真田幸村は、信濃国(長野県)で生まれた「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と高く評価された武将です。由来は、大坂夏の陣において徳川家康を追い詰め、本陣まで攻め込んだ活躍からきています。

真田幸村の妻である竹林院と側室たちは、真田幸村と共に幽閉された九度山で貧しい生活を送っていました。しかし、九度山での生活は、妻たちにとって最も穏やかに過ごせた時間でもありました。

では、真田幸村と共に過ごした妻たちの人生は、どのようなものだったのでしょうか。
この記事では、真田幸村の妻である竹林院と側室について詳しくご紹介します。

真田幸村の妻 竹林院と3人の側室

真田幸村の妻は、正室の竹林院と3人の側室です。妻が5人という記録もありますが、5人目がどういった人物か不明のため、記録に残っている生涯を共に過ごした妻は4人でした。

4人の妻との子どもは、全員で10人です。12人ともいわれていますが、5人目の妻との間に、2人子どもがいたとされています。

4人の妻たちは真田幸村と出会い、どんな人生を過ごしたのでしょうか。ここでは、それぞれの妻を子どもを交えながら紹介します。

竹林院(正室)

真田幸村の正室となったのは、竹林院です。

真田幸村にはたくさんの子どもがいましたが、九度山へ幽閉される前までは女児だけで、長男の真田幸昌を産んだ竹林院が正室となりました

竹林院は、豊臣秀吉の家臣である大谷吉継の娘で、1594年頃に真田幸村に嫁いだとみられています。

真田幸村は、豊臣秀吉のもとに人質として送られた真田家の一員でした。そのため、豊臣秀吉の上意による政略結婚で、有力な奉行である大谷吉継との縁は、真田家の豊臣政権下での地位を強化するために重要な役割を果たすこととなります。

竹林院との間に、全員で5人の子どもを授かります。しかし、息子の真田幸昌は大坂城で子孫を残さずに命を落としたため、この系統は真田氏において途絶えました。

また、娘の阿昌蒲(おしょうぶ)は伊達政宗の正室の愛姫の甥である片倉定広に嫁いでいます。

梅(側室)

梅は、真田幸村の出身地である信濃国の上田にいた頃に側室になりました。
真田幸村の家臣である堀田興重の妹または娘といわれています。

梅は、真田幸村の長女のすへを産んでおり、竹林院が嫁ぐ前の最初の正室とも考えられている人物です。

真田幸村は、関ヶ原の戦いのあとに高野山の九度山へ幽閉されますが、家臣の堀田興重は上田に残ります。その際、梅の一人娘であるすへを養女にしました。

真田幸村は、すへをとても気にかけており、九度山から手紙をだしたという記録が残っています。

きり(側室)

きりは真田幸村の側室で、家臣である高梨内記の娘です。

采女(うめね)という名前であったのではないかともいわれています。しかし、采女は息子の名前や高梨内記本人では?ともいわれており、詳細は定かではありません。

真田幸村と側室のきりとの間に2人の娘を授かりますが、次女の於市(いち)は九度山で亡くなりました。三女の阿梅(おうめ)の母親に関しては、正室の竹林院という説もあります。

関ヶ原の戦いのあと、真田幸村に仕えた家臣である高梨内記も九度山に入山しました。そこには、側室でありながらも娘であるきりも同行します。

きりは側室として、真田幸村の側で長く仕えたと伝えられています

隆清院(側室)

隆清院は、九度山で真田幸村の4人目の側室となりました。

豊臣秀吉の甥である豊臣秀次の娘ですが、側室となった経緯は不明です。

豊臣秀吉によって、父の豊臣秀次とともに一族の大半が処刑されます。ですが、隆清院は1人生き延び、なぜ逃れることができたのかもわかっていません。

真田幸村と隆清院との間に授かった子どもは2人で、三男の真田幸信は、真田幸村の死後2カ月後に誕生します。しかし、真田幸信は真田姓ではなく、豊臣秀次の旧姓である三好姓を名乗ったとされています。

その後、真田幸信は姉の嫁ぎ先の岩城宣隆に引き取られました。

真田幸村の妻|正室・竹林院の生活

真田幸村の正室である竹林院は、どの場所にも仕え生涯を共に過ごした妻でした。

竹林院は、どのような人物だったのでしょうか。ここでは、竹林院の生活に着目して、どのような暮らしを送っていたかをご紹介します。

関ヶ原の戦いで人質になる

1600年、豊臣秀吉の死後に関ヶ原の戦いが起こります。徳川家康を総大将とした東軍と石田三成が率いる西軍が、関ヶ原での戦いを含めて、各地で戦闘を繰り広げました。

真田幸村は、父の真田昌幸とともに西軍につき、兄の真田信之は妻の父親が徳川家康の家臣だったため東軍につきます。東軍西軍どちらにつくかの話し合いを犬伏で行ったため「犬伏の別れ」として語られています。

関ヶ原の戦いにおいて、竹林院は西軍の人質になりました。同様に、竹林院の義母である山手殿も大阪で西軍の人質として拘束されましたが、竹林院の父である大谷吉継の尽力により保護されます

このとき、竹林院も一緒だったことから、竹林院も西軍の人質とされたと考えられたのです。

九度山で真田紐を考案

関ヶ原の戦いで、真田幸村と父の真田昌幸の西軍が敗れます。2人は東軍にいた兄である真田信之の配慮によって、なんとか死罪を免れました。

その代わりに、高野山にある九度山に幽閉させられることとなったのです。竹林院も真田幸村とともに九度山に移住し、14年間過ごすことになります。

九度山での生活は貧しかったので、真田家は上田地域の紬技術を応用した「真田紐」で生計を立てていたといわれています。真田紐は、刀の柄を巻くのに使われていた頑丈な紐です。

この真田紐を考案をしたのが、竹林院と伝えられており、家臣たちに行商させていました。また、俗説として、真田幸村と父の真田昌幸が作製したともいわれています。

貧しい生活と徳川方の監視は厳しいものでしたが、竹林院は九度山で長男の真田幸昌と次男の真田守信を産みました。さらに、ほかの側室の子どもを引き取って養育しており、家庭的には恵まれた生活を送っていたといわれています。

なお、父の真田昌幸は九度山で病によって亡くなりました。

真田丸の策で挑んだ大坂城へ移住

九度山で貧しくとも穏やかな生活を送っていた真田家ですが、1614年に徳川家と豊臣家の関係が悪化します。

真田幸村は九度山を脱出し、長男の真田幸昌と竹林院たち一部の家族とともに、真田丸の策で挑んだ大坂城へ移住しました。

真田丸とは、大坂冬の陣で真田幸村が大坂城の南に構築した出城です。真田丸で敵の注意を引きつけ、大坂城の弱点を見逃しやすくしました。

たとえ真田丸が落とされても、その谷が大坂城を守りつづけてくれると見越して作ったといわれています。

竹林院は戦場に向かう息子に対して「自身の事は気にせず、父とともに生死を共にするように」と激励しました。しかし、真田幸村と息子の真田幸昌は大坂の陣で徳川家に敗北し、命を落とします。

真田幸村の死後|妻たちの行方

真田幸村の死後、妻たちの行方はどうなったのでしょうか。4人の妻は、それぞれ違う土地で残りの生涯を終えます

正室の竹林院
娘のあぐりとともに、大坂城を出て紀伊の伊都郡に身をひそめますが、紀伊藩主に発見され徳川家康に引き渡されました。しかし、罪は許され、その後娘のあかねを頼り京都に移住します。晩年は京都で過ごし、1649年に死去し生涯を終えました。

側室の梅
大坂の陣終結後に幕府の詮議により、大阪で処刑されたとの話が残っています。

側室のきり
真田幸村の死後、きりがどうなったかという記録はありません。大坂城へはともに移住したとみられていますが、落城したあとは不明です。

側室の隆清院
大坂の陣で、真田幸村や側室たち家族が大坂城へ移住したとき、三男の幸信を宿していました。そのため、娘のなほと一緒に父の秀次の母である瑞龍院のところに身を寄せて、難を逃れていました。

真田幸村の4人の妻たちは、生涯を共に過ごす中で貧しい生活を送っていましたが、九度山での生活が妻たちにとって最も穏やかで幸せな時間だったと考えられます

また、青年期のほとんどを人質として過ごした真田幸村にとっても、九度山での14年間の幽閉生活は、実りある時間だったかもしれません。