豊臣秀吉は戦国時代の中で初めて天下統一を果たした武将です。また秀吉は農民から天下人となった人物としても知られています。人の心をつかみ、人を巧みに使い、「人たらし」といわれた秀吉は、戦国の世を実にうまく生きたのです。

15歳で織田信長に仕えた秀吉は戦いに参戦するようになると、類まれなるアイデアと行動力で次々と武勲をあげていきました

秀吉は他の武将とは違う戦略を打ち出し、「逃げ」の戦術や「武力を用いない」戦いを繰り広げました。秀吉の戦いを見ていくと、織田信長ですら成しえなかった天下統一を、なぜ農民上がりの秀吉が成し得たのかわかってきます。

今回は秀吉が生涯において参戦した「戦い」を通して、秀吉独自の戦い方を紹介します。

豊臣秀吉の戦い一覧

戦い 西暦 出来事
桶狭間の戦い 1560年 織田信長と今川義元の戦い
秀吉は織田軍足軽として参戦
観音寺城の戦い 1568年 織田信長と六角承禎の戦い
秀吉は支城箕作城を撃破
阿坂城の戦い 1569年 織田信長が伊勢侵攻
秀吉は阿波城攻略を任され勝利
金ヶ崎の戦い 1570年 織田信長と朝倉義景の戦い
秀吉は殿を務め「金ヶ崎の退き口」(逃げ)に成功
姉川の戦い 1570年 織田・徳川軍と浅井・朝倉軍の戦い
秀吉は小谷城下を焼き横山城で守備
比叡山焼き討ち 1571年 織田信長の命により浅井・朝倉に味方していた比叡山延歴寺を焼き討ち
一乗谷城の戦い 1573年 織田信長と朝倉義景の戦い
秀吉は撤退する朝倉義景を追撃
小谷城の戦い 1573年 織田信長と浅井長政の戦い
秀吉は虎御前山の砦で浅井・朝倉軍を撃退
長篠の戦い 1575年 織田・徳川軍と武田勝頼の戦い
秀吉は織田本隊として参戦 鉄砲の利用により武田軍を撃破
信貴山城の戦い 1577年 織田信長に謀反を起こした松永久秀との戦い
秀吉は援軍として信貴山を包囲
第一次上月城の戦い 1577年 織田信長の命により中国地方攻略のため毛利軍の軍事拠点「上月城」を陥落
第二次上月城の戦い 1578年 毛利軍に寝返った別所長治討伐に向かっている間に備中高松城本陣が毛利の猛攻にあい上月城が攻略される
有岡城の戦い 1578年 織田信長帰属の荒木村重が謀反
秀吉は有岡城を包囲
三木合戦 1578年~1580年 三木城に籠城していた別所長治に対し秀吉の軍師「竹中半兵衛」策の兵糧攻めを行う(三木の干殺し
長水城・英賀城の戦い 1580年 毛利軍に寝返った宇野政頼らの居城「長水城」「英賀城」を陥落 播磨平定
有子山侵攻攻 1580年 織田側の山名祐豊が毛利氏と和睦
秀吉は山名氏の居城有子山城を落城
鳥羽城の戦い 1581年 因幡国守護山名豊国の鳥取城を包囲 山名氏は降伏
備中高松城の戦い 1582年 信長の命により秀吉は毛利氏の配下清水宗治守護の高松城を水攻めにより攻略
山崎の戦い 1582年 豊臣秀吉と明智光秀の戦い
同年光秀の謀反により「本能寺の変」で信長死亡 中国大返しから秀吉を追撃し明智軍全滅
賤ケ岳の戦い 1583年 豊臣秀吉と柴田勝家の戦い
信長亡き後の後継者決めにより対立 柴田軍の前田利家が離脱したことで秀吉が勝利
小牧・長久手の戦い 1584年 秀吉・織田信雄軍と徳川連合軍との戦い
和議により講和
四国平定 1585年 豊臣秀吉と長曾我部元親の戦い
長宗我部元親の降伏により四国平定
九州平定 1586年~1587年 豊臣秀吉と九州諸将との戦い
関白である秀吉が九州停戦令を発令したが島津氏が従わなかったため秀吉が参戦 10万の兵により九州平定
小田原征伐 1590年 豊臣秀吉と北条氏の戦い
後陽成天皇への度重なる無礼に激怒した秀吉が北条氏を討伐 北条氏滅亡 秀吉天下統一
文禄の役 1592年 豊臣秀吉と朝鮮の戦い
西の武将を主軸に15万2千の兵で出兵
慶長の役 1597年 豊臣秀吉と朝鮮の戦い
一度は講和したが和平交渉決裂 14万の兵を送るも1598年秀吉の死去により撤退

豊臣秀吉の代表的な戦い

豊臣秀吉は織田信長に仕えてからたくさんの戦いに参戦してきました。その中でも代表的な戦いについて説明します。

他の武将には見られない秀吉ならではの戦い方や、どの様な秘策を駆使したのか見てみましょう。

備中高松城の戦い

近畿地方平定に成功した織田信長が次に狙ったのは「中国地方」でした。信長は秀吉に中国地方攻略を命じます。

毛利は備中高松城を防衛の要とし、秀吉は豪族たちの境目七城を攻略するために秀吉軍2万に宇喜多軍の軍1万を加え、総勢3万の兵で出兵しました。境目七城をどんどん撃破し、残るは備中高松城と庭瀬城のみです。

しかし高松城は周囲を湿地帯に囲まれ、それが自然の堀となっている城です。攻めあぐねている中、軍師黒田官兵衛が水攻めを進言しました。この策を受け入れた秀吉は、たった12日で長さ約2.7km、高さ約7m、幅約10mという堤防を作りました。梅雨の時期も重なり高松城はあっという間に湖の中に浮かぶ孤島のようになったのです。これにより毛利との和睦が進みました。

墨俣一夜城

織田信長が美濃国の斎藤龍興の攻略のため、墨俣に砦を作るよう命じます。佐久間信盛、柴田勝家が挑戦しますが、いずれも8割がた完成の前に敵襲を受け実現しませんでした。そこで名乗りを上げたのが豊臣秀吉です。信長らに「500人の兵で7日あれば砦を築ける」と明言します。家臣すらも驚いた秀吉の策ですが、実は入念に準備をしていました。

野武士だった「蜂須賀小六」の協力を得て、黒澄川上流から材木を流し砦を築いたのです。斎藤軍は砦ができてもまた壊せばいいと考えており、数日して城が完成したと聞いて責めましたが小六に邪魔をされ、最終的に墨俣一夜城が誕生したのです。

中国大返し・山崎の戦い

1582年に明智光秀が謀反を起こし「本能寺の変」により織田信長が倒れました。秀吉が中国地方侵攻のため、毛利輝元の家臣 清水宗治が守備している備中高松城を水攻めしている最中のことです。

主君の死を隠したまま毛利と和睦を結び、一旦姫路城に戻り軍備を整えると山崎に向かいました。備中高松城から山崎までは230キロほどの距離です。この距離を10日で移動し、明智光秀を討ちとったのです。この中国大返しは日本戦史の中で史上屈指の大強行軍といわれています。

山崎で秀吉により追い詰められた光秀は、山城国小栗栖で落ち武者狩りにて死没、秀吉は主君の仇を返しました。

賤ケ岳の戦い

豊臣秀吉と柴田勝家は両名とも織田信長の家臣でした。信長亡き後、すぐに後継者を立てなければならないと清須会議を行います。しかしこの時、柴田勝家は信長の三男信孝を、秀吉は信長の孫「三法師」を推し対立、賤ケ岳の戦いにつながりました。

激戦を繰り広げていましたが、柴田側だった前田利家が突然離脱し、前田利家と対峙していた軍勢が柴田勝家を襲撃します。秀吉も佐久間盛政を撃破し、柴田勝家を包囲しました。柴田勝家はお市の方と共に自害し、後ろ盾を失った織田信孝は岐阜城を包囲され降伏し、後に織田信雄の使者によって切腹を言い渡され自害したのです。

この戦いの中で武功をあげた武将7人、「脇坂安治」「平野長泰」「福島正則」「片桐且元」「加藤清正」「加藤義明」「糟谷武則」が「賤ケ岳の七本槍」と呼ばれました。

小牧・長久手の戦い

賤ケ岳の戦いを終えた秀吉は大阪城を築城し、天下を取ったかのように振舞います。これを苦々しく思っていた織田信雄は安土城を退去させられたことをきっかけに、徳川家康と同盟を結びました。織田信雄の要請を受けた家康は佐々成正や長曾我部元親らと秀吉包囲網を形成します。

一方織田家譜代の家臣「池田恒興」は秀吉につき戦いが始まりそうでしたが、両軍ともに慎重になり膠着状態となります。池田恒興の策により岡崎城に攻撃を仕掛けましたが、家康に悟られ池田恒興らが討死、その後も膠着が続きました。

しかし突然秀吉は織田信雄に和睦を申し入れます。織田信雄は家康に無断で和睦を受諾し、家康は戦う意味を失って浜松城に帰り、のちに秀吉と家康も和解しました。

小田原平定

秀吉は柴田勝家を討ったのち、大阪城を築城し関白となりました。これにより羽柴秀吉から豊臣秀吉と姓を改めています。また秀吉は関白になった1585年に「惣無事例」を発布し、大名同士の領土争いなどを禁止しました。

この法令は天皇主体の発令でしたが、実質は関白秀吉が自分に服従させるためにできたものであり、関東の雄と呼ばれた北条氏政・北条氏直は従いませんでした。最終的に1589年、秀吉は北条氏に向けて宣戦布告し、21万もの兵を率いて翌1590年に出兵します。

しかし北条氏のいる小田原城は上杉謙信、武田信玄ですら落とすことのできなかった「難攻不落の城」です。秀吉は小田原城の支城である山中城、玉縄城、江戸城を撃破し相模湾も封鎖、小田原城は完全に孤立します。

さらに秀吉は80日という短い期間で石垣山に城を築城、そこに本陣を移し北条軍の士気を奪うように宴を繰り広げたといいます。最終的には北条氏直が投降、小田原城は明け渡されたのです。北条に切腹を命じ、全国の大名を掌握した秀吉は天下統一を果たしました。

豊臣秀吉「お得意の」戦い方「兵糧攻め」

豊臣秀吉は特に攻城戦に優れた武将でした。人が考えもしないような奇策を打ち出し、それをすぐに実現する行動力も備えていた武将です。いくつもの攻城戦に勝利し、秀吉は天下統一を果たしました。

戦国の世では刀や弓矢、それに鉄砲などを利用し人に攻撃を加えることで勝利するのが常でした。しかし秀吉はできる限り自軍の「血を流さずに勝利」することを目的としていた武将です。

秀吉お得意の攻城戦「兵糧攻め」について紹介します。

陣城を使い完全包囲!

秀吉は自分の臣下たちが犠牲にならないように、討って出るよりも籠城する相手を追い詰める「兵糧攻め」が得意でした。秀吉はただ籠城する相手を待つのではなく、「陣城」を築き対応したのです。

陣城は戦いのためにだけ「臨時」で築いた城で、その規模は様々です。陣幕を張るだけの簡易なものから、山頂を平たくして駐屯できるもの、また堀などを設け複雑な造りをした規模の大きな陣城もありました。

こうした陣城によって相手の城を完全に包囲することで、後詰めすることも兵糧を搬入することもできなくなります。陣城を使い籠城する敵を完全に包囲する策で、多数の敵を屈服させてきました

飢えさせ煮炊きを見せ精神的に追い詰める!

本陣のような陣城を構えることで、籠城する相手兵士たちを精神的に追い詰めることもできます。籠城する敵を見ることができるように城を造ることで、相手が衰弱していく様子がよく見えたことでしょう。

こちらが見えるということは敵からもこちらを見ることができます。秀吉は籠城し極限の空腹状態にある敵に対し、煮炊きを行いおいしいものをたくさん食べている様子を見せつけ、心理的に大きなダメージを負わせました。

陣城はただ自分たちが本陣とする場所だけではなく、対籠城戦にとって非常に大きな役割を果たしたのです。

豊臣(羽柴)秀吉による三木城攻め「三木の干殺し」

織田信長が中国地方侵攻の際、毛利氏の征伐を秀吉に命じました。秀吉は播磨に入り次々に支城を撃破し、短期間で播磨を落とします。しかし別所長治が毛利に寝返ったことで三木城を攻略しなければならなくなりました

近隣の地侍や農民と一緒に三木城に立てこもった別所に対し、秀吉はまず補給路を断つことを考えます。補給路を断たれ孤立した三木城に攻撃を仕掛けますが、なかなか倒すことができません。2年もの歳月が流れ、城内の兵糧はとうとう尽きてしまいます

軍馬、牛、城内に生えている草木まで全て食べつくし、とうとう餓死者が出始めました。これを見た長治は自決し、三木城の戦いは終幕したのです。この三木城の戦いは「三木の干殺し」といわれています。

豊臣(羽柴)秀吉による鳥取城攻め「鳥取城の渇殺し」

鳥取城の戦いも秀吉の中国攻めの際に起きた籠城戦です。播磨、但馬を攻めた秀吉は黒田官兵衛から姫路城を譲り受け、中国攻めの拠点とします。備前・美作の宇喜多直家も服属させ、因幡国へ侵攻しました。

1回目の籠城では因幡国の鳥取城を2万の兵で包囲し、鳥取城では3か月ほど籠城が続きましたが、城主である山名豊国が徹底抗戦を主張した中村春続らを無視し単身で降伏し信長に居従します。毛利方は鳥取城に残った中村らに城将を送り、最終的に吉川経家が城主となりました。城に入る際、経家は自分の「首桶」をもって入ったといわれています。

秀吉は兵糧攻めを仕掛ける前に若狭国から因幡国へ小船団を向かわせ、鳥取城周辺の米を高く買い取りました。さらに農民らを鳥取城に追いやり城の人数を増やしたのです。

毛利方は鳥取城は久松山の上にある城で、11月になれば大雪となるため行軍できないだろうと、何とか冬前まで持ちこたえようとしていました。しかし城には農民が多数逃げ込み、近年の凶作に加え秀吉が買い占めたことで食料が全く手に入りませんでした。

たった2か月で兵糧がなくなり、軍馬、牛、さらには草木、根を食べ、人も食べたといわれています。脳みそに滋養があるとして人気があったという凄惨な光景が見られたことで、この戦いは「鳥取城の渇殺し」と呼ばれました。