真田幸村といえば、関ヶ原の戦いや大坂冬の陣・夏の陣が有名な戦いとして語り継がれており、真田丸を築城したことや、最後まで豊臣家に忠誠を誓ったことで有名な武将のひとりです。

徳川家康に負けると分かっていながらも、豊臣家を守るために挑んだ最期の戦いが「大坂夏の陣」ですが、結局のところ幸村の直接的な死因となった原因は何だったのでしょうか。

今回は、真田幸村の死因や最期の戦いになった大坂夏の陣について詳しく解説していきます。

また、最期の戦いに至るまでの幸村に何があったのか、幸村の死後、戦いの結末や息子たちはどうなったかなどについてもあわせて解説していますので、ぜひ最後までお読みください。

真田幸村の死因

真田幸村 死因

大坂夏の陣で徳川軍に敗北して戦死したとされている真田幸村ですが、その死因は諸説あります

  • 真田幸村の死因
  • 激闘の末に休んでいたところを安居神社にて討ち取られた
  • 進軍を阻まれた際に落馬して討ち取られた
  • 実は戦場を離脱して生き延びていた

上記の3つの説が語り継がれていますが、やはり有力なのは安居神社で休んでいたところを討ち取られた説ではないかとされています。

大坂夏の陣の出陣から、家康との激闘を経て安居神社で休んでいるところを討ち取られるまでの詳しいエピソードについては、次項で後述していきたいと思います。

真田幸村の最期の戦い | 大坂夏の陣

真田幸村の最期の戦いとなったのは、1615年(慶長20年)に江戸幕府(徳川軍)と豊臣軍が戦うことになった大坂夏の陣です。

前年に大坂冬の陣があり、一度は講和にて決着した徳川軍対豊臣軍でしたが、火種はくすぶったまま両軍次の戦いに向けて準備を続けており、結局大坂夏の陣として戦いは開戦しました。

籠城戦で勝てる見込みがなかった幸村を含む豊臣軍は、野戦のために大坂城から出陣します。

軍事力にも大きな差があったため、幸村は徳川家康の首のみを目的として徳川軍本陣に攻め込みます。

家康が自害を考えるほど追い詰めた幸村でしたが、最期はその首を取ることは叶わず、自身も傷を負っていたため近くの安居神社で休んでいたところを敵に討ち取られました

道明寺の戦いで伊達軍を一蹴

道明寺の戦いとは、大坂夏の陣の戦いのうちのひとつで、大坂城を攻めるために進軍していた徳川軍の一派である伊達政宗の軍勢を、豊臣軍が迎え撃ったものです。

幸村が到着する前に、先遣隊はすでに布陣していた徳川軍にやられて劣勢となっていましたが、幸村は襲撃してきた片倉小十郎の騎馬隊を一蹴します。

ただ、その地点で豊臣軍の被害は大きく巻き返せる戦況ではなかったため、幸村は毛利軍とともに残兵を集めて大坂城まで撤収します。

負けが決まっているといわれて始まった大坂夏の陣において、この戦いは豊臣軍が奮闘したのではないかと語られているようです。

道明寺の戦いのあとに真田幸村が残した名言

道明寺の戦いを終えて大坂城に戻る幸村の軍勢を追ってくる者がいなかったため、幸村は以下の名言を叫んだといわれています。

「関東勢百万も候え、男は一人もなく候」

こちらの言葉ですが、関東にはたくさんの兵士がいるが、弱すぎて相手にならないという意味です。

負け戦とされている中でも相手を追い払い、これだけ強気な発言ができるのは、幸村のかっこよさを象徴しているように感じます。

徳川本陣に突撃

大坂夏の陣では、徳川軍が15万人ほどの軍勢であったのに対し豊臣軍は8万人弱の軍勢しかおらず、籠城戦では勝ち目がないことが分かっていました。

そのため、幸村を含む豊臣軍は野戦へと繰り出し、徳川家康の首を狙うため徳川軍本陣に突撃することになります。

天王寺・岡山の戦いでは、幸村は松平忠直の軍勢と対峙しながらも徳川本陣に近付いて三度突撃を繰り返します。

家康が2度も自害を考えるほど徳川軍を追い詰めて豊臣軍優勢と考えられていた戦いでしたが、その後の作戦がうまく伝わらず、敗戦して撤退していると感じて戦意を失ってしまった豊臣軍は一気に奇襲をかけられて総崩れとなってしまいます。

安居神社にて首を差し出し討ち取られる

幸村自身も深い傷を負っていたため、徳川軍の追手から逃れて主従であった高梨内記・青柳清庵・真田勘解由3人とともに大阪市天王寺区逢坂にあった安居神社にて体を休めていました。

そこに、松平忠直の軍勢のひとりであり当時は無名の武将、西尾久作があらわれ、抵抗する力も残っていなかった幸村と主従3人は討ち取られたといわれています。

真田幸村は、1615年6月3日(慶長20年5月7日)に46歳もしくは49歳でその生涯に幕を閉じました

真田幸村の最期につながるエピソード

真田幸村が最期の戦いである大坂夏の陣に挑むまでには、どのようなエピソードがあったのでしょうか

有名な戦いのひとつ「関ヶ原の戦い」の敗戦後に九度山に幽閉されていた話や、大坂夏の陣の前におこなわれた大坂冬の陣について、また死期を悟っていたと分かる手紙についても解説していきます。

九度山での幽閉

豊臣秀吉の死後、1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが勃発しますが、西軍に入った幸村の軍勢は、徳川軍の主力である徳川秀忠軍の軍勢を上田で足止めさせるため、3,000人程度の軍勢で徳川軍を迎え討ちます。

ここで1週間の足止めに成功した真田軍でしたが、西軍自体が関ヶ原の戦いに敗戦してしまったため死罪を命じられます。

しかし、東軍に入って戦っていた兄真田信之によって死罪を免れたため、父や正室竹林院とともに九度山に流刑となり、そこで14年間の幽閉生活を送ります

大坂冬の陣・夏の陣が開戦するまでは、九度山で幽閉生活を送りながら正室との間に息子が誕生したり、知略を付けるための勉学に励んだりと、きたる日に向けて準備をしていたとされています。

大坂冬の陣

大坂冬の陣は、1614年(慶長19年)11~12月の間に木津川の砦で衝突したことをきっかけに開戦した、徳川軍と豊臣軍の戦いです。

各所で戦いを繰り広げましたが、元々徳川軍優勢で開戦した戦いは勝負がつくのも早く、開戦からわずか10日ほどで豊臣軍は大坂城に撤収して籠城戦となりました。

大坂城は周囲が川に囲まれた守備力の高い城でしたが、南方だけは守備力が弱かったため、幸村はここに真田丸を築城して弱点を補強し、うまく敵を引き付けて撃退します。

真田丸の戦いでは優勢だった豊臣軍でしたが、このあと徳川軍から一斉砲撃を受けて侍女が亡くなるなど悲惨な流れとなり、籠城戦から1か月後に講和にてこの戦いは終結します。

死期を悟っていたと分かる手紙

真田幸村は、大坂夏の陣の前に姉の夫である小山田茂誠に以下のような内容の手紙を送っています。

「我々事などは、浮世にあるものとはおぼしめし候まじく候」

これは、自分の命はこの世にあるとは思わないでいてくださいという意味の言葉で、幸村は戦いの前にすでに死期を悟っていたのではといわれています。

長きに渡る幽閉生活から大坂城に戻り、その後も負けると思われていた戦いを必死の思いで戦い抜いてきた幸村でしたが、大坂夏の陣が自分の死に場所だと決めていたのかもしれません。

真田幸村の死因に関する逸話

真田幸村 逸話

真田幸村の死因には、3つの説があることは上述しました。その中でも、「戦場を生き延びていた」説に関しては、真田幸村は多くの影武者を利用して戦場を戦ったという話があり、そこから来てるとされています。

その後は、豊臣秀頼と薩摩に逃げたという逸話です。

真田幸村の死因として濃厚な説は「大阪夏の陣」にて討ち取られた説ですが、真田幸村の人気から上記のような説が生まれたのではとされています。

出典:7つの不思議 真田伝説

真田幸村の死後

真田幸村の死後、大坂夏の陣はどのように決着したのでしょうか

また、幸村とともに大坂城を出陣して戦いに挑んだ長男幸昌はどのような最期を迎えたのでしょうか。

こちらについてもう少し詳しく解説していきたいと思います。

大坂夏の陣の決着と豊臣軍の最期

前述した通り、徳川本陣を攻めていた幸村を含む豊臣軍は、総崩れとなったため軍勢は一気に減少してしまい追撃することはもはや不可能で、大坂城に撤退するしかありませんでした。

また、幸村と共闘していた毛利軍も四方から囲まれて攻撃されたために撤退せざるを得ない状況で、大坂城に戻っていました。

徳川軍は、松平忠直を筆頭に大坂城に侵入し、本丸で放たれた火によって天守閣も包み込まれてしまった大坂城は落城してしまいます。

豊臣秀頼は、蔵の中で母とともに自害し、豊臣秀吉から続いた豊臣家は終わりを告げます

この決着により、応仁の乱から150年にわたって続いた戦いは終わりを告げ、江戸幕府は元号を慶長から元和に改めました。

幸村の長男幸昌の最期

幸村の長男幸昌は、道明寺の戦いでは父とともに戦い戦果を残しましたが、ここで傷を負っていたため父の命により大坂城に先に戻ります。

大坂城が落城した際に、幸昌はまだ若く豊臣家と懇意にしていたわけでもなかったため、周囲の武将から脱出するように諭されたようですが、これを拒否して豊臣秀頼とともに切腹する道を選んだといわれています。

父と同じように脱出して生存していたとされる説もありますが、加藤弥平太に頼んで切腹したとされる説が有力です。

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