波の頭領として、真田家が関わる重要な戦いに参加していたとの記述も残っています。

真田十勇士 | 人物像やモデルとなった人物

真田十勇士とは、明治・大正時代にその名をしらしめた創作上の忍者集団とされています。十勇士の存在自体は架空の創作物語になりますが、その人物像は実在した人物がモデルになっています。

ここからは、真田十勇士について詳しく解説していきます。

猿飛佐助

猿飛佐助は、三雲佐助賢春(みくもさすけよしはる)をモデルにしたといわれています。三雲氏は、守護大名であった六角氏の重臣・三雲成持の甥との説があります。

また、上月佐助(こうづきさすけ)という伊賀の下忍をモデルにしたのではという説もあります。そういわれる所以は、どちらも名前に「佐助」が入っているからとのことです。

戸隠の里で育った忍術の名人として甲賀流忍術を使いこなすという設定で登場する佐助ですが、五遁の術を使う変幻自在の忍者として真田十勇士のリーダーのような存在です。

後述する霧隠才蔵とはライバル同士だったようで、最期は幸村とともに大坂の陣で亡くなったとされています。

三好清海入道

三好清海入道は、三好政康(みよしまさやす)をモデルにしたといわれており、名前の由来は法名が清海だったためといわれています。

イメージですが、僧侶のような見た目で高齢・怪力という特徴を持ちながら、愛嬌もあるため人気があります。

清海入道は、大坂夏の陣の際に自害するのですが、自分で切腹したあと首も切って亡くなるという豪快な最期を迎えています。

三好伊佐入道

三好伊佐入道は、上述した三好清海入道とは兄弟の設定で三好政勝(みよしまさかつ)をモデルにしたといわれています。名前の由来ですが、政勝の法名が為三(いさ)であったからとの説です。

伊佐入道は、最期に「落ちゆかば、地獄の釜を踏み破り、あほう羅刹(らせつ)のことを欠かさん」と言い残して大坂夏の陣で亡くなりました。

穴山小助

穴山小助(あなやまこすけ)は、その名前の通り武田家家臣であった穴山信光の長男穴山小助といわれていますが、穴山信光の存在自体が架空の人物なのではないかという説が現代では有力となっており、小助が実在したのかどうかも疑問視される声が大きくなっています。

幸村と年齢や姿形が近く、幸村の影武者として活躍し、影武者団の中でもリーダー的存在です。幸村の最期の戦いとなった大坂夏の陣でも、影武者として亡くなっています。

槍使いで、父と共に戦場を渡り歩いていたところ実力が幸村の耳に入り、そこからは真田十勇士の中で最も古株として仕えています。

由利鎌之介

由利鎌之介は、その名前の通り由利鎌之介(ゆりかまのすけ)という真田家家臣のひとりをモデルにしたとされていますが、上述した小助と同じように鎌之介の存在自体が架空の人物なのではないかとされる声が最近では大きくなっています。

槍の名手として最初は真田家の敵だった鎌之介ですが、小助に負けたことで真田家に仕えるようになっています。

関ヶ原の戦いの際は、幸村の指示で戦いにはいかず江戸の情勢を探るために道場を開き、その後の戦いでは重要な局面でいつも幸村のそばにいました。

大坂の陣では幸村とともに徳川家康を追い詰めますが、その後消息がどうなったのかは不明です。

霧隠才蔵

霧隠才蔵は、真田家に仕えた忍者の棟梁出浦昌相(いでうらもりきよ)や幸村直属の忍者であった霧隠鹿右衛門(きりがくれしかえもん)をモデルにしたとされていますが、鹿右衛門に関しては実在したかどうか不明です。

真田十勇士の中で最も名が知られている忍者で、伊賀で忍術を学んでおり、猿飛佐助と忍術勝負をして負けたため真田家に仕えるようになりました。猿飛佐助とはライバル関係にあります。

目くらましが得意な隠密活動を得意とする忍者で、クールで無口な性格が人気の秘訣です。大坂の陣では、徳川家康の首を取ることはできませんでしたが、豊臣秀頼が脱出するのを助ける姿が描かれています。

根津甚八

根津甚八は、禰津小六(ねずころく)という実在した真田家武将をモデルにしたとされていますが、浅井井頼(あざいいより)をモデルにしたのではないかという説もあります。

元々は海賊の頭領だった甚八ですが、幸村が豊臣秀吉の人質だった時代に出会ってそこから真田家に仕えるようになりました。元海賊ということもあり、水軍を率いるのに優れています。

幸村にとって重要な戦いである関ヶ原の戦いや大坂の陣では、幸村の影武者として活躍をみせましたが、大坂夏の陣の際に小助とともに亡くなっています。

筧十蔵

筧十蔵は、筧十兵衛(かけいじゅうべえ)という幸村に仕えていた武将をモデルにしたとされています。

元々は、豊臣家家臣のひとりでしたが、幸村の魅力に惚れてからは真田家に仕えるようになります。幸村が小姓のときから真田家に仕える古参忍者です。

豪快な性格でありながら、幸村からの信頼は厚く狙撃隊隊長も任されていました。大坂の陣でももちろん幸村とともに活躍しましたが、敗戦してしまったためその後は薩摩落ちしたことになっています。

海野六郎

海野六郎は、海野六郎兵衛利一(うみのろくろうべえりいち)という真田家家臣をモデルにしたとされています。甚八や後述する望月六郎と同じく信濃国の有力な武将で、十勇士古参のひとりです。

頭脳明晰で幸村からの信頼が厚かったため、参謀として活躍し、幸村の右腕と呼ばれていました。歌舞伎踊りが好きな六郎は、踊っている姿を幸村に気に入られて家臣となりました。

大坂夏の陣の際は、参謀として敵陣に偽の情報を拡散するなどして敵陣営を混乱させて戦いに貢献しましたが、惜しくも敗戦したあとは幸村とともに亡くなったとも薩摩落ちしたともいわれています。

望月六郎

望月六郎は、真田家家臣の望月家の誰かをモデルにしたのではないかという声もありますが、はっきりと誰かは明かされていません。信濃国の滋野三家と呼ばれた有力武将で、十勇士古参のひとりです。

幸村からの信頼が厚かった六郎は、諜報活動を任されており、真田家の留守を守りながら爆弾製作などを主におこなっていました。地雷火や大筒の扱いが上手で、爆弾のプロとして描かれています。

大坂の陣では幸村の影武者のひとりとして活躍し、最期まで敵陣に突撃していきましたが一歩及ばず自害しています。

真田幸村の家臣に関する質問

最後に、真田幸村の家臣に関してよくある質問をまとめました。

今回は真田家の家臣についてフォーカスしましたが、幸村が仕えていたのは誰だったのか、気になる真田十勇士の存在についてはどうだったのか回答していきます。

真田幸村は誰の家臣だったのですか?

真田家は、幸村の祖父の代から武田信玄に仕えていたため、幸村が誕生したときはまだ武田家の家臣でした。ただ、幸村誕生後すぐに信玄は病死してしまい、その後武田家は滅亡に向かいます。

武田家滅亡のあとは、真田家は存続のために幸村を上杉家に人質として送ります。その後も織田家・豊臣家の家臣として戦国時代の荒波の中を戦い抜きました。

幸村は、大坂の陣で敗戦して亡くなるまで豊臣家に忠誠を誓ったことで有名です。

真田十勇士は本当に存在したのか?

真田十勇士は、架空の人物で構成された創作上の忍者集団です。ただ、十勇士の人物像に関しては実在する人物をモデルにしたといわれています。

真田家は真偽は確かではありませんが、現代でも忍者集団透波の使い手として語り継がれています。その背景には、創作上の架空の忍者集団である真田十勇士の存在があったのかもしれません。