豊臣秀吉は天下統一を果たしましたが、子宝にはなかなか恵まれませんでした。実子は3人しかおらず、そのうち2人は幼い頃に亡くなっています。秀吉が亡くなった後に家督を継いだもう1人の実子「豊臣秀頼」は徳川家康に追い詰められ、大阪城で母「淀殿(茶々)」と自害しました。

しかし秀頼には子どもがいましたし、もしかしたら別の側室が秀吉の子を生んでいた可能性もあります。今となっては事実を知ることもできませんが、今回は豊臣秀吉の「末裔」についてたどります。

豊臣秀吉の末裔をたどるとなれば、豊臣家として秀吉の正妻「ねね」側、そして秀吉の実姉「とも」側も調べてみる必要があるでしょう。秀吉、ねね、とも以外、末裔の可能性がある人物についても解説します。

豊臣秀吉の末裔は生きているのか?

豊臣秀吉は現代でも人気のある武将です。歴史の教科書にも登場する人物ですから、豊臣秀吉の末裔について知りたい人も多いでしょう。

秀吉の末裔について、実子、さらには孫、豊臣家の末裔として正妻「ねね」の末裔、秀吉の実姉「とも」の末裔について紹介します。

豊臣秀吉の実子「秀勝」「鶴松」「秀頼」

豊臣秀吉の実子は「石松丸秀勝」「鶴松」「秀頼」の3人です。早く生まれた順に紹介します。豊臣秀頼以外は幼いうちに亡くなりました。石松丸秀勝のほかに女の子が生まれていますが、母親の名前などはわかっていません。

そのため南殿が母親であるとされている女子については、ここで紹介していません。

  • 石松丸秀勝(羽柴秀勝)
    実子の秀勝は秀吉が長浜城の城主だった頃に誕生した子です。秀吉にとって初めての男児だったと伝承されていますが、生年・生母などは明らかになっていません。ただ側室の「南殿」の子だったのではないかと伝えられています。
    秀吉は多くの養子をとっていますが、秀勝という名は養子にも使われています。織田信長の四男の「於次丸」、姉「とも」の子「小吉」にも秀勝という名があります。そのため、実子の秀勝は石松丸秀勝と呼ばれています。
    現代に伝わる長浜の曳山祭は1574年、秀吉に男児が生まれたことを祝い始まったといわれています。死没は1576年と伝えられているため、2歳くらいで亡くなったようです。

 

  • 鶴松
    1589年に53歳の秀吉と茶々の間に生まれた子が鶴松です。秀吉は鶴松が生まれ狂喜乱舞しました。棄て子はよく育つという民間信仰に沿って「棄(すて)」という名を付けたほどです。長男の石松丸秀勝も幼くして亡くなっているので、とにかく無事に育ってほしいという願いを強く持っていたのでしょう。
    鶴松が4か月になるころには後継者にしようと考えていたようで、茶々と共に大阪城に迎え入れています。しかし鶴松は体が弱く3歳で病気により亡くなりました。
    鶴松が亡くなった際の秀吉の嘆きようは驚くほどで、やっとの思いで手にした関白職を甥の秀次に譲ってしまったほどです。

 

  • 秀頼
    鶴松と同じ茶々との間に生まれたのが秀頼です。秀頼は秀吉が57歳の時に生まれました。やはり当時の民間信仰に倣い丈夫に育つようにと「拾丸(ひろいまる)」と名付け、一度棄ててから拾い上げる形を取りました。鶴松が亡くなったことで関白を退き、後継者として甥の秀次を選んでいた秀吉は、秀頼が生まれたことでどうしても秀頼を後継者にしたいと考えます。秀次は最終的には謀反の疑いをかけられ切腹に追い込まれました。秀次の死により秀頼が後継者と決まり、秀吉亡き後は大阪城に入りました。
    秀頼は正室である千姫との間には子どもがいませんでしたが、側室の「伊茶」との間に「国松」が生まれており、母はわかりませんが女子「奈阿姫」も生まれています。

豊臣秀吉の孫 「国松」「天秀尼」「求厭」

豊臣秀吉の実子「豊臣秀頼」の正室「千姫」は徳川家康の三男「徳川秀忠」の長女です。この千姫との間に子供はできませんでしたが、側室「伊茶」との間に「国松」という男子が誕生しました。また国松のほか、奈阿姫(のちの天秀尼 (てんしゅうに))という女の子がいましたが、国松と同じ母親なのかなどはわかっていません。

もう1人、求厭(ぐえん)という浄土宗の僧侶が臨終の際、自分が国松の弟だと明かしています。

  • 国松
    国松は生後すぐ若狭京極家に預けられました。若狭京極家は秀頼の叔母である常高院の嫁ぎ先です。大阪冬の陣の際、秀頼の隠し子だと詮議されないようにと大阪城に入り、初めて父である秀頼と対面したといいます。一度は和議となり国松は大阪城にそのまま滞在していました。
    その後、大阪夏の陣が起き、国松は父秀頼と盃を交わし別れを告げ、田中六左衛門・乳母と共に落ち延びます。しかし伏見農人橋でつかまり、市中車引き回しの後に六条河原で斬首されました。国松はまだ8歳という年齢で斬首されたのです。

 

  • 天秀尼(てんしゅうに 奈阿姫)
    国松と同じ母なのかどうかわかりませんが、国松と年子の妹がいました。それが奈阿姫です。大阪城にいる頃から秀頼の妻である千姫の養女だったといわれていますが、国松同様、乳母に育てられ7歳で大阪城に入り、大阪城落城後、千姫の養女となったと考えられています。
    秀頼の実子でも女子であることや千姫からの嘆願があり、仏門に入ることを条件として処刑を免れました。落城後、鎌倉の縁切り寺「東慶寺」への出家が決まり「天秀尼」となり、たった8歳で仏門に入ったのです。尼になったことで子はなく、37歳で亡くなっています。

 

  • 求厭(ぐえん)
    江戸時代初期の浄土宗の僧であった「求厭」は、臨終する際、自分が豊臣国松の弟であり、大阪夏の陣で衛士に江戸で匿われ処刑されなかったといったそうです。求厭も僧侶であり子はいませんでした。求厭は80歳で亡くなっていますが、求厭が本当に秀頼の子であったなら、1688年までは豊臣秀吉直系の血が存在していたということになります。

豊臣家の血脈・・ねねの末裔は?

秀吉の子「秀頼」が亡くなり、秀頼の子であった「国松」も斬首され、奈阿姫と求厭(秀頼の子であったとして)が仏門に入り子がなかったとなれば、豊臣秀吉の血脈は途絶えたことになります。

しかし「豊臣家」ということを考えると秀吉の妻「ねね」(北政所)の末裔はどうなのでしょう。もしもつながっていたのなら、現代に豊臣家の末裔がいるかもしれません。

ねねの兄である木下家定は杉原という姓でしたが、秀吉の出世に伴い家人となり、木下姓となりました。1587年には羽柴姓となり豊臣についても下賜されています。

実はこの木下家、関ケ原の合戦・大阪夏の陣は「徳川方」でした。家族を守るためには致し方なかったのかもしれません。

家定の子「利房」は備中足守藩、延俊は豊後国日出藩を開いており、江戸幕府より豊臣姓を名乗っていいといわれていました。つまり、豊臣秀吉の直系ではないにしても、豊臣姓を継いだねねの末裔である木下家定の系統は2家、現在まで続いているそうです。

豊臣秀吉の姉「とも」の末裔は?

豊臣秀吉には姉がいました。「とも」という名で、秀吉はこの姉からも養子をとっており、それが秀勝です。秀勝は浅井長政の娘である「お江」と結婚し「完子」という子が生まれました。

完子は九条忠栄(江戸時代初期の公家 藤氏長者であり、藤原氏摂関家九条流 九条家の当主)に嫁いでいます。九条忠栄の子孫は大正天皇の皇后であった九条節子様です。つまり今上天皇陛下は豊臣・浅井の血脈があり、ともの末裔は現存しているということになります。

豊臣秀吉の孫「国松」の生存説は本当なのか

豊臣秀吉の直系子孫は現存していませんが、秀吉の妻「ねね」の兄、日出藩木下家は現存しています。その木下の家では古くから「口伝」によって「国松」が生き延びたと伝えられているのです。

木下家では「国松が真田信繁(幸村)の嫡男である大助らと共に、薩摩に落ち延びた」と伝えられてきました。その後は日出藩に移り住み、木下家の二代目藩主「俊治」の弟「延由」と改名し、日出藩から5千石の分封によって立石藩主となったそうです。

延由は参勤交代を行う旗本となり、その際には羽柴姓まで与えられていたといいます。この話は一子相伝の口伝で伝えられるもので、木下家では代々厳格に受け継がれてきたのです。

もしもこの国松の話が本当で生存していたとしたら、豊臣秀吉の血脈が今も存在しているのかもしれません

豊臣秀吉の実子「秀頼」の妻「千姫」の末裔

豊臣秀吉の実子である「秀頼」は千姫と結婚しています。千姫は徳川秀忠と浅井長政の三女お江の娘です。千姫は大坂夏の陣で徳川家康の命により落城する大阪城から救い出されました。千姫が秀頼と側室の間に生まれた奈阿姫(のちの天秀尼)が処刑されないように養女にしたという話は有名です。

秀頼の死後、千姫は桑名藩主「本田忠政」の嫡男「本田忠刻」と再婚しています。忠刻と千姫の間には「勝姫」が生まれており、この勝姫の血筋が「徳川慶喜」に続いています。

本田忠刻の母「熊姫」は松平信康の次女であり、信康は徳川家康の長男です。信康は母である築山殿と共に「父」から自害を命じられた悲劇の武将としても知られています。

現在でも千姫の子孫は現存しています。

豊臣秀吉は子どもができない身体だった?

豊臣秀吉は実子は少ないけれど側室の数は多い武将です。多くの側室がいる中でなぜ、長浜時代の側室と茶々だけが懐妊できたのか?不思議に思う方も多いでしょう。側室は子を生んだ経験がある女性もいましたが、それでもたった2人の女性しか秀吉の子を生んでいないのです。

秀吉は幼い頃におたふく風邪にかかり不妊になったという説があります。長浜時代の側室についてはわかりませんが、淀殿に至っては浮気をしていたのではないかともいわれています。浮気相手だろうといわれていた「大野治長」は大坂夏の陣で秀頼・淀殿に殉じ自害したそうです。

また淀殿が秀頼を身ごもった際、秀吉と淀殿は離れていたので妊娠できるわけがないという説もあります。秀頼の受胎日を想定してみると1592年11月4日頃であり、秀吉は1592年10月1日に大阪から九州へ向かっており、11月5日には現在の佐賀県「備前」にいました。淀殿が戦に同行したのならわかりますが、大阪城にいたのなら妊娠できるわけがありません。

既に長い年月が経過していますので、真実は闇の中です。