越後の虎 上杉謙信は戦上手で知られています。
しかしその家臣はあまり知られていません。
調べてみますと、上杉謙信は家臣の離反を多く経験しています。
この点を見ると、豊臣秀吉や徳川家康とはかなり異なります。戦上手であっても、家臣の掌握は苦手だったのでしょう。
とは言え、上杉謙信と武田信玄の戦いを描いた映画「天と地と」などでは、多くの上杉家臣が活躍しています。
上杉四天王、上杉二十五将と言われる家臣の中には、聞いた名前があるはずです。
今回は、上杉家臣団について解説します。
上杉謙信 家臣一覧
名前 | プロフィール |
---|---|
宇佐美定満 | 四天王。上杉謙信の軍師というイメージ。長尾政景を、後々の禍根を断つため舟遊び中に謀殺し、一緒に溺死したと伝わっている。 |
直江景綱 | 四天王。代々長尾家に仕える武将で、宿老でした。内政・外交両方に秀でている。川中島の戦いでは武田義信を敗走させた。 |
甘粕景持 | 四天王、越後十七将。川中島の戦いでは殿を務め、武田軍と激戦を繰り広げ、武田から「謙信秘蔵の侍大将のうち、甘粕近江守はかしら也」(甲陽軍鑑)と称賛された。 |
柿崎景家 | 四天王。長尾晴景と上杉謙信(長尾景虎)の家督争いが起こった際に、謙信を支持、川中島の戦いでは武田信繁や山本勘助を討ち取り、武田本隊を壊滅状態まで追い詰めた。外交の有能。 |
長尾政景 | 上杉景勝の実父。家督相続で上杉謙信と争うが、景虎の猛攻に遭い降伏・和睦。野尻ヶ池で溺死。 |
本庄繁長 | 上杉二十五将。川中島の戦いや関東攻めでは武功を立てる。上杉景勝の会津移封後は、最上義光や伊達政宗と互角の戦いをした。 |
北条高広 | 「器量・骨幹、人に倍して無双の勇士」と言われる。関東方面の軍事面、政治面を任される。武田家、織田家、北条家、上杉家と離反、服属を繰り返した。 |
中条藤資 | 長尾為景の後継争いで、藤資は上杉謙信(長尾景虎)を守護代に擁立するよう越後国人を調略した。武功を重ねて、川中島の戦いでは謙信から血染めの感状を貰っている。 |
小島弥太郎 | 幼少の頃から上杉謙信に小姓として仕えた。「鬼小島」と称されており、豪傑であったと伝えられてる。「花も実もある勇士」と武田側から賞賛された。 |
安田顕元 | 川中島の戦いでは武功を挙げ、信濃飯山城を任された。謙信死去後は、上杉景勝に味方し、上杉景虎側についていた国人衆を景勝側に引き入れる事に成功したが、論功行賞で、引き入れた国人衆の恩賞が少なく猛反発が起こり、仲裁しようとしたが、うまくいかず責任を感じて自害した。 |
直江信綱 | 長尾家の人間でしたが、直江景綱の娘を娶り婿養子となった。馬廻として謙信に付き従い、手取川の戦いにも参戦した。御館の乱後は重臣として起用されたが、家臣の領地問題で春日山城にて毛利秀広に襲われ殺害された。 |
新発田重家 | 上杉謙信に仕え川中島の戦い、関東出兵にも参加して、多くの武功を挙げた。御館の乱では、安田顕元の誘いで上杉景勝に味方したが、論功行賞に不満を持ち、景勝に反旗を翻した。 |
五十公野信宗 | 元々は越中湯山城代 長沢光国の小姓で、上杉謙信に見出され、越後三条の町奉行を務めた。御館の乱では、義兄の新発田重家と共に上杉景勝に味方した。論功行賞が原因で、新発田重家と共に上杉家から離反した。 |
加藤段蔵 | 加藤段蔵は、熱名「飛び加藤」と呼ばれている。上杉輝虎(上杉謙信)の家臣という説が有力。幻術使いで、風魔小太郎の弟子という逸話もある。 |
上杉謙信を支えた重臣|上杉四天王
宇佐美定満
宇佐美定満というと、多くの方は上杉謙信の軍師というイメージを持たれるかと思います。
残念ながら、史実からは軍師であったという事実は見つかっていません。
最初は、越後上杉家に仕える家臣でした。
宇佐美定満は、上杉謙信が家督を継ぐと、これに従い家臣となりました。
上杉謙信が越後制覇を成し遂げるまで、家臣間の問題に悩まされながらも謙信を支え続けました。
上杉謙信と、長尾政景(後の上杉景勝の実父)の抗争が終結して、主だった資料から記録が消えています。
一説では、和睦した長尾政景を、後々の禍根を断つため舟遊び中に謀殺し、一緒に溺死したと伝わっています。
直江景綱
直江景綱は、代々長尾家に仕える武将で、宿老でした。
上杉謙信(長尾景虎)には、病弱な兄がいましたが、兄弟間で抗争が起こった際は、謙信に味方しました。
内政・外交両方に秀でており、朝廷や幕府の折衝や春日山城の留守居を任されています。
また武将としても優れており、川中島の戦いでは武田義信を敗走させました。景綱には男子がいませんでした。景綱の娘を娶り婿養子として直江家を継いだのが、後の直江兼続です。
甘粕景持
甘粕景持は、四天王、越後十七将に数えられています。謙信の関東出陣に同行し、北条氏の小田原城を攻撃しています。
川中島の戦いでは、殿を務め、武田軍と激戦を繰り広げ、武田軍の中には謙信が殿を務めていると勘違いした者も多かったそうです。
敵である武田から、「謙信秘蔵の侍大将のうち、甘粕近江守はかしら也」(甲陽軍鑑)と称賛されています。
謙信死後は、上杉景勝に仕え、混乱する越後国内の戦いにて活躍しました。関ケ原の戦い以後も生き続け、米沢移封の際も同行しました。
柿崎景家
柿崎景家は、はじめ長尾為景に仕えていました。
長尾晴景と上杉謙信(長尾景虎)の家督争いが起こった際に、謙信を支持しました。
先手組300騎の対象となり、川中島の戦いでは武田信繁や山本勘助を討ち取っています。武田本隊を壊滅状態まで追い詰めました。
交渉面も有能で、北条との越相同盟締結するなど、外交面でも活躍を見せています。
上杉謙信の代表的な家臣
長尾政景
長尾政景は、上杉景勝の実父です。
府中長尾家で、長尾晴景と上杉謙信(長尾景虎)との家督争いが勃発した際は、政景は晴景側についていました。
府中長尾家の家督を上杉謙信が継いだ際は謙信と争いますが、景虎の猛攻に遭い降伏・和睦します。その後は、謙信の姉を娶り重臣として活躍します。
野尻ヶ池で溺死しました。この事件は宇佐美定満の謀殺説などがありますが、真相は分かっていません。
その後家督は顕景(のちの上杉景勝)が継ぎますが、謙信の養子となり、上田長尾家は断絶しました。
本庄繁長
本庄繁長は、上杉二十五将に数えられる武将です。1553年に上杉謙信(長尾景虎)に拝謁し家臣となったようです。
謙信は、武田信玄の進撃の状況を本庄繁長に伝え、傘下に加わるように促したと思われる書状が残っています。
川中島の戦いや関東攻めでは武功を立てましたが、謙信から離反するなど一貫性がありませんでした。
「本庄繁長の乱」制圧後は、上杉景勝に仕えています。
上杉景勝の会津移封後は、最上義光や伊達政宗と互角の戦いをします。
分別もあり、関ケ原の戦い後の軍議で「徳川家康に徹底抗戦するか否か」を問う席上で、直江兼続が徹底抗戦を唱える中で早期講和を主張して、景勝を説得させました。
北条高広
北条は「きたじょう」と呼びます。
よって、鎌倉や小田原の北条家とは関係はありません。
武将としては、北越軍談によると「器量・骨幹、人に倍して無双の勇士」と言われています。
当初、長尾家に仕えていましたが、武田信玄と通じ、上杉謙信(長尾景虎)に反旗を翻しました。しかし、謙信の反撃を受け降伏、帰参を許され奉行として仕えました。
その後、上野厩橋城(群馬県前橋市)の城主となり、関東方面の軍事面、政治面を任されます。
再度、謙信に背くのが永禄6年(1563年)です。北条氏政と通じますが、翌年越相同盟が結ばれ、北条氏政の仲介で再び謙信に仕える事になります。
御館の乱では、上杉景虎に付き、上杉景勝と戦います。景勝が勝ち、越後での勢力を失った高広は武田勝頼よりの傘下に入ります。
武田家滅亡後は、織田家、北条家、上杉家と離反、服属を繰り返します。
最後は、北条に厩城を攻められ降伏、城を明け渡しました。
中条 藤資
中条藤資は、当初上杉家に仕えていました。
上杉謙信が1530年生まれ、中条藤資は1492年生まれですので、親子以上、孫ほど歳が離れています。
永正の乱で、長尾為景と同盟を結びます。この時に多くの武功を立てました。
長尾為景の後継争いで、藤資は上杉謙信(長尾景虎)を守護代に擁立するよう越後国人を調略していきました。
この動きを察知した長尾晴景と謙信の間で抗争が勃発しましたが、上杉定実の朝廷で、晴景が家督を譲る形で終結しています。
上杉定実が後継者を残さなかったことで、室町幕府は上杉謙信を正式に越後守護として承認しました。この時に藤資は上杉家重臣となります。
その後も武功を重ねて、川中島の戦いでは謙信から血染めの感状を貰っています。
小島弥太郎
小島弥太郎は、幼少の頃から上杉謙信に小姓として仕えてきました。
「鬼小島」と称されており、豪傑であったと伝えられています。
慎重が6尺(180cm)あったと言われますが、上杉家の史料からは名前が見当たらず架空の人物ではないかと言われています。
甲陽軍鑑では、武田方の山県昌景と対戦した際、山県が信玄の子 武田義信の窮地を知り勝負を待ってほしいと懇願した時に弥太郎は快諾したと記されています。
これについて、「花も実もある勇士」と武田側から賞賛されていました。
安田顕元
安田顕元は、上杉謙信に仕え、川中島の戦いでは武功を挙げました。この功績から信濃飯山城を任されています。
謙信死去後は、上杉景勝に味方し、上杉景虎側についていた国人衆を景勝側に引き入れる事に成功しました。
しかし、景勝勝利後の論功行賞で、引き入れた国人衆の恩賞が少なく猛反発が起こります。
景勝と新発田重家の間を仲裁しようとしますが、うまくいかず責任を感じて自害しました。
直江信綱
元々は、長尾家の人間でしたが、直江景綱の娘を娶り婿養子となりました。
謙信に仕えると、直江景綱の奉行職を継ぎ、馬廻として謙信に付き従い、手取川の戦いにも参戦しています。
御館の乱では、上杉景勝側に付き、景勝と共に春日山城に立てこもり、一方本拠地に残る配下には、上杉景虎側の攻撃を進めました。
御館の乱後は重臣として起用されますが、家臣の領地問題で春日山城にて毛利秀広に襲われ殺害されました。
新発田重家
新発田重家は、元々は五十公野 治長と称していました。
上杉謙信に仕え川中島の戦いに参戦、諸角虎定を打ち取ったと言われています。
また関東出兵にも参加して、多くの武功を挙げています。
御館の乱では、安田顕元の誘いで上杉景勝に味方しました。上杉景虎側の加地秀綱や神余親綱を下し、乱に介入してきた蘆名盛氏、伊達輝宗の軍を退けました。
こうして、数々の武功を挙げたにも関わらず、期待していたほどの恩賞がもらえませんでした。
重家は景勝に反旗を翻し、上杉軍を大いに苦しめ、一時は新発田の勢力が拡大しました。
しかし、後ろ盾となった蘆名・伊達家が代替わりして協力を得られない状況と、上杉景勝が豊臣秀吉の後ろ盾を得たことで、状況が一転しました。
景勝の降伏勧告にも応じず、敵陣に突入し最後は自刃しました。
五十公野信宗
元々は越中湯山城代 長沢光国の小姓でしたが、上杉謙信に見出され、越後三条の町奉行を務めました、
御館の乱では、義兄の新発田重家と共に上杉景勝に味方し、上杉景虎側の加地秀綱・神余親綱を攻めました。
乱後は、五十公野家を継ぎます。
論功行賞で、新発田重家が上杉家から離反するとそれに付き従いました。
最後は、籠城むなしく落城し、自刃しています。
加藤 段蔵
加藤段蔵は、熱名「飛び加藤」と呼ばれています。
幻術使いとも忍者ともいわれています。上杉輝虎(上杉謙信)の家臣という説が有力です。
江戸時代の軍紀物や仮名草子に頻繁に題材にされる程、有名な忍者です。
謙信に仕えた際に幻術を披露しました。術を見た謙信は飛び加藤を危険視し、ひそかに殺害を計画しました。
しかし、飛び加藤は逃れ、その後武田信玄の元を訪れています。
風魔小太郎の弟子という逸話も残っています。