戦国時代の武将たちはみな「家紋」を様々なものに利用していました。家紋は刀やのぼり旗、甲冑にも利用されています。日本特有の文化である家紋は、現代でも着物やのれんなどに使われていますが、戦国時代の武将たちにとって非常に大きな意味を持っていました。

武将にとって家紋は自分や家族、また一族をアピールできるシンボル的なものだったのです。

戦国時代の三英傑の1人「豊臣秀吉」も家紋を持っていました。徳川家康の「三つ葉葵」という家紋も有名ですが、豊臣秀吉の「五七桐紋」も有名です。特に秀吉は出自が「農民」だったこともあり、家紋に威厳性を求めていました。

今回は天下人となった豊臣秀吉が利用していた「家紋」について紹介します。

豊臣秀吉の家紋は「ひょうたん」?

豊臣秀吉のシンボル的なマークというと「ひょうたん」を思い浮かべる人も多いでしょう。秀吉はひょうたんをよく利用していました。しかしこのひょうたんは秀吉の家紋に利用されていたわけではありません。

秀吉は馬のそばに立てる「馬印」としてひょうたんを利用していたといわれています。

ひょうたんを馬印に利用するようになったきっかけのお話があります。美濃国の稲葉山城を攻めた際、当時信長の家臣だった秀吉が野武士の助けを借りながら奇襲し、腰に下げていたひょうたんを振って攻める道筋を仲間に示し勝利しました。信長はこの功績に対し、ひょうたんを馬印に利用することを許したのです。

その後は武勲を上げるたびにひょうたんを増やしていたといわれており、それが「千成瓢箪(せんなりひょうたん)」のもとになったというお話です。しかしこれは江戸の大衆小説の中の話で、実際には馬印の上部にひょうたんが1つだけついていたと考えられています。

豊臣秀吉の家紋「五七桐」と「五三桐」

豊臣秀吉の家紋は「桐紋」と呼ばれる家紋です。秀吉は農民から天下人までのし上がった武将として知られていますが、だからこそこの「桐紋」にこだわったともいわれています。

桐紋の中でも秀吉が利用していたのは「五七桐」と「五三桐」です。桐の葉の上に花序(花がついている部分)が立っています。このたっている花が3本なら五三桐、7本なら五七桐です。

秀吉はこの桐紋をどのように利用していたのか、また五七桐と五三桐それぞれについても紹介します。

桐紋の中でも格式高い「五七桐」

左右にある茎に花が5つ、さらに中心の茎に花が7つ描かれている家紋が「五七桐」です。桐紋の中でも特に格式の高い家紋として知られ、天皇家から下賜されたもの以外利用できないとされています。

本能寺の変で信長が倒れた後、秀吉は清須会議以降各地域の有力者たちとの戦いに勝利しました。天下統一を果たす4年ほど前「1586年」に朝廷より豊臣姓を賜り、菊紋と共に桐紋(五七桐)を下賜されたのです。秀吉は五七桐を大阪城、伏見城などに多数利用しています。

秀吉は農民の出ということもあり、他の武将たちから見れば卑しいとされた身分から成りあがった男です。下層民であった秀吉にとって、格式の高い家紋を利用できることはステイタスだったのでしょう。桐紋には強いこだわりと愛着を持っていたといわれています。

五七桐は日本政府の紋章・パスポートにも利用されている

桐紋の中でも格式の高い「五七桐」ですが、首相官邸で総理大臣が会見を開く際、その演説台をよく見てください。演説台には五七桐のプレートが貼られています。五七桐は日本政府も利用している紋なのです。

また500円硬貨の日本国 五百円と書かれている中央に描かれているのも「五七桐」です。明治時代の10円硬貨にも桐紋が利用されていました。

海外に行く際にはパスポートが必要となりますが、日本国のパスポートにも表面に菊の紋、裏面には桐花紋が描かれています。桐紋というのは日本を象徴する紋として、様々なものに利用されているのです。

臣下に与えた「五三桐」

五三桐も桐紋の1つで、左右の茎に3つの花、中央の茎に5つの花が描かれています。同じ桐紋でもこの五三桐は、朝廷から桐紋を下賜された者が臣下に紋を与える際に用いた紋です。

秀吉は信長の家臣時代に、この五三桐を与えられ利用していたといわれています。

元々五三桐は十六紋菊のように、将軍でも利用してはならない家紋と同じでした。しかし室町時代に朝廷より足利尊氏に下賜されて以降、家紋を褒美として与えるようになったようです。秀吉からは宇喜多秀家、前田利家などの家臣に与えられています。

自らデザインした「太閤桐紋」

秀吉は何につけても派手好きだったといわれています。

また戦略においても一夜城に中国大返しなど、当時の武将たちが思いもつかないようなことをやってのける人物でした。秀吉は家紋に関しても大胆なことをしています。

家紋は家を表す大切なシンボルです。朝廷から桐紋を下賜されたことは至極光栄なことですが、秀吉はただ喜ぶだけではありませんでした。

桐紋は格式の高い家紋ですが、朝廷から下賜された人であれば利用できます。そこで秀吉は自分だけが利用できる紋を自らアレンジしたのです。それがこの「太閤桐」でした。

各地で配下となった武将たちに桐紋を多数与え、自分がより高く格付けした「太閤桐」を使ったのです。

豊臣秀吉が利用していた「桐紋」とは

桐は中国において、徳が高く優れた王が現れるときにだけ出てくるという霊鳥「鳳凰」が住むといわれています。非常に縁起のいい木であるという中国の思想に倣い、日本でも天皇家の衣服の文様として、また家紋として利用するようになりました。

桐紋は鎌倉幕府を倒すために貢献したとして、後醍醐天皇より足利尊氏に下賜されたのを皮切りに、その家臣たちに与えられていったのです。

ちなみに・・・桐紋のデザインのモチーフは、中国で縁起がいいとされた桐「アオイ科アオギリ属の落葉樹」ではなく、淡く美しい紫色の花を咲かせるゴマノハグサ科(ノウゼンカズラ科)キリ属で、種類が違います。

桐紋の前に利用していた秀吉の家紋「沢瀉(おもだか)」

秀吉は桐紋を秀吉から与えられましたが、それ以前は「沢瀉(おもだか)」という家紋を利用していたようです。沢瀉紋を利用していた由来は諸説ありますが、一説には正室である「ねね」の生家「杉原家」からもたらされたのではないかといわれています。

多年草であるオモダカ科の植物で、葉の葉脈が高く隆起しているため「面高」と表現されることもあります。「面高」は「面目が立つ」と連想することもできるため、縁起がいいといわれる紋です。

また戦国時代では、沢瀉の葉の形が「矢じり」に似ているとして、「勝ち草」の紋といわれ武家に好まれていました

家紋でわかる秀吉の生涯

  • 木下藤吉郎秀吉時代「沢瀉紋」
    秀吉は元々農民出身ですから「名字」を持っていませんでした。
    しかしねねと結婚し、ねねの父である「杉原定家」が改名し「木下祐久」となったことで、秀吉は「木下藤吉郎秀吉」となります。木下家の紋は「沢瀉紋」だったので秀吉も沢瀉紋を利用するようになったといわれていますが、秀吉の沢瀉紋は木下家のものとは違い「立ち沢瀉」(変わり立ち沢瀉)を利用していました。
  • 羽柴秀吉時代「五三桐」
    秀吉が信長に仕えていた「羽柴秀吉」時代には、信長より五三桐を与えられ家紋として利用していました。羽柴秀吉の名は、丹羽長秀と柴田勝家にあやかるために羽と柴をもらい「羽柴」としたとされています。
  • 豊臣秀吉時代「五七桐」
    天下統一を果たす少し前に、朝廷より下賜されたのが五七桐です。正親町天皇より「豊臣」の氏を与えられた時期から家紋として利用し始めました。豊臣秀吉の家紋といえば「五七桐」といわれるほど、秀吉はこの家紋を大切に使ってきました。

桐紋を全面に出して利用した秀吉の心中とは

現代では桐紋といえば秀吉というイメージがあります。秀吉に関係する遺物や書籍など現代に残る物から、当時秀吉が桐紋を利用してきたことがわかるということは、秀吉が至るところで桐紋を利用してきたということです。

秀吉は、足利将軍家に倣う形で朝廷から桐紋を下賜されています。室町から続いた戦国乱世を終わらせ、関白となって政権を樹立した天下人として得た家紋です。

足利尊氏は河内流・清和源氏の名門家系の出であり、足利家には高い格式と権威を備えた「二つ引き紋」がありました。しかし秀吉は農民の出ですから、結婚してから家紋を利用するようになったとしても、格式や権威のある家紋を自分の一族が持っていたわけではありません。

秀吉にとって桐紋は天下人となって自らの力で手に入れた家紋であり、豊臣の家紋として全面に押し出し利用することで、我が伝統の紋としたかったのだと考えられます。

桐紋を賜った「信長」と桐紋を拒んだ「家康」

桐紋は元々皇室専用の紋として利用されていました。その後、後醍醐天皇より鎌倉幕府打倒の中で第一の武功を上げた足利尊氏に桐紋を下賜しています。これは過去に前例のない取り計らいでした。これ以降、皇室以外でも桐紋を利用するようになったのです。

桐紋を利用してもいいと下賜されたのは、武功のあった一門、守護大名などですが、その中に織田信長・徳川家康もいました。織田信長は足利義昭から桐紋を下賜されています。歴史の本などでよく目にする信長の絵にも、桐紋の入った肩衣などにも桐紋が見られます。

信長亡き後は秀吉も桐紋を下賜されていますが、秀吉の死後、国家指導者の地位に就いた「徳川家康」は桐紋の下賜を拒みました。

なぜ拒んだのかについて、今となってはわかりませんが、「桐紋といえば豊臣秀吉」というイメージが強すぎて、これを嫌ったのではないか?ともいわれています。