豊臣秀吉の名言は、数多く残されていますが「現代のビジネスシーン」にも利用できる言葉も存在します。
歴史上の名言は、自分の中の考えを深くしたり、人生の中で何かを変えるきっかけになったりするものです。
もともとは農民であった豊臣秀吉が、織田信長へ使えて天下人となる姿は、現代でも通じるサクセスストーリーのようなものも感じませんか?
そこで、本記事では「豊臣秀吉の残した名言」と、その意味まで詳しく解説します。
豊臣秀吉の人柄の分かる名言
豊臣秀吉は「明るくて楽観的」というイメージを持たれている方が多いのですが、記述や生涯を見てもイメージどおりの人物でした。
戦や政治となると陰が見えたり、気難しいという面もあったようですが、基本的には明るい性格です。
そんな豊臣秀吉の人柄の分かる名言を、現代にも使える点を考えながらご紹介します。
夢は大きいほど良いと言うが、わしはすぐ手の届くことを言っている。
農民という戦国時代では「低い身分」からスタートした豊臣秀吉は、自分ひとりの力だけで「関白」にまで上り詰めた出世人。
豊臣秀吉は大きな夢を言い続けたのではなく、コツコツと自分の叶うであろう「少し上の目標」を設定し、そこに向けて努力を続けていました。
大きな夢を最終目標として、そこに向けてどのようなステップを踏めばいいのかを、現代で生きる成功した人々も考えています。
時代は変われど、成功した人のバイブルともいえる名言です。
このように年を追うごとに財宝が集まるのを、施さないと欲深くて、倒産の憂き目に遭うかもしれない。
お金持ちの人が、ただお金を溜め込んでいるだけでは「経済」は回っていきません。
このことは現代で知らない人がいない常識的な考え方ではあります。
しかし、このように行動できている人はどれだけいるのでしょうか。社会を豊かにする行動を、裕福な方がどんどん実行する。
そんな現代的な経済の仕組みを、戦国時代に考えていたことが分かる名言です。
どこへ逃げたって、日本全国は俺の庭だ。気にするな。
豊臣秀吉の器の大きさを感じる名言です。
自分が出世をしたとして、嫌味のないジョークにも聞こえるこの名言は素晴らしいものを感じるのではないでしょうか。
偉業を成し遂げたからこそ言えるのかもしれませんが、偉くなってもこのような発言ができたことが、人々に愛された理由なのかもしれません。
天下統一は、夢のまた夢だ。
「性格には露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
という豊臣秀吉の残した句からの名言です。
人生を振り返ったときに、今までの人生は夢だったのではないか?今までの成功を振り返ったときに、そう感じた豊臣秀吉が残した言葉です。
豊臣秀吉が最後に一番気にしていたのは「家族」のことだったといわれています。
自分が大きく成功したとき、自分は家族が大事だったと言えるのか。そう考えさせられる名言となっています。
障子を開けてみよ。外は広いぞ。
自分のいる世界がすべてではない。
外界はもっと広く、世界は広がっていることを伝えた名言です。
自分が辛いときや、出世をしたことで視野が狭くなっていることが、みなさんもあるかとも思います。
視野を広く持つことで、色々なアイデアを吸収し提案ができたり、周りの人に優しくすることもできるのです。
そのような広い心を持つことを教えてくれているのではないでしょうか。
豊臣秀吉の仕事の考え方の分かる名言
「農家と下級武士」という戦国時代では身分の低い地位だった豊臣秀吉。しかし、出世に出世を重ねて、豊臣秀吉は歴史に名を残す人物となりました。
豊臣秀吉の生まれながらのポテンシャルである、人に愛される力も関係していますが、それ以外にも考えさせられることも多くあるのです。
そんな「日本の歴史上で一番の出世人」と呼ばれている豊臣秀吉の、仕事に対する名言についてご紹介します。
一歩一歩、着実に積み重ねていけば、予想以上の結果が得られる。
仕事をひとつずつ着実にこなせば成功につながるということを、今一度思い出させる名言です。
コツコツやることが大事なのはもちろん、雑用でも嫌な仕事を手を抜かずに「プラスアルファ」ですることで、必ず良い結果が舞い込んでくることが伝わるのではないでしょうか。
負けると思えば負ける、勝つと思えば勝つ。逆になろうと、人には勝つと言い聞かすべし。
勝つと思えば勝てる、負けると思えば負けてしまう。
そう伝えている名言ですが、豊臣秀吉も織田信長に仕えているときに、難しいお題をこなしていきました。
絶対無理じゃないか?
と思うことでも、やらなければ分からないですし、失敗のことを考えていたら「成功」への一歩は踏み出すことすらできません。
初めから諦めないことを現代の我々にも伝えているメッセージなのかもしれません。
人の意見を聞いてから出る知恵は、本当の知恵ではない。
友達や上司などに「助言・アドバイス」を聞くのは、自分の知見を広めるのに重要なことです。
質問をすることは問題ではありませんが、それは本当に正しいのでしょうか。
すべての相談を鵜呑みにしていたら、自分の答えはそこになく、自分が成長するきっかけを失ってしまいます。
自分のことを知っているのは他人ではありません「自分自身」なのです。そのことに気づいていた豊臣秀吉の深い思いが伝わる、名言となっています。
無敗の秘訣は、勝つための計画を立てることだ。
現代のビジネスにも言えることですが「事前準備」はとても重要です。
豊臣秀吉は楽観的に見える性格のため、このような名言は意外に思えるかもしれません。
しかし、豊臣秀吉は準備に準備を重ねて、戦に多く勝利してきました。
基本的なことすぎて、忘れているかもしれませんが、今一度振り返ってみるのも良いのではないでしょうか。
やるべき事が明確であるからこそ、日夜、寝食忘れて没頭できる。
明確な目標があったことで、豊臣秀吉が成し遂げた偉業があります。
仕えていた「織田信長」が明智光秀に討たれてしまった。という連絡をうけて、現在の岡山県から京都府までの230kmの距離を、わずか10日間で移動。
その後、明智光秀を「かたき討ち」にしています。明確な目標があったからこそ、不可能とも思えることも成し遂げてしまうのです。
目標の軌道修正は大事ですが、大まかな目標を変えずにコツコツやる。
この考え方は「現代に生きる人も参考になる」ものとなっています。
豊臣秀吉の戦に関する名言
豊臣秀吉は「自軍の犠牲」を極端に嫌い、血を流すような戦いをあまり好んではいませんでした。
そのため、相手を城に閉じ込める「兵糧攻め」を得意とし、敵方から降参を求める。といった戦い方が得意な人物でした。
戦国大名といえば、争いのイメージが強いですが、この豊臣秀吉の話は意外に思われたのではないでしょうか。
そこで、ここからは豊臣秀吉の戦に関する名言についてご紹介いたします。
降参した者を殺してはいけません。
豊臣秀吉の戦い方を象徴するような名言です。
秀吉のポリシーは「自軍に犠牲をださせないこと」としており、城の外から敵を一歩も出させない「兵糧攻め」を得意としていました。
ただ待っているだけでなく、食料が無くなる城の外でご飯を作り出し、匂いで精神的に追い詰める。といったユニークな戦い方もしていました。
相手が降参すれば、何もしないから早く降参してね。
といった戦い方で小田原城を攻略したのです。
アイデア次第で突破口は見つかることが伝わる名言となっています。
だから降伏する者をも誅殺した。これは人物器量が狭いためである。人には敬遠され、衆から愛されることはない。
今まで仕えてきた織田信長に「信長公は勇将であるが良将ではない」と秀吉の発言した言葉の理由が名言として挙げられています。
豊臣秀吉は平和的解決が一番と考えていたのかもしれません。
そのため、武力で天下統一を果たそうとする信長に、こう思ったのです。
現代でも相手が上司だろうと、自分のポリシーであれば言うことは言う。
そんな強い人がいますが、戦国時代では豊臣秀吉がその象徴だったのかもしれません。
家康は愚か者だ。が、油断のならない愚か者だ。
相手を見るときに「表面に見えるイメージ」でなんとなく相手を判断していないでしょうか。
戦国時代は相手が腹で考えていることなど、表の顔とは違ったはずです。
そんなことでは人間不信になってしまいそうですが、戦国時代はそれが命取りになることもありました。
性格的なイメージから、このように発言や行動の裏を読むイメージはないように思えますが、出世する人物はここまで発言の裏を汲み取らなければいけないのかもしれません。
いつも前に出ることがよい。そして戦のときでも先駆けるのだ。
どんなときでも先頭に行くのだ!という強い意思を感じるのがこの名言です。
豊臣秀吉は「出る杭は打たれる」なんてことは気にせず、積極的に前へ出ることで出世を重ねていきました。
現代でも、ただ目立つのでは嫌われてしまいますが、前に出て必死に取り組む姿は悪い印象ではありません。
ひたむきに自分から努力し、いつか見てもらえることを信じたからの名言といえるのではないでしょうか。
築いた城、落とした城、住んだ城。いろいろあります。
豊臣秀吉は生涯で、多くの城に移り住んできました。人生のステージや、戦い方の拠点として7つの城を拠点としてきました。
ただ、城にたくさん住んでいた自慢ではなく「こんなお城もあったなぁ・・・」と昔を振り返る晩年の言葉ですが、嫌味がなく晩年における素敵な名言となっています。
以下は豊臣秀吉が拠点とした城になります。
城名 | 場所 |
---|---|
長浜城 | 滋賀県長浜市 |
小田原城 | 神奈川県小田原市 |
大阪城 | 大阪府大阪市 |
伏見城 | 京都府京都市 |
山崎城 | 京都府京都市 |
姫路城 | 兵庫県姫路城 |
和歌山城 | 和歌山県和歌山市 |