日本の歴史の中で、260年間という長く続いた歴史を誇る「江戸時代」この幕開けを築きあげた人物が徳川家康です。
この徳川家康の子孫たちの活躍があり、平和な世の中が続き、ドラマや映画の舞台にもなる「江戸」というものを作り出しました。
そこで本記事では、歴史的に重要な徳川家康の子孫をまとめてご紹介します。
徳川家康の子孫|実子
徳川家康の子供は計16人もおり、たくさんの子供を持つことで有名な武将です。
その内訳は男性が11人。
娘が5人もいたとされています。
そんな徳川家康の直系の子孫のなかから、重要人物5人をご紹介します。
長男 徳川信康
父の徳川家康が、今川氏の人質に囚われていたときに、誕生したのが長男の松平信康です。
産まれた当初、父親は徳川家康ではなく松平元康であり、現在の静岡県静岡市にある「駿府城」で誕生しました。
長男ということで、後継ぎの筆頭人物であったものの産みの母親と共に、謀反の疑いをかけられ早くに亡くなっています。
二男 結城秀康
父親の徳川家康が「浜松城」の城主であったときに結城秀康は誕生しました。
元々は双子でしたが、もう一人の子は亡くなり、結城秀康のみが育てられることになります。
秀康は「九州征伐」で先鋒として初陣を飾り「岩石城」を攻める際にも先鋒として、活躍しました。
その後も、後北条氏を討つための「小田原征伐」にも参戦し活躍する功績を残しています。
三男 徳川秀忠
徳川家康の三男にして、徳川15代将軍の2代目となったのが徳川秀忠です。
有名なエピソードとして「関ヶ原の戦い」に遅れたことで、父の徳川家康を怒らせたというものがあります。
3年もの間は許されなかったものの、徳川家康は徳川秀忠を右近衛大将に任命し、後の徳川2代目将軍となりました。
九男 徳川義直
徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利した年に、徳川義直は誕生しました。
天下統一後に組まれた「徳川御三家」の筆頭となる「尾張藩」の初代藩主を務めています。
「尾張徳川家」として、現在の愛知県となるエリア「尾張藩」を率いており、そのシンボルとして「名古屋城」を建築しました。
また徳川義直は戦いのスキルが高く、120m先の的を弓矢で射抜き、領地では知識を教えるなど、頭の良いリーダーという、文武両道の人物とされています。
十男 徳川頼宣
徳川家康の十男となる徳川頼宣は、徳川御三家「紀州徳川家」を任されていた人物です。
現在の和歌山県にあたるのが、紀州藩で初代藩主を務めていました。
徳川家康の期待が高く、幼少のころから領地を受け取り、領主としての手腕を発揮しました。
紀州藩を良くするべく、教育や法令などを整備し、産業を活発にするなど、紀州藩は大きく発展させることに成功。
徳川頼宣は、父親の徳川家康の期待どおり活躍をすることになります。
十一男 徳川頼房
徳川家康の十一男として誕生した徳川頼房は、徳川御三家「水戸徳川」を率いた人物です。
徳川三代目将軍となる徳川家光と、年齢差が1つしかないことから、幼少期より仲が良かったことでも知られています。
文武両道でマルチな才能を見せて、水戸藩を発展させていくのですが、この徳川頼房はある有名人の父でもあるのはご存じでしょうか?
それが水戸黄門で知られる「徳川光圀」です。
徳川家の子孫存続に重要な徳川御三家
徳川家康を語るうえで、おさえておきたいのが「徳川御三家」です。
徳川御三家とは「尾張徳川家」、「紀州徳川家」、「水戸徳川家」の3つのエリアに分かれ、徳川家の武将が統治をしてました。
江戸時代には、今の都道府県の役割を果たす「藩」が300以上あり、その中でも主要なものが徳川御三家なのです。
ここからは、徳川御三家それぞれを、どのような統治の仕方をしていたのかご紹介します。
尾張徳川家
徳川家康の九男「徳川義直」が尾張(現在の愛知県)を治めていたのが、尾張徳川家です。
徳川御三家の中でも、屈指の家柄となっており、数々の大名たちが地位を築きあげていきました。
3つある徳川御三家のなかでは、唯一江戸幕府将軍の継承がなく、尾張徳川家として文化を作り上げていきます。
江戸時代後期におきた「戊辰戦争」では、倒幕に賛成する新政府軍と組んだ唯一の徳川御三家です。
また、資金が豊富にあった裕福な家柄でもありました。
紀州徳川家
徳川家康の十男である「徳川頼宣」が、紀伊国と伊勢国(現在の和歌山県南部から三重県南部伊勢エリア)を治めていたのが「紀州徳川家」です。
徳川八代将軍となる「徳川吉宗」が五代目当主となったことでも、知られています。
徳川吉宗が当主をしているときに、徳川の血筋が絶えないように「徳川御三卿」を創り、後継者が続くようにしました。
水戸徳川家
徳川家康の十一男である「徳川頼房」が常陸国(現在の茨城県)を治めていたのが水戸徳川家です。
水戸徳川家の特徴としてあげられるのは、水戸藩主は参勤交代を行っていなかったことが挙げられます。
水戸藩主は常に江戸に住む「定府」だったことから、参勤交代の必要がありませんでした。
また水戸藩主はそのことから「副将軍」と呼ばれるようになり、儒学をベースとした水戸藩独自の「水戸学」を作り、この思想は幕末まで影響を与えたのです。
覚えておきたい徳川15代将軍
歴史の授業などで、ずらりと徳川15代将軍が並べられると、覚えるのに億劫だ。
と感じる人がいると思います。
しかし、テストなどにピックアップされる徳川15代将軍は、ある程度決まっているのはご存じでしょうか。
そこで、ここからは江戸時代のなかでポイントなるトピックスを、徳川15代将軍の人物からご紹介します。
3代目 徳川家光
江戸幕府3代将軍「徳川家光」は
「我は生まれながらの将軍である」
という言葉を残したように、幕府の制作を数多く打ち出した人物です。
徳川家光は、長く続くことになる江戸幕府の基礎を築きあげました。
徳川家光が行ったことは、幕府の運営に以下の役職を作り、それぞれの役目を決めていくことです。
・老中
・若年寄
・奉行
・大目付
・評定所
そして、もう一つ重要なのが「参勤交代」制度です。
参勤交代は、各地の領主は領地と江戸を各1年過ごさなければならない制度のことをいいます。
また領主の正室(奥さん)と子どもたちは江戸に常住するルールがあり、費用が大きくかかりました。
これにより、領主が必要以上の財力と権力を持つことを防ぎ、江戸幕府への謀反を防いでいたのです。
5代目 徳川綱吉
徳川5代目将軍となる「徳川綱吉」は、みなさんも歴史の授業のなかでもキャラの濃い将軍として覚えているのではないでしょうか。
その理由は、動物にひどいことをすると罰せられた「生類憐れみの令」です。
このような悪法を生み出してしまったのには、理由のひとつに、自身の息子である「徳松」が早世してしまったから。
ということも言われており、寂しさが強すぎるあまり、このような悪法を生み出してしまった可能性があるのです。
また、もともと将軍になる予定ではなかったということも、エピソードとして知られています。
8代目 徳川吉宗
徳川15代将軍の中で、知名度も高く「暴れん坊将軍」のモデルにもなったのが8代将軍「徳川吉宗」です。
時代劇の主人公というイメージが強いですが、江戸時代のなかで改革的な「享保の改革」を政策として打ち出しました。
教科書ではよく聞く「享保の改革」ですが、簡単にいうと江戸幕府の財政を見直そう!という政策です。
もともと紀州藩の藩主だった時代の成功例を活かし、幕府の支出を見直すことから始めました。
さらに、新田の開拓や商品作物(売るための作物)を育てることを、市民に勧めたことで農業を盛んにし税収アップへとつなげました。
15代目 徳川慶喜
徳川15代将軍の最後の将軍となったのが、徳川慶喜です。
水戸藩主の徳川斉昭の息子で、幕政改革後に徳川14代目将軍の徳川家茂の後見職となります。
その後に徳川家茂が亡くなったことで、将軍の地位を得ることができました。
しかし、その時代は日本が幕府の存在のない、新しい日本を作り出そうとしているときでした。
結果的には1年後には、武将が政権を握っていた時代から、大政奉還で朝廷へと政権を移し「現在の政治システム」がスタートしたのです。
徳川慶喜は将軍を引退したあと、静岡で隠居生活を送っていました。
現代にいる徳川家康の子孫
徳川家康の子孫は、脈々と引き継がれ現代の日本にも存在します。
しかし、言われなければ気付けないことも多く、自分自身が徳川家康の子孫だった。
というのも後に知ることになる人もいます。
そんななかで、芸能人で徳川家康の子孫であることを公表した方がいるのです。
それが、男女お笑いトリオ「ぱーてぃーちゃん」の信子さんです。
大分県出身ではありますが、徳川家の末裔であることを家族から聞き伝えられていたと公表しています。
実家が裕福なのが有名ですが、徳川家の末裔だからではなく、父親が不動産業で成功したからだそうです。
また曾祖母までは名字が徳川でしたが、信子さんの結婚前の姓である「大野」と変更したというエピソードも公表されています。