戦国武将として名高く、今でも人気のある武将、豊臣秀吉

貧乏な生まれからのし上がった豊臣秀吉の生涯は、一体どのようなものだったのでしょうか?

戦死した武将、家臣の裏切りなどの人間模様で亡くなった武将など、戦国武将には様々な死因がありました。

有名な武将の中では、織田信長、武田信玄などが戦乱の中で亡くなっていることが知られているでしょう。

戦国時代には、若くして亡くなった武将、長生きして歴史に影響を与えた武将、様々な人物が存在しているのです。

そしてその死によって歴史は変化し、動いていく大きな流れを作っていきました。戦国時代の武将たちにはそれほどの影響力を持っていたのです。

この記事では、豊臣秀吉の死因や亡くなるまでの流れに注目して解説していきます。

豊臣秀吉の死因|病死

豊臣秀吉の最期は病死でした。しかし、病名は今日に至っても特定はされていません。

死因となったであろう病名をいくつか紹介していきます。どれも決定打に欠けるため、それぞれ一つの説としての推測です。

胃癌・大腸癌など消化器系のがん 下痢や腹痛があったため

しかし、代表的な症状である血便、血尿はなかった

がんの進行による嘔吐の症状も見られなかったが、必ずしも出る症状ではないので特定原因にはならず

赤痢 下痢、腹痛、血便等の症状が出る病気

消化器系のがんと同様、血便が確認されなかったため決定事項ではない

尿毒症 腎不全や前立腺肥大症が進行することで、排尿困難に陥る病気

意識障害という症状があるが、幻覚を見るなどして昏睡状態に至る症状は豊臣秀吉とは一致していない

脚気 ビタミンB1の欠乏により、全身の倦怠感、動悸、食欲不振等が起こる

重症化すると脳や心臓にまで影響を与え、一時的な昏睡状態に陥るが豊臣秀吉は昏睡していない

豊臣秀吉の最期

豊臣秀吉の武将としての姿を知っている人にとっては意外かもしれません。

豊臣秀吉は死の直前、錯乱状態で失禁するなど大変な状況でした。

愚かしい言葉を口走るなど、輝かしい武将時代からは想像もできない姿でしょう。認知症を患っていたという説もあり、ほぼ寝たきりで過ごす状態を送っていたようです。

当時も医者はいたものの、あまり技術が発達していなかったため人々は神仏に頼り、豊臣秀吉の治癒を願いました。

豊臣秀吉が病気になってからの出来事

朝廷では、秀吉の病が治癒することを祈願して神楽が催されました。

更に、加えて各地の寺社でも祈願が行われますが、やはり効果はありませんでした。

祈願も虚しく臨終を迎える豊臣秀吉ですが、その際に自分の財産(茶器、名画、名刀、黄金)を多くの人々に分け与えたようです。

有力な家臣だけではなく、下々の者にも贈られました。

何歳まで生きたのか

豊臣秀吉は慶長3年8月18日(1598年9月18日)に亡くなりました。享年62歳でした。

亡くなる直前の文禄2年(1593年)には豊臣秀吉と側室の間に息子の「豊臣秀頼」が生まれています。

秀吉は臨終間際になっても意味の分からない言葉を発したとされますが、最期まで秀頼の身を案じていたからではないかと言われています

豊臣秀吉は徳川家康を恐れていましたが、やむを得ず秀頼を預ける結果になりました。

武将の間での流行り病

戦国時代も現代と同様、風邪、インフルエンザ、麻疹、赤痢、梅毒など様々な病気が流行りました。

治療法が確立されていない病気が多く、そのために命を落とす人も多数いたようです。

武将の間でも同様で、過酷な戦国時代を生き抜くにはつらい状況に置かれていたのかもしれません。

中でも「がん」で若くして亡くなってしまった武将もおり病気が大きな脅威であった時代だと言えます。

「がん」で死んだ武将たち

武将 死因
徳川家康 胃がん
武田信玄 食道がん
伊達政宗 がん性腹膜炎

胃や食道のがんが多かった理由としては、戦国時代の大変なストレスが原因として挙げられます。

気丈な武将たちといえど、体に不調が出ることは防げなかったのでしょう。

現代と違い、食生活が充実していなかったため栄養バランスが偏っていたのも一つの原因です。

そのため、栄養素が足りないために病気を発症してしまった人は数多くいるのです。

武将が行っていた健康法

75歳まで生きた徳川家康は、薬草に関する研究に力を入れていました。そのため、知識量でいうと学者顔負けだったそうです。

また、趣味の鷹狩りでストレス発散や運動不足を解消していました。

また同じく、75歳で天寿を全うした毛利元就の健康法は「酒を控えること」でした。祖父や、父、兄が早死にしてしまったのは酒のせいだと考え、自分は全く口にしなかったようです。

豊臣秀吉の死後

豊臣秀吉の遺言

亡くなる直前の慶長3年7月、豊臣秀吉は伏見城に徳川家康など各大名を呼び寄せて遺言を託しています。

「自分の死後は豊臣秀頼に忠義を誓い仕えるように」という内容でした。

しかし、まだわずか6歳の秀頼に政治を任せることはできず、豊臣運営は別の方法を取りました。

豊臣運営は、五大老(徳川家康・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝)・五奉行(浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以)に政治の舵取りを任せたのです。

遺言の後に動いた家康

豊臣秀吉の死後、徳川家康は不穏な動きを見せました。

他の家臣の了承を得ずに、他の大名との婚姻を進めようとしたのです。

辰千代(後の忠輝・家康の六男) 五郎八姫 (伊達政宗の長女)
氏姫(家康の養女) 蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の嫡子)
満天姫(家康の養女) 福島正之(福島正則の養子)

婚姻に対して、五奉行たちは強い怒りをあらわにしました。これらの婚姻は秘密裏に無断で実行されようとしたためです。

徳川家康の不穏な動きはこれにとどまらず、有力な諸大名(増田氏、長宗我部氏、新庄氏、島津氏、細川氏)の伏見城を頻繁に訪問していました。

五奉行はこれを多数派工作だと判断し、徳川家康に遺書の内容を遵守する旨を誓約させますが、五奉行は強く警戒を続けたのです。

五大老の長老格である前田利家の存在が一触即発の状況に歯止めをかけますが、前田利家の死後、徳川家康と五奉行の関係は再度悪化していきました。

豊臣秀吉の死後の戦乱

豊臣秀吉の死後に起こった大きな戦乱は、天下分け目の大戦「関ヶ原の戦い」となります。豊臣秀吉の死をきっかけに、今まで見えなかった対立関係が浮き彫りとなり、大きな戦いへと進展していきました。

まず台頭したのが、豊臣秀吉の遺言を無視して動いていた徳川家康です。

徳川家康は大名同士の婚姻で次第に力を得ますが、五奉行の筆頭である石田三成の怒りを買いました。石田三成は一時襲撃計画を立てられるものの、事前に察知して難を逃れています。

一方、徳川家康の動きは、戦いへの備えを始めた五大老の上杉景勝を謀反の疑いがあるとし、討伐しようとしました

しかし、それに反発したのが上杉景勝、石田三成でした。石田三成は大勢の兵を集め、徳川兵がいる伏見城を攻撃します。

徳川家康は、石田三成が戦いに参加したということを知ると家臣と会議を開きました。

この会議は小山評定と呼ばれ、徳川軍が石田軍と戦うことを決定した会議です。

東軍が徳川家康、西軍が石田三成という二大勢力となり、関ヶ原で激突することになります。