徳川家康は、長命であったためか、または天下人になったためか、多くの名言を残しています。
時として人生訓であったり、時として戦いの心得であったり、時としてリーダーの心得であったりします。
子である二代目将軍の秀忠に教え聞かせるように残した名言は、現在ではそのまま多くの経営者の心に突き刺さるものです。
武田信玄を始めとする強敵から学んだ戦いの教訓は、決して敵に油断をせず、自身やその仲間の気を引き締めるように聞こえます。
部下に対する名言は、思いやりを感じると同時に、部下の管理に対して客観的見方をしています。
この記事では、現在に生きる我々の教訓となる名言を学んでいきましょう。
徳川家康の名言
家康の名言を、3つのパターンに分けて紹介します。
パターンとしては、「戦いの名言」、「志についての名言」、「部下の扱いの名言」です。
家康は多くの名言を残していますが、それぞれの立場や役割で発しています。
これは、「経営者」、「管理者」、「若手社員」などの多くのビジネスマンの立場で参考になるかと思います。
それぞれの名言とその背景について、解説します。
戦いについて残した名言
「勝つことばかり知りて負くるを知らざれば害その身に至る」
この言葉は、負けることの大事さを説いたものです。
三方ヶ原の戦いで、武田信玄から大きな敗北を味わった家康は、大いに反省し、その負け戦から学びました。
勝つばかりで、負けを知らないのは、「自分の身に大きな害がそのうち降りかかるぞ。」と忠告している名言です。
「滅びる原因は自らの内にある」
この名言は、武田信玄が病で倒れ死んだ際に、味方の誰もが安堵した際に、家康が家臣に伝えたと言われています。
多くの戦いの歴史を見ると、「負ける原因は明らかである。味方の不和やゆるみ、欺瞞などである。」とでも言いそうな名言です。
「得意絶頂のときこそ、隙ができることを知れ。」
これは、「勝って兜の緒を締めよ」と同じ事を言っています。
家康は、戦いの中で、敵の隙をついた攻撃を心得ていました。
そして、この教訓を自軍に教え聞かせる名言です。
「一手の大将たる者が、味方の諸人の「ぼんのくぼ(首の後ろのくぼみ)」を見て、敵などに勝てるものではない。」
これは、自ら前線に出ていない将が、あれやこれやと口先だけで采配する将は勝てるはずがないと言っています。
ぼんのくぼというのは、味方の背中を見て前に出ていない事を表現しており、表現の仕方が面白い名言です。
「道理において、勝たせたいと思う方に、勝たすがよし。」
道理とは、「道徳的な正しさ」という意味があります。
理不尽な事が多い戦国時代に、「道徳的な正しさ」を求め、道理のある方に助力せよと教えています。
「平氏を亡ぼす者は平氏なり。鎌倉を亡ぼす者は鎌倉なり。」
吾妻鏡を愛読した家康ならではの言葉です。
家康は、吾妻鏡を読み解くことで、平家や鎌倉の滅亡の原因を理解しました。
この名言は、「滅びる原因は自らの内にある」に通じるものがあります。
「決断は、実のところそんなに難しいことではない。難しいのはその前の熟慮である。」
家康は決断のプロセスについて名言を残しています。
つまり、情報を集めて、あらゆる展開を想像して、結果として最も良いと思われる結論を導きだします。
そのため、深く考え、出てきた考えを「決断」します。
戦いの場では、迷いは命取りです。
「いくら考えても、どうにもならぬときは、四つ辻へ立って、杖の倒れたほうへ歩む。」
熟慮を重ねてから決断する家康ですが、時として考えても考えてもどうしようもない時があります。
考えてもどうにもならない時は、さすがに運頼みにせよという名言です。
決断できないままでいるよりは、根拠は無くともはっきりと決断せよという意味です。
志について残した名言
「人の一生は、重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。急ぐべからず。」
辛抱強く機会を待ち、天下人となった家康の代表的な名言であり遺訓です。
この意味は、「人の人生は重い荷物を持って遠い道を歩くのに似ている。急がない事だ。」という意味です。
「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。」
この名言も、家康の遺訓です。
我慢は無事に長く安らかにいられる元であり、怒りは「敵」と思いなさい。という内容です。
いかにも我慢強く、一時の感情に流されない家康らしい言葉です。
「及ばざるは、過ぎたるより勝れり。」
この言葉は、「過ぎたるは、及ばざるが如し。」という言葉を家康はアップデートして、不足は過分よりもマシだと言い切っています。
「過ぎたるは、及ばざるが如し。」という言葉は、古代中国の孔子の言葉です。
家康は、不足を知っているものは、満足した者よりもまだ精進するから優れていると言っているのでしょう。
「願いが正しければ、時至れば必ず成就する。」
この名言は、多くの経営者が座右の銘にするほどの名言です。
自分が信じた道を貫けば、必ず成就するという内容です。
「己を責めて、人を責むるな。」
自ら反省して、他人のせいにしない事を教えています。
よく他人の落ち度を攻める人がいますが、まず自分の行動を反省するように心がけたいものです。
「心に望みおこらば困窮し足る時を思い出すべし」
自分の心に欲が沸いたら、苦しかった時のことを思い出せという意味です。
後年の豊臣秀吉を見て、そうならないようにとの教訓であると思わせる名言です。
「天下は天下の人の天下にして、我一人の天下と思うべからず。」
この名言は、天下人の心得を説いたものです。
天下人は、自分だけの天下とは思わず、民がいることを忘れず民の為の政治を行うべしといった内容です。
読書家であった家康が、中国や日本の歴史を学んだ結果、導き出した答えです。
また、天下人になるまで、多くの部下や領民が家康を支えてきましたが、それを分かっているので、このような名言が生まれたのです。
「大事を成し遂げようとするには、本筋以外のことはすべて荒立てず、なるべく穏便にすますようにせよ。」
この名言は、現在にも通じる事では無いでしょうか。
「大きな目的を達成するためには、重要でない問題はなるべく穏便に処理して、重要な問題に集中せよ。」と、いう意味合いです。
「なるべく穏便に」という意味は、事前の根回しをするか、相手の要求を極力受け入れる取引が想像されます。
決して「事なかれ主義」ではありません。現在に通じるものがあります。
部下の扱いについて残した名言
「家臣を率いる要点は惚れられることよ。これを別の言葉で心服とも言うが、大将は家臣から心服されねばならないのだ。」
上司としての心得に関する名言です。
現代風に言えば、部下に尊敬される上司になりなさいという意味です。
「いさめてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある。」
上司の自分に、忠告・諫言してくれる部下は重要であるという名言です。
家康は部下の忠告や意見をよく聞きました。
そのため、判断を誤ったことは少なかったと思われます。
「多勢は勢ひをたのみ、少数は一つの心に働く。」
これは、小集団の強みを言っているものです。
小集団であれば、団結力が増し力を発揮できますが、大集団の場合、数で油断し返って力が発揮できません。
「重荷が人をつくるのじゃぞ。身軽足軽では人は出来ぬ。」
上司は、部下に責任を負わせて育てなさいという意味の名言です。
現代社会でも、部下を役職に就かせ、重大なミッションをこなさせる事で人を成長させます。
「家臣を扱うには、禄で縛りつけてはならず、機嫌を取ってもならず、遠ざけてはならず、恐れさせてはならず、油断させてはならないものよ。」
部下の扱い方についての名言です。
現代の管理者には、是非とも聞かせたい名言です。
徳川家康が残した名言の背景
家康は多くの名言を残していますが、これらが生まれた背景はどのようなものだったのでしょうか?
家康の人生の中で、名言が生まれた4つの背景があります。
家康の生涯から、名言が生まれた背景を探っていきましょう。
今川家の人質時代
徳川家康は幼少のころ、今川義元の元で人質として生活していました。
近年の研究では、人質というよりは、今川家の家臣として英才教育を受けていたと言った方が正しいようです。
そのため、武将としての知識を叩き込まれたと想像できます。
日本や中国の歴史書や兵法書、儒教や仏教の教えを学んだものと思われます。
吾妻鏡の愛読者
家康は大変な読書家です。
NHK大河ドラマの最終回では吾妻鏡を読む家康が登場しましたが、吾妻鏡を読んで、徳川幕府の設立の参考にした話があります。
「平氏を亡ぼす者は平氏なり。鎌倉を亡ぼす者は鎌倉なり。」という名言はまさに吾妻鏡を愛読したから出た言葉です。
武田信玄との戦いから得た教訓
家康は武田信玄と戦い、常に苦戦を強いられていました。
武田軍の強さは、「風林火山」の旗印にあるように孫子の兵法に基づいた用兵と、集団の管理方法でした。
武田が滅んだ後に、多くの武田旧臣を味方に引き入れていますが、集団の管理方法も一緒に取り入れたようです。
家康の隙を巧みについてくる信玄には負けてばかりいましたが、その都度反省し教訓を得ています。
豊臣秀吉を反面教師にした人生訓
好敵手であった豊臣秀吉は、晩年親類も信じられないほど猜疑心が強く、残虐になっていました。
そのため、自らの暴走や部下の不和など、豊臣政権の内部崩壊の種を残して死去しました。
その結果、豊臣政権は短命に終わりました。
秀吉の生き方が半面教師となり、その結果「徳川家康の遺訓」が残されたと考えます。
この遺訓が、この先長い徳川幕府の基礎となったのは言うまでもありません。